東北大震災 「風の電話」から
記憶を風化させてはいけない。
記憶はなくならない。
東北大震災
「風の電話」から
船岡 銀杏
二〇一一年三月一一日午後三時すぎ
この日、私は誰もいない教室で小学校40年間の勤務を終えて、この春に定年を迎える準備のために整理整頓をしていた。
一区切りをつけて職員室に戻ったが、そこには数人の職員だけだった。
そこでは、先ほど東北で大きな地震が起こったという話で、騒然としていた。
校長は「自分の椅子が、いつもと違いゆらりゆらりと揺れるようで、体調のせいか目まいがするようだと思っていた。」と、地震の様子を説明しているところだった。
私はすぐに職員室のテレビに目を移した。
そこには、大海原が映し出され、遥か沖合からすさまじい大波が巨大なビルのように陸に押し寄せて来るところだった。
私は教頭と二人で言葉を失っていた。今まで見たこともない映像に、現実か、幻か途方に暮れていた。やがて大きな絶望感が重く拡がりやりきれない悲痛に縛られて行った。 「これがどうぞ本当でないように」と強く祈るだけだった。だが荒れ狂う海は、抵抗しがたい圧倒的な威力で進撃していった。私たちは恐ろしい灰色の海が、真直ぐ岸に迫って来る大きな波の壁をただ見詰めていた。
やがて荒れ狂った津波は、三陸の浜辺や福島の海岸を汚れた黒い海水で埋め尽くし、多くの人の生命や住んでいた家々や、町や村という故郷を、しかもそこで共に育った想い出までもが一気に消滅させていった。
これが、二〇一一年三月一一日午後二時四六分に発生した東北大震災であった。
宮城県牡鹿半島沖
深度二四キロの海底に、
マグニチュード九、最大震度七の
周辺観測史上最大の地震が起こったのだ。
地震による被害は、計り知れない。
ここに一軒の白い電話ボックスがある。
しかし、この中の黒電話には電話線が繋がれていてない。
届かない電話である。
三陸海岸の片隅にあるこの電話のことを「風の電話」という。
この電話ボックスにどれだけ多くの人が訪れ、相手には届かないと知りながらも、
その向こうを思い浮かべながら、
震える手で受話器を握りしめたのである。
亡くした人たちと生き残った人を繋ぎ、
救いきれなかった切ない思いを語ることで、心の内奥を告白し、
伝えきれなかった思いを吐露したことで、
心のつかえが軽くなる。
亡くした人に許しを乞うことで、
やがておとずれる穏やかで、
神々しい気持ちに満たされるのです。
そして亡くした人と話せたことで、
新しい一歩を踏みしめる勇気をもらうのです。
この電話を設置することを、
考えた人の素晴らしさと知恵に感心します。
言い換えれば、この世とあの世を繋ぐ大切な電話だったのです。
この電話のおかげで、たくさんの人が救われたことを私は知っています。
その写真やテレビ報道、それに映画にもなったと聞いています。
そして、ある晩に
ふと、私は「風の電話」のテレビ放映を観た時のことでした。
こんな夢を見たのです。
そこには、こんな声が聞こえてきました。
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「人間はいいな、自分たちの思いを伝えることができるんだからな!」
「僕たちは、自分の気持ちさえ伝えることができないんだから。」
「僕たちだけが知ってる深い悲しみや怒り、絶望を誰にも伝えきれないこの不条理を、
一体誰に訴えればいいんんだ。」
「避けることができない天災の中で、人災の罪深さと無力さを思い知り、何も言えずに見過してて来た恨みを伝えたい。」
「どうしても、俺たちにも語らせてほしい。俺たちの目の前で繰り広げられた真実の姿を、残された人々に告げねばならない。」
「それをしないと、無残にも命を亡くした人たちの姿を、最後に目にした証人として語る責任が我々にはあるんだ。」
「それができないことが悔しい。!」
「そうだ、何としても語りたい。
本当に伝えたいだけなんだ。!」
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という諦めの声が、うめきのように私の耳に伝わってきました。
初めは何の意味か分かりませんでした。
しかも、いったい誰が語っているのやら、
見当もつきませんでした。でも一つひとつの言葉が重く突き刺さりました。
落ち着いて考え直すと、
これは大震災の生き残りの尊い証人たちの嘆きであることに、気付かされたのです。
しかしここで、大きな疑問があります。
すべて、みんなに「言うことができない」という悔しさを訴えているところです。
私は悩みました。なぜなのか?
