第3章32「水面に浮かぶは隠者の影11」
赤ずきん少女が踏み絵を迫られる中、オレの視覚はその結末を見届けるよりも、上空の白焔の幕が破られる様に向けられた。
ゾワリと全身の汗腺が開くような掻痒感、それなのに芯を震わせる寒気。本来なら夏と冬にやってくる肌の季節変化が一度にやってきて、オレの全身は病状百貨店となっていた。…これ以上巧い言葉で表せない、オレの言葉選びの棚の稚拙さに絶望し、頭を打ちつけたくなる。
負の感情に呑まれ、死神に魅入られたらしいオレの震える身体は、先ほどから止まる気配が全くしない。それどころか、工事現場の掘削機よろしく、歯も一緒になってカタカタと打ち鳴らし始める始末だ。…数日前にも同じような危険があったにも関わらず、花畑が繚乱するオレの思考回路に嫌気が差してくる。
白を裂く光をこのまま指を咥えて眺め続けていたら…。オレだけじゃなく、この場にいる全員を等しく祝い殺すだろう。見てはならない光だと解っていても、目を離せば光の巨大なナイフがこちらの心臓を貫いてくる錯覚に溺れ、釘付けにされた視線は簡単には戻らない。
無意識が抵抗しろと叫んでいるが、既に反逆心の大半が奪われてしまっている。「感情が凍る」という表現がここまでピタリと当てはまる状況は、今まで生きてきた30年近くを振り返っても簡単には見つからないだろう。
それでも無意識は偉大だった。感情がまだ動く意識帯を必死にかき集め、一時的に取り戻した思考で外套の裾を掻き抱いた。レイラさんが掛けてくれたこの白い外套が、目に見えない狂気から護ってくれているような気がしたのだ。
そのお陰で、何となくだが…。老司祭が放ったであろう光の正体について、広い思考の海の隅で一瞬だけ跳ねたような気がした。
(あの光、どこかで見た事があるような、気がするんだけどーー)
雑把に検引した記憶辞書で当て推量に調べてみるが、やはり命の危機が間近にあると思考が上手く纏まらない。的確に狙った記憶を都合よく引き出す事ができるなら、現実でも労する事なく仕事も勉強も出来るのだ。
いよいよ八方塞がりかと、諦めに縛られたオレの心はーーパシャリと何かが弾ける音が解放してくれた。
それは、もう形を維持する事すら出来なくなっていた水の篭手。自分の命が助かる為、窮地を脱する為ーー与えられた水を吸い取る事だって出来た筈なのに、頑なに給水を拒んだ少女の怒りのストレートだった。
「いら、ない。うらぎりもののほどこしは、ぜったいにうけない…!」
もう意識を正常に留める事が難しいのだろう。ピンクの髪の隙間から見える白い額に、命の危機を知らせる汗が滲み出ている。
滝のような、という表現があるが、今の赤ずきん少女の現状はそれが適当だ。高熱にうなされている人間が、無理やり身体を動かしているような弱りきった姿を、現実世界でも何度見た事か。
躰を動かす事すら難しかった筈なのに、しかし少女の口から出たのは泣き言ではなく。自らの流儀に反った行動を善しとしない、女騎士のような気高さだった。
「なら決まり。あたしの頭が変になる前に、こいつの首をへし折るわ」
「そうですね。あの光に晒されている以上、ソレイユ様も行く行くは狂人の仲間入りでしょうし。今のうちにお二方を屠っておくのも、今後を思えば悪くない選択でしょう」
その気高さに免じて介錯をしてやる、とでも言いたげな格闘姫たちの非情な沙汰。こりゃもう、どっちが悪役だか分かんねぇな…。
とはいえ、物騒極まりない二人の言い分は流石に聞き流せない。だが、一刻を争う現状で無駄な会話は省かなければならない。…あぁ、いつもの現実世界の交渉の時間か。
「ちょ、ちょっと待ってほしい!オレに触れて水を貰う、って案は…ダメなのか?」
「え…?」
ぶっつけ本番、回る口に任せてトンデモ提案を引き出したオレ自身でも驚いたが、何より変化があったのは赤ずきん少女だった。見るからに怒りが鎮まり、二の句が継げない様は、まさに豆鉄砲を食らった鳩。
当然、オレたち二人がそんな有り様なので、残った格闘姫たちの衝撃は計り知れない。主に、驚愕の方向へ感情が振り切れている。
「か、カケル様!?どうかご再考をっ!今のプリシラ様の危険性を、カケル様は解っておりません!今のプリシラ様は、言わば乾ききった大地の砂。無遠慮に水分を奪っていくウワバミのようなものですよ!?」
「そうよオジサン、折角干上がらせた女にわざわざ餌を与える必要なんて無いわ!頭の中が花畑なのは、そこの脳筋女だけにしておきなさい!!」
猛り狂う焔の如く、一気にまくし立ててくる言葉責め。あり得ない、と眼で訴えるソレイユはまだ距離があるから良い、視線だけなら受け流す事もできるからな。
だが、オレの背後には浄化する為に身体を支えてくれているレイラさんが居る。掌が改めて肩へと置き直され、クルリとオレの身体を180度回転させられてから、ようやく状況を察して「あ」と言葉が出てくるオレの何と鈍間な事か。
「ま、待ってくださいレイラさん!せめて説明させておぼぼぼぼぼぼ」
格闘家相手に近接距離はよろしくない。ガッシリと拘束された肩を外す事など叶う筈もなく、女性の腕力任せに挙句前後に激しく揺さぶられるオレの躰。
レイラさんの浄化を纏う徒手空拳は、彼女の細い腕を凶器に変貌させる事を知っていた筈だが…。実際に体重と体格差のある筈のオレの頭蓋骨の中で、脳みそシェイクを作る勢いで振り続けられると、出涸らし無しで出来上がるのではないかと恐怖すら覚える。
まるで子供の癇癪、危険な真似っ子遊びの延長。しかし格闘家のそれは、命に関わる絶技へと変貌する事を改めて思い知った。良い子の皆は絶対に真似しちゃダメだぞ…!
