第3章30「水面に浮かぶは隠者の影10」
格闘家にとって、拳と脚の届かない中・遠距離からの魔法ほど相対したくない攻撃は無い。逆に対峙する相手からすれば、どうぞ私を遠距離から狙撃してくださいと大々的に吹聴しているようなものだ。
だから当然の権利であるかのように、彼女たちは対抗手段を持ち合わせている。例えばレイラさんは撃ってきた魔法そのものを打ち消す浄化の恩恵を、ソレイユは影を伝って回避・反撃する影纏いの恩恵を。
では、赤ずきん少女は何の恩恵を持ち合わせているのだろう。答えは簡単、「何も無い」である。精々が水の盾を鋳造して防ぐ事くらいだが、その強度は推して知るべし…との事らしい(ソレイユ談)。いや充分、何もない所から水を十全に扱えるだけでも凄い事だとは思うのだが。
さて、売れない詩人の独白から少し時を遡って。時間はレイラさんが豪速水弾を投げ終え、モグラよろしく瓦礫の山に再び潜った所へ。あっという間の出来事に、思わず現場を目撃したオレたち3人は思考を停止していた。
「あ、あんの…土竜女ァッ!河童女が折角良い感じに干からびてきたってのに、勝手に餌を与えるんじゃないわよォッ!!」
真っ白に漂白された思考へ真っ先に怒りをくべたのは、瞬間湯沸かし器も驚きの速度で顔から湯気を出すソレイユだ。遅れて、彼女の怒りと同じ内容をオレも疑問と困惑として思考に色付けていく。
何故、あの場面で赤ずきん少女に有利な武器を与えようとしたのか。先のソレイユに対する言葉が冗談の類ではなかった可能性も否定しないが、オレという木偶の棒の安全を全く考慮していなかった突飛なレイラさんの行動…その意図がまるで掴めない。
ならば逆に、赤ずきん少女に加担しなければならない理由があったとか?それは…あり得ない。
レイラさんは自国敵国問わず、その命を狙われる指名手配犯だ。彼女の視点に立てば、いずれ立ちはだかる敵を手塩に掛けて拵える事になる。…つまり、この考え方もハズレ。
なら、もっと単純に考えて良いのだろうか。さっきレイラさんが言っていた「瓦礫から救出しつつ赤ずきん少女を殴り飛ばす」方法って、つまる所はーー。
(もしかして、ただの役割分担?)
人助けは自分がするから、貴女様は戦闘を任せた。成程、得意の押し付けという奴ですか。
種を割れば、なんと稚拙な発案。戦闘素人でも思いつくだろう凡案に、思わず肩の力が抜けてしまう。
同時に、「成程」と腑に落ちてしまう自分が恨めしい。哀しい事に、マイティたちを始めとした暗殺者集団へ、置き物を他所に単身突っ込んでいった数日前の彼女の行動が、根拠となっていた。
だが、オレの思考潜航はここで打ち止められる。戦況が、変化したからだ。
「ッ!オジサン、伏せなさいッ!」
「え…?」
ソレイユの言葉と、雲ひとつ無い青空が突如白い焔の幕に覆われたのは、ほぼ同時。数秒と経たず、幕が光の暴力を受け止めた。
爆音、轟音。その理不尽を受けつつも、まるで天上の白幕はびくともしない。地上に立つオレたちは、明らかに白焔に護られているのだ。
例えるなら、夏場の雨音か。酷い雨風が必死に生活空間へ侵入しようとするあの様は、安全と解っていつつも時折恐怖を覚える。今オレが体験している恐怖を、何倍…何十倍にも希釈した現実が、酷く懐かしく思えた。
「う、あ」
衝撃は伝わらずとも、眩しさは地上まで届いてしまう。くらりと頭から色が抜け、代わりにナニカ良くない感情が侵食すル。
割れソウな頭の痛ミと、世界ガ回る感覚ガ一度に襲いかカり…込ミ上がル気持ち悪サから、吐き気ヲ催す。堪らズ膝から崩レ落ちたオレは、蹲るヨウに身体ヲ掻き抱イタ。
痛い、痛イ、イタイ。心臓が高鳴リ、生命の危険信号ガ発せラレてイル。
サムイ、サmuイ、samuイ。自我ガ、冷タイノニ溶ケテいく。繋ギ止メタクテも、形ガ保テナイ。モウ、限界ダーー。
