第3章27「水面に浮かぶは隠者の影8」
相手の思考を全て読み取ろうとするなら、まずは理性を殺して狂気に染まるべし。狂気から見た景色こそが、読心術の極致であるーー。
誰の言葉か、はたまた造語かは分からない。恐らく後者だと思うが、言わんとする意味は何となく理解はできる。
だが残念ながら、オレはそんな道を究めるつもりは毛頭ない。覚妖怪になりたい訳ではないからな。
とはいえ他人の感情変化に疎いオレでも、特に鋭く反応する感情はある。この夢世界で何度も浸かるほど浴びたそれはーー恐怖だ。
「ぅ、ぅ」
自分の命だったモノを簡単に切り捨てられる、老司祭の狂気が解らない。
自分の命だったモノの末路に思いを馳せる、老司祭の狂気が解らない。
黒い海に溶けて色づいていく白色の如く、オレ自身の理性が徐々に乱されていく気がする。狂気を理解しようとする度、オレの理性は竦み、蝕まれ、削れていく。
ついには何も残らなくなってしまうのではと、錯覚してしまう程の感情で、オレは恐怖し…身体が震えた。
「そう答えに窮する事を聞いてはいないでしょうに。ほれ、儂の末路はどんなものじゃったか…答えてもらえるかのぅ?」
真っ直ぐに、直視できない表情でこちらだけを見つめてくる。どう足掻いてもオレには答えられないものと、解っているかのようだ。
実際、老司祭のこの疑問に答えられるのは見届けたレイラさんたちだけだろう。ちょうどオレは、老司祭の偽物たちの顛末には立ち会っていないのだ。答えようにも答えられない。
ーーけれど、いくら待てどもレイラさんたちが口を開く気配はない。「儂は今、そこの男と話をしておるから黙っていなさい」と、眼で圧をかけているような錯覚さえ感じるし、実際そうなのだろう。
思わず強く抱えられるオレの身体、そこから感じる彼女の体温が唯一の鎮静剤だったが、薬である以上は耐性も現れる。老司祭の潰されそうな圧から早く解放されたい気持ちと、絶対言うものかと反発する感情の板挟みは、オレの精神を荒削りにし、呼吸を乱していく。
「そ、れ…は」
いよいよ精神が耐え切れず、口を開きそうになったその時。助け舟は宙に浮く女神様から降ってきた。
「キミの自動人形は、女教皇ちゃんと隠者ちゃんによって下された。…これで満足かい?」
「ジドウニンギョウ…。はて、先ほども同じ事を仰いましたな。しかし察するに、貴女様の指した単語は影染兵の事なのでしょう」
影染兵…えぇい急に変な造語を吐き出すんじゃない!余裕のない今のオレの頭で、これ以上物事を処理するのは無理だぞチクショウがァ…!
けれども”ヤツヨ”が矢面に立ったお陰で、ほんの少しだが心に余裕が戻ってきた。言葉を全て理解しようとする事は難しくとも、今なら断片的に情報を聞き取る事ができるかもしれない。
「…であれば残念ですのぅ。つまりそれは、その儂は誰の命も狩れなかった、という事ですからなぁ」
ーーつまり、この老司祭は敢えて。フローア村の教会にオレたちが滞在している事を知った上で、死ぬと解っている偽物たちを特攻させたと?ほんの少し取り戻した冷静さも、感情で再び余裕を食い潰していく。
老司祭の目的?今そんなものは詮索しない、後でじっくり推測すれば良い。だから、今オレが欲しいのは。この老司祭を目の前から排除する方法だ。
この老司祭は、どう在ってもオレの精神を削りに来る敵。偽物であっても本物であっても、決して相容れない存在なのだと確信した。
「…そうそう、ボクからもキミに聞きたい事があるんだよ」
その意図を汲んでくれたのか、”ヤツヨ”から言葉が再び降ってくる。宝杖の先で焔の塊が生み出され、それに煽られて彼女の髪やらワンピースやらが靡き始めていく。
オレの位置からでは“ヤツヨ”の表情は窺い知れないが、何となくーー盛大に叩き起こしてしまった虎の寝起きに近い感情が、張り付いているような気がした。
「キミも、タロットを扱う事が出来るだろう?どこでソレを手に入れたのか、教えてくれないかい?」
「タロット…あぁ、この忌まわしい呪札の事ですな」
女神様の感情に当てられたのか、老司祭の手にあった光の弓矢が一瞬で形を変え、光の札を浮かび上がらせる。教会で偽物たちが見せた、法王のタロットカード…なのだろう。
それを、力の限り握り潰して力を解放させた。教会でも見せた無機質な光の暴力が、老司祭の手の中で厳かに踊っている。
「回答は拒否させていただく。儂も、まだ死にたくはありませんからのぅ」
「そうか、ならボクからの言葉はもう無い」
宝杖から放たれる焔の珠と、光の洪水がぶつかり合う。遠距離で放ち合う焔と光が、衝撃と熱気の刃になって周囲の温度を上げていく。
一合、二合、三合と撃ち合う魔法を直視してしまい、瞼の裏まで焼き尽くすような光の暴力にオレの眼は遂に眩んでしまった。
(あの女神様、勝てるんだよな…?)