「せせせせせつつつつつめめめめめいいいいいをををををを」
「……むぅ。確かに、カケル様の言い分も聞かなければいけませんね」
震える声ながらも、何とか振り絞れたのはたった5文字の言葉。あまりの振動の速さに、バターでも出来上がるのではないかと違う命の危機を覚える。
それでもオレが言いたい事を、レイラさんは汲み取ってくれたらしい。膨れる可愛らしい表情を見せ、不承不承ながらも懺悔の許可をいただいた。
前後左右が歪んだ視界は、まだ正常には戻らない。しかし、レイラさんの気分次第で赦しが取り消されてしまう。
オレに与えられた時間は少ない。込み上がる胃酸を堪え、呼吸を整えていざカマクラ。
「た、単刀直入に言います。レイラさんとソレイユ、今はあの赤ずきんと協力するべきです。それとも、あの老司祭がバカスカ撃ってる変な光を浴びたらどうなるのか…ここでもう一度実証する必要がありますか?」
「そ、れは」
戦闘に慣れているレイラさんやソレイユの事だ、オレより広い視野で何を優先しなければならないのか、当然理解できている事だろう。その上で私情を互いに挟んでいたのだから、戦闘素人の意見と言えど無視はできない筈だ。
そも、矢を受けなくとも光を浴びれば状態異常に掛かると、自分たちの口から言葉が出ていたではないか。長期戦なんて持ち込まれたら、自身の恩恵で思考汚染を自己浄化できるレイラさんはともかく、その他全員はもれなく使い物にならなくなる可能性が高い。
いくらvs複数人に慣れたレイラさんでも、狂化する可能性のある爆弾を抱えたまま立ち回る事は難しいだろう。目の前の命のやり取りよりも、大局を俯瞰しなければ。
…これもゲームで学んだ事だ。目の前の相手ばかりに気を取られたら漁夫られる、なんて事はよくある話。架空の世界で起こった事が、現実世界では起こらないだなんて、一体誰が決めたのだろう。
「だったら今は、三人で争っている場合じゃないでしょう?レイラさんもソレイユも、今は手足を収めてーー」
「寧ろ、三人で争ってもらった方が儂としては助かるのじゃがなぁ?」
そんなオレの必死な弁解は、悪魔のような風貌へと変化した空からの使者によって遮られてしまう。
心にもない薄い笑みを貼りつけた、冷たく鋭い法王の眼光は。まるで罪人の弁など聞くに値しないと、唾棄するかのような強い拒絶に満ちていた。
●どこかで見た事のある法王の光
主人公君、ここでもド忘れ。作中でも度々あるド忘れですが、図ったように忘れているんですよね、コレ。
女神様も第2章25で気にしている通り、自分の夢の世界であるにも関わらず「忘れる」事そのものが異端。見たくないものに蓋をしているのか、それとも異世界だから知らないのか。
…意外と忘れがちな設定ですが、作中のこれまでの表記はあくまで夢世界であって、異世界ではありません。もしここが夢世界ではなく異世界であれば、それは忘れるというより…。
●主人公君、敵を引き入れようとするとか日和ってて草
フワフワしているように見えて、このファルス戦における彼の立ち位置は一貫しています。
身柄を拘束しようとするファルスは撃退を勝利条件としていますが、あくまでプリシラに関しては「動きを止める事」としています。ヒロインちゃんたちのように排除する方向には思考を傾けていません。
味方側に引き入れられれば戦闘も回避できるし、ヒロインちゃんたちの負担も軽くなるーーそんな甘い考えを巡らせているようです。うーんこの脳内お花畑。
説得できるのであれば、確かにそれが最善です。…が、この先も敵対者を説得できるとは限りません。甘い考えばかり持っていると、いつか現実の高い壁に阻まれますよ…?