《どうして自分の意見が言えないんだろう。》
みんなに共通して・・・
それにしても、「人間はいいな」とは?
そう一番手は僕だ。
宮城県南三陸町防災対策庁舎の2階にあった防災無線放送で、最後まで町民に地震による避難を呼び続けた職員がいた。
津波はその3階の屋上、2メートルを越えたところまで達したという。
僕はその屋上に設置された無線放送のスピーカーだよ。
僕はその時に、迫りくる巨大津波を前にして自らの命の危険を顧みず、職務に専念する一人の職員がいたことを伝えたい。
彼女の存在についてはその後ニュースにもなった。その彼女の行動についてだ。
僕はその日、2階にある防災無線の放送室にあるマイクに向かいながら、必死で放送を続ける一人の女性がいることに気付いた。
この放送室は、海から注ぐ川の側でよく海が観察できた。
言い換えれば、彼女はだれよりも一番多く海と語リ合っていたのではないかと思う。
海の変化についても誰よりも詳しいのだ。
この「ドドーン」という轟音と、ずしんときた大地震により発生する津波の
《前兆》と言われる異常な引き潮の動きを、誰より先に目にした。
それが、職員にとれば大きな災害の前触れだということを百も承知だった。
巨大地震後には、確実に大津波が押し寄せる。
その知らせも既に気象庁から事前通達として届いていた。
しかも津波が押し寄せば、いの一番に襲われる防災対策庁舎であることを、
誰よりもよく知っていた。
彼女の行動からは、なぜか恐怖心より
冷静さしか、見られない。
若い彼女をこれほどまで冷静に強くさせたのは、任務の自覚であった。
職員は、彼女の言葉を頼りに、
どれだけ多くの漁業従事者が生死を賭けて
生活していることを、
よくよく知っていた。
自分自身の命を守ることより、情報を届けることが優先させると決めていたのだ。
迫りくる津波の脅威に、職員にはどれほどの恐怖心で立ち向かったのか窺い知れない。
一女性職員のその勇気ある行動を覗いてみた。
その日、彼女はいつものようにできるだけ明るく、はっきりとした声で
町中に響き渡るように話しかけた。
恐怖など微塵とも感じさせない優しい声で、しっかりと放送し始めた。
津波が押し寄せることを正しく伝えることに集中した。
繰り返し、繰り返し
「直ちに海辺から離れて、
少しでも高台に避難する」ようにと
一人も残さず、すべての町民に届くように必死で語り続けた。
その声は、町民にもっとも聞き慣れた親しみある彼女の声だった。
いつもの声で呼び続けた。
「ねえ、お姉さんも早く逃げてよ。」
「他の職員さんのほとんどが、
避難しかけているよ。
そうだ。お姉さんはきっと、最後まで避難をしないと考えてるんだね。」
「だめだよ、そんなことは・・・」
「お姉さんのお仕事は一日中海を見ながら、その日の天気の変化を詳しく町の人に伝えることでしたね。
特に漁師さんたちは、自分の命の恩人として頼りきっていたものね。
南三陸では、毎日朝から夕方まで、
馴染みのある聞きなれた優しい声が、
町中に響き渡っていましたね。
朝の挨拶から海の様子や季節の変化まで、優しく話してくれましたね。」
その声は、漁師さんだけでなく、町のだれもが知っている声なんです。
その声を聞くとみんなが安心しました。
「津波がやってきます。直ちに海辺から離れて、高台へ避難してください。」
でも、今日の放送の声はまったく違います。
優しい声ですが、今までに聞いたことがなかった厳しさが伝わります。
「津波がやってきます。高台へ避難してください。」
繰り返し、繰り返し南三陸で暮らす、すべての人に届くように訴え続けたのです。
津波は、すでに沖合からぐんぐんと陸に迫り、防潮堤でせき止められている間にも、
驚いたことには、次々と家々や車が流されて行くのが見えて来ました。
お姉さんの絶叫に近い声が
「早く、早く高台へ」
「早く、高台へ」
「高台へ」と、すがるような声で響くのでした
「もういいよ! お姉さん。早く、はやく避難して」
とうとう津波は、対策庁舎前の町や八幡川にもあふれ返った瞬間、
防潮提を一気に乗り超え、災害対策庁舎の1階・2階と階段を埋め尽くして行くのでした。
あっという間のことでした。
黒い凄まじい波は、とうとう3階の庁舎屋上と海面がいっしょになってしまいました。
僕は恐ろしさのあまり一瞬目を閉じてしまうくらいでした。
「あっ、お姉さんが危ない!」
あれほど危険が近づくことをだれより、
よく知っていたはずのお姉さん。
最後までマイクを握ることを止めなかったお姉さん。
ところが今まで放送を続けて、
2階にいたお姉さんの姿が、
見えないじゃないか!