勝算があって戦闘を仕掛けたのだとは思うが、正直この場に居続けたくはない。いつこちらを襲ってくるかも分からない爆音を間近で聞き続けて、オレの正気がいつまで持つとは思えないからな…!
「カケル様、今のうちにここを脱しましょう!幸い、ファルス様の相手は“ヤツヨ”様がしてくださいますし、プリシラ様の相手もソレイユ様に堂々と押し付けられます!」
「前半部分は諸手を挙げて賛成しますがレイラさん、赤ずきんの相手を押し付けるのは流石にどうかと思います…」
そう、忘れてはならないのは赤ずきん少女の対処だ。厄介な事に、今の彼女に下手なダメージを与えると、瓦礫の山に取り残された追手たちが下敷きになってしまう。なるべくなら、多くの命が失われるその方法は避けたい。
ほぼ彼女にダメージを与えずにこの場を脱する必要がある以上、最適解はレイラさんに浄化の恩恵で力を吸い取る水の力を防ぎきってもらう事の筈だ。いくら命の危機と言えど、彼女の存在を放置できる程の事態好転ではない筈なのだ。
「カケル様、どうかご理解ください。これはカケル様の為を想っての提案です、一手で暗殺者を2人も排除できる妙案なんです!何ならソレイユ様には念入りにプリシラ様に力を奪ってもらえるよう、エリアス湖の水をこっそり送る事もしましょう!」
彼女の選ぶ言葉の端々に薔薇もビックリの量の棘を感じ、オレの顔が引き攣っている。願わくば、今の呟きをソレイユが聞き耳を立てていない事を願うばかりだ。
ただでさえ共闘の難しい間柄なのに、これ以上棘を磨かないでくれーー。
「オイコラ腹黒教皇女、自分だけトンズラしようとする上に敵に塩を送るなんて良い趣味してるじゃない。でもオジサンをここに置いていくなら聞き流してやってもいいわ、さっさとアンタだけ消えなさい」
しかし、オレの儚い願望は一蹴されてしまう。
ぬるりとレイラさんの背後から現れたソレイユ。彼女に張り付いている笑顔には怒りと蔑みの感情があると、声だけでこちらにも伝わってくる。
「…カケル様、暫くこちらでお待ちください。不届き者に制裁を叩き込んできます」
売る喧嘩師あれば、買う喧嘩師あり。おもむろにその場にオレを下ろしたレイラさんは、ツカツカと拳を守る手袋を嵌め直しながら喧嘩師へと歩み寄っていく。
…うわぁ、二人して良い笑顔を浮かべていらっしゃる。誰かあの二人、止めてくれない?
「あッ!そういえばアンタ、自分に振られたあの頭巾女の相手をするって役割も忘れる鳥女だったわね!それは悪かったわ、代わりにあたしが相手してやるから今すぐあの神様気取りの女の火刑で処されろ」
「ふ、ふふ…。影に潜って闇討ちする事しか芸のない小心者はよく吠えますねぇ?プリシラ様に敵国の大将首を狩る栄誉をお譲りしようと思いましたが、どうやらこの拳でキッチリ仕留めておかなければ、私の気が収まりそうにありません…」
「二人ともストーップ!!取り敢えずその不穏な言葉のやり取り、オレの心臓に悪いから止めてくれません!?」
オッサンの全速力でメンチを切る少女二人の間に割って入り、視線と感情の暴力を双方から直に受け止める。「心臓が胸から溢れそう」とはありふれた言葉だが、今のオレの心境をよく表していると思う。
誰か…。胃薬と頭痛薬、持ってないですか…?
「止めないでください、カケル様!この喪女には徹底的な拳の殴打が必要なんです!」
「言葉の意味解って使ってるぅ!?喪女はあんたの為にあるような言葉でしょうが!」
ほらレイラさん、指をパキパキと音を鳴らして威嚇するんじゃありません。ソレイユも、地面を叩いた足先から影を生成するんじゃありません!とにかく緩衝材を挟んで良いから、拳と脚が届く距離まで近づくんじゃありませんッ!!
あぁもう、こんな時にどこ行ってるんだあの全身真っ黒仮面野郎!?オレ一人でこの暴れ姫たちを止めるには限度があるんですけどォ!?
「じゃあ…あいだをとって、わたしがそのひとをもらうってことで」
「「命が惜しくないようですね!?」」
「そこだけピッタリ息を合わせるんじゃないよ二人とも!?」
いつの間にか少し血色の良くなった赤ずきん少女は既に臨戦態勢に入ってるし、まだ格闘姫たちはその回復に気付いていなさそうだし。空でも地上でもドンパチ始めやがってチクショウ…。
誰か、誰でも良いから…。オレの感情ジェットコースターを、止めてくれ…。
どう足掻いても、この