「カケル様ッ!!」
瞬間、意識が急速に色付いていく。思い出したように身体が空気を求め、急ぐように肺胞が酸素を食い漁る。血も廻っていなかったのだろう、オレの身体の芯は冷えきってしまったらしい。
寒さで震えるその背中に、小さいながらも熱を与えてくれる光があった。
「…間に合って良かったです。私の言葉、聞こえていますか?」
「は、はい。聞こえて、ます」
ごく当たり前の確認に、疑問符がオレの頭上に生まれる。眼前で安堵するレイラさんの表情の意味が、理解できない。
一瞬の記憶喪失ーー上空の光を浴びた時から想い起す事を拒んでいるオレの身体は、恐らく良くないものに憑かれたのだろうと、足りない頭ながらに考えてみる。
それであれば、レイラさんの浄化の恩恵が今も働き続けている事にも納得できる。オレの身に何が起こったのかは解らないが、感謝の言葉を伝えなければ。
「では、こちらを。カケル様のお部屋に残っていましたので、この場までお持ちしました。次はどうか、肌身離さずお持ちくださいね」
オレが口を開くより先に、レイラさんが見覚えのある白外套をこちらに差し出してくる。そういえば、教会の豪華牢屋の中に置きっぱなしだったなぁ。
今ここで何故?という疑問は、不思議と浮かんでこなかった。正体不明の疲労感が、オレの正常な思考能力を奪っていた為だろうが…。それを抜きにしても、レイラさんの差し出す白外套は受け取るべきだと感じた。
「すみま、せん。気を付け、ますね」
まだ倦怠感がオレの口を重くしているらしい、呂律が上手く回らない自分自身にチクショウと文句を垂らす。
その感情を読み取ったのか、レイラさんがしずしずと、白外套をオレの身体に羽織らせる。近くなる少女との距離と呼吸音に、必然、オッサンの心は跳ね上がった。
真っ直ぐにこちらを見つめるラズベリー色の瞳、少し朱が掛かった柔らかな頬。目元は歳相応に潤み、まるで果実に口をつけんとする乙女のそれ。
それらから逸らすように、オレの視線は横を向ける。何故って?そんなの、ひと回り年下であろう少女の顔を、まじまじと見つめる趣味は無いからだ。
ーーそうに決まっている。いくら夢世界だろうと…劣情に駆られる事なんて、あってはならない。
「さて。私の仕事は粗方終わっていますが、カケル様のこの状況を鑑みて、これ以上あの廃墟の中を潜るのは難しい。…恐らく、これが最後の機会です」
そんな甘い空気を惜しむように。目の前の慈愛に満ちた少女は、鋭い視線を赤ずきん少女へ移した。
緩慢とした感情の切替に、眼前で見ていたオレの背筋に冷たい指が走る。思わず逸らした目が悪かったのか、と自省するあまり、レイラさんと入れ替わるように彼女の横顔にオレは視線を戻した。
そこに在るのは、レイラさんの黒い手袋に触れない程度の高さで浮かび上がる物体。浄化の恩恵に触れる事を拒み、しかしその場から離れようともしない水の珠。
それをどこに隠し持っていたかは、今は突っ込まない。それより問題なのは、先ほど投擲した珠と比べて、小さなレイラさんの掌ですら収まる程に小振りである事。
崩壊した水の城を支える緩衝材、それが赤ずきん少女の恩恵だ。つまり、彼女の恩恵の全てがそこにあると言って良い。
それなのに、たった野球ボールにも満たない水の塊しか持ち込めなかった事が問題なのだ。
「ここにあるのは、プリシラ様が使用していた水。あの食事処だった廃墟の中で探し出せた、ほんの一部に過ぎません。動かしてはならない水、治療に割り当てるべき水を除いた、今貴女様が自由に使用できる恩恵です」
その答えは、削ぎ落とせる水が無かったからだった。つまりレイラさんは、こう言いたいのだ。「これが正真正銘、赤ずきん少女の最後の水」だと。