「まさか!まさか、お姉さんが波に飲まれてしまうなんて? 絶対にありません。」
「みんなのたくさんの命を救ったお姉さんが・・・
あんなに優しいお姉さんが、
どうして犠牲にならなければないんだ。」
「地震を憎むよ。津波を恨むよ。」
3階建ての災害防止対策庁舎には屋上床
2メートル超えた高さに津波が達した。
その赤錆びた残骸は、いつまでも海辺近くに晒されていた。
津波は、南三陸の海岸を破壊し尽くし、町は跡形もなく消え去りました。
一瞬にして、千に近い生命が消え去ってしまいました。
次は僕だ。
ここは宮城県の気仙沼の市街地である。
大地震によって引き起こされた津波の影響で
市街地の中心部に、全長60メートル、総重量330トンもの大型の巻き網漁船「第18共徳丸」が、無残にも陸に打ち上げられたままであった。
その姿は圧巻であった。
大きさといい、重量感といい、陸地から見上げる共徳丸の全貌は、海に浮かぶ優雅な姿からは、まるで比較にならなっかった。
しかも、その場違いな風景には、
見る人の誰もがそのバランスを欠いた不自然さに、違和感を抱かざるを得ませんでした。
では何故、
そんな巨大な船体が陸上に運ばれたのか?
しかも、
海から750メートルも離れた市街地に、
これも津波が運び込んだのか?
これだけの巨体を揺すりながら、その度に街を破壊しながら流されて来たんだろう。
普段、第18共徳丸は大漁で金華山沖などから、時間をかけて気仙沼の魚市場まで入港してきた。
その時の入港する大きなエンジン音は、みんなに喜びを告げる知らせとして、魚市場では知らない者はいないほどだった。
「でもその巨大船が一体どのようにして、こんな市街地の中心部まで運ばれたのか?」と気仙沼の人だけでなく、だれもが思うのだった。
でも僕は知っている。
なぜなら、
[僕は第18共徳丸なんだから・・・・]
「僕は陸地になんか、上がりたくなった。」
「海で、まだまだ働きたいんだ。」
二〇一一年三月一一日、
東北大震災が発生した。
地震後の大津波で、定期検査で気仙沼へ
寄港していた僕の巨体は動き出したのだ。
その時のことを伝えたいんだ。
津波は、初め静かに、市街地に浸水してきた。海水が街の道路をまるで川を辿るように、アッという間に満ちてきた。
それは、不思議で不気味な光景が次々に現れた。
道路は姿を変えて、もはや激流の河だった。
そこにゴミ箱が、プカプカ浮かんで流されてきた。
やがて、車が嘘のように浮いて何事もないように流されてゆく。
次には家の物干し台や建物の残骸などが、ゴミと共に藻屑のように流されて行くのだ。
続いて傾いたプレハブ住宅や何台もの車が傾いたり、回転し、逆さとなりながらも流されて、ついに沈んでいった。
ただ事ではなかった。
中にはボートや小さな漁船までもがまぎれて流されて来た。
こんなに信じられない光景が恐ろしさを忘れるくらい、
当然のように目の前を通過して行く。
津波は勢いよく流れ込み濁流と化して、濃い灰色をした水面はあふれ返り、
尋常でない大惨事に街は襲われて行った。
やがて、停留していたはずの僕の鋼鉄の巨体までが、とうとう動き出した。
「おい、おいおい、大変だぞ。僕の巨体が大海原から外れて、街を目指して行くのだ。
気仙沼の狭い市街地に流れ込めばどういうことになるのか?」
「やめてくれよ、街に向かうのだけは・・・」
狭い街の道路はもはや爆流と化していたのだ。330トンの僕の船体は街の中を泳ぎ出し鉄筋や看板、電柱はもちろん、建物や家々に当たり、なぎ倒しながら流された。
「僕には悲しいけれど、どうすることもできなかった。」
街中を流されて行く途中で、
いくつもの家々が瓦を乗せたままプカプカと海に浮かんだまま、
土壁は剥げ落ち、その土煙りで、
周りを燻らせながら流れていく姿を、
僕は目を滲ませながら、750メートルも流されてしまったのだ。
翌朝、波は何事もないように引いていった。
その後、気仙沼の市街地は、津波によりことごとく破壊され跡形もなく、
見渡す限り瓦礫でうずめ尽くされていた。
それは、街を破壊していっただけでなく、多くの死者をもたらせたのだ。
その復旧作業の中で、一段と偉容を放ったのは、第18共徳丸の巨体が中心街にさらけ出されていたことだ。
その大きな船体が街中の真ん中に、何のため、乗り上げてあるのかと、みんなは苦しい作業中、悔しさがこみ上げた。
その違和感は、あまりにも常識外れだった。
その巨体は、海に着水し船体の底が隠れて、はじめて優雅な船体のシルエットが強調されたのだ。
海上ではその勇姿が見事に映えていたのが、陸の上では不格好な水面下に隠れる部分までさらけ出した。まるで丸裸のようで、なんとも無様な全貌を現していたのだ。
「僕は必死に訴え続けたよ。
僕の仕事は、千葉県沖の海で、多くのイワシやサバを釣り上げ、近くの港気仙沼で水上げをする。それで気仙沼を元気に潤すことが、嬉しかったんだ。それを気仙沼の人々が喜んで待っていてくれることを、だれよりも知っているんだ。」
「僕は、絶対、陸になんかに上がりたくなかったんだよ!。」
「僕の巨体が移動することで、多くの民家や建物を破壊していくことが、
もしもそれで、人命を奪うようなことにでもなったら、どうしよう。
苦しくて苦しくて、津波を恨むよ。」
「それに、最後なんだけど、
僕の解体についてなんだ。
嬉しかったよ。
本当はもっともっと、働きたかった。
それが果たせない中で、みんなが僕の活用について、
みんなが心配して、多くの意見を出し合ってくれて感謝している。
「保存するか? 解体するか?・・・」
大災害を教訓とするメモリアルな震災遺構として、僕自身の訴えかけは大切だろう。
だけどその復興のシンボルとして、移動させるには、やはり巨体すぎるよね。
中心街にある、この位置からの移動では。」
「僕としては、これだけ気仙沼に愛されたことを決して忘れないよ。
みんなの心の中に生き続けていることだけで十分幸せなんだ。ありがとう。」
やっと、いよいよ私の番ね。
みんな良かったね!