そんなものを、この場で提示するなんて自殺行為だ。ほんの少しでも水があれば、この力関係は崩れてしまう。
なのに、レイラさんは水を差し出してまで彼女の命を救おうとしている。一体、彼女の心境の変化はどこにあったのだろうか。
瓦礫の中で生き埋めになった追手たちは、水によって守られている。当然だ、緩衝材が無ければ廃材サンドイッチの具になってしまうのだから。
ソレイユとの交戦中、赤ずきん少女の得物が何故か急蒸発した。つまり、赤ずきん少女は何かに気付いて水を防御に回さざるを得なくなったと考えられる。
白焔の幕から漏れたあの光を浴びて、オレは脳が溶けそうになった。長時間あの思考に汚染されていたら、果たしてオレは元の自我を保てていただろうか。
自力で瓦礫の山から脱出できた追手が、オレと同じように光を浴びたのだとしたら。オレよりあの光を長く浴びていたであろう彼ら彼女らの自我は、どれだけ歪んでしまったのだろう。
「プリシラ様。私の元に下るのであれば、今なら命は見逃しましょう。ですが拒むのであればーー非常に不本意ですが、そこの影女と共に貴女様の首をもらい受けます」
「オイ、誰が影女よ頭猪女」
何となく。気の迷いのように何となく。オレの脳内で、矮小な点同士が唐突に結ばれた音がした。妄想の類でしかないオレの推論。考えたくない結論は、こう囁いた。
つまり、およそヒトと呼べなくなった盲信者の介錯を、レイラさんはしてきたのだと。
(レイラ、さん)
彼女の名前を心中で呟くオレの感情は、ひどく複雑だ。だが、今から行われるであろう踏み絵に、口を出す権利はオレには無い。
…レイラさんの投擲が始まろうとしている。防ごうと思えば射線上に割って入る事ができる、半目で睨むソレイユは動く気配がまるで無い。木偶の棒も、助け舟なんて便利なものを浮かべられる筈もない。
「返答は、いかに」
水の珠は、レイラさんの掌から離れる。同時に光が白焔の幕を貫き、再び漏れて出た。
迫る選択。赤ずきん少女は、果たしてどちらの未来を選ぶのだろうか。
●主人公君、どうして急に言葉が溶けたん?
前話の内容、「法王のタロットを発動した、ファルス司祭の光矢の効果を、もし受けたらどうなるの?」の答えになります。
女神様が説明していた通り、このファルス司祭の通常攻撃は魅了効果があり、たちまち法王を崇める信徒となります。
光矢が本体かと思いきや、その威光すら目視するのは危ないとか…。こんな攻撃、どうやって避けるんです?
回避方法は、光矢を目視しない事。その為、開けた場所で放たれたら、ほぼ詰みです。
魅了に抵抗する魔力があれば意識を保つ事は可能ですが、それでも10回に1度程度はどうしても魅了に引っ掛かってしまいます。法王故の魔性の光、性能は伊達じゃありません。
実はソレイユも、プリシラも、魅了に掛からないよう魔力を防御に回している為、余力が無かったりします。この夢世界において100%耐性を持つのは、自由に動く事ができるのは浄化の恩恵を持つヒロインちゃんくらいなもの。もう全部、ヒロインちゃんだけで良いんじゃないかな?
…え?なら女神様にも魅了が効くんじゃないのかって?
残念ながら女神様は当然のように、外道特権によって特殊系弱体化を無力化してきます。外の世界の女神様ってすげぇや…。
●見覚えのある白外套
第1章閑話1や第2章21で登場した、ヒロインちゃんから譲られた外套です。
ここでも説明されている通り、この外套は(ヒロインちゃんが恩恵をしっかり込めていれば)呪いの類を弾く特注品。…え?この説明はn度目?
ならばこの一言でこの項目は事足りるじゃないですか、「この外套の効果で法王の意地悪な魅了は無力化される」って…。くすん。
尚、この外套に力を籠めておくようにと助言したのは女神様だった模様。