それぞれのつかえた思いを、やっと吐き出せたわね。
さあ、私が最後に受話器に語りかけている。
私は、石巻市立大川小学校の校舎なの。
津波は一瞬にして全児童108人の内、
74人、教員10人が死亡と行方不明を出した。
私は見てきたの。
この運動場でみんなが集まる様子の一部始終を・・・
校内放送で、地震が発生し緊急避難するように一斉指示が出された。
先ほどの異常な「ドドーン」と突き上げるような激しい揺れを体験した直後のことで、児童たちは言われるままに、
守備よく訓練どおりに集まった。
普段の訓練なら、大川小学校が海より比較的に高台に位置していることから、
運動場に避難することで、それで避難完了となっていたのだ。
だが、
今回は異なる。
刻々と迫る大きな津波が、勢いよく北上川に押し寄せて来たのだ。
津波が迫って来る恐ろしさで、吐き出す子もいた。
しかもみんなには、津波が届くまでの時間は限られていた。
避難先を緊急に即断しなければならなかった。
「何もしないで、この運動場で待機していて大丈夫なのか?」
「さらに高みを目指すべきじゃないか?」
「だったら、裏山がいい。」
「しかし、裏山をよく知る者からは、倒木が多く、雪も残り、山は危険だ。そこで津波が来れば児童の安全を保障できない不安だ。」
限られた時間の中で、真剣な意見が交わされたが議論は嚙み合わなかった。
結局、急な裏山は避け、学校より少し高台となる200メートルばかり離れた
新北上大橋に向かうことになった。
児童たちが、学校を出た間もなく道路を歩き出したその時だった。
津波は「ゴーオッツ」という大音響とともに、支流の堤防を乗り越え、学校もろともに
子どもたちにも襲いかかったのだ。
何という不幸でしょう。
一瞬にして、波は子どもたちをさらってしまった。
今までの災害経験から、誰もが「この学校なら、水からは安全」と太鼓判が押されていたことに、何も疑わず淡々と従がわされた子どもたち。
教室の窓ガラスが激しく割れ、倒壊しかかった校舎を飛び出して、
校庭への集合の合図に、
恐ろしさに耐え震えながら立たされていた子どもたち・・・
「不安でいっぱいだったでしょうね。
あなたたち!」
両親に家族、教師たちは、悲しみに胸が張り裂けそうだ。
一体この間違った行動の責任は、誰が取ればいいのか?
子どもたちも、せいいっぱい先生を信じた。
先生たちもせいいっぱい考え抜いていた。
何故なら、可愛いかけがえのない大切な命を、
保護者に変わって預かっていることを、
痛いほど知っている。
私らが、この子らを最後まで守り抜かねばならないことを。
「私は、校庭を立ち去る児童たちの最後の行進の姿を見送り、心から無事を祈った。」
「私自身、押し寄せる津波の勢いが、
あんなに素早く、運動場を埋め尽くすとは思えなかった。」
それは子どもたちが立ち去ってから、間もないことだった。
「校舎の私に津波が満々と満たした後、私は悔しさでじっと立ち尽くしていた。」
「これでは救えない。
せめて、
子どもたちみんなを、
力いっぱい私の腕で、抱え上げたかった。
でも、かなわなかったわ。」
「なぜ、愛しいあなたたちを救えなかったの!」
「悲しい!」
「あまりにもせつない!」
高台にあると言われた屋上のない校舎の高さは、海上から10メートほどだったと聞く。
この北上川を逆流させた津波の勢いがどれだけの破壊力であったのか、
うかがい知れた。
これらは、ある深夜に語られた、
「風の電話」への便りでした。
それぞれ三者は、永い間深く傷つき、誰にも語ることなく耐え続けて来たはずだ。
しかしこの夜更け、申し合わせたように、
「風の電話」が空だと確かめて、集まったらしい。
自分の胸のつかえだけなら、まだしのげる。
でも、肉親の生存が目の前から奪い取られた苦しさは酷過ぎる。
失った生命は重すぎる。
その最後の承認として、僕らの存在は非常に大きい。
以上が私の見た夢のすべてでした。
やっと、重大な責任が果たせたという思いがしました。
三陸の海岸にある白い電話ボックス、
「風の電話」に
作者はまだ訪れてはいない。
夢でしか知らない。
この地震による災害の甚大さは、
計り知れない。
多くの人々の苦悩と悲惨さは
何よりも、苦しめたのは「喪失感」である。
人命の重さであると同時に儚さである。
天災ではなく、人災とも言えよう。
「なぜあの時」という、共通の後悔
取り返しのつかない絶望が問い返して来る。
失われた清い生命の輝きは残された者に 、
自責の念は追憶とし付き惑う。
歳月は風と共に、
心の穴に悲しみだけを詰め込むのでは、解決できぬものと
癒しの安らぎと平穏に
何度も何度も洗い清めら浄化し、
願いが一つに溶け合ってゆく、
人間の逞しい精神を生む。
記憶は、葬ることもまt、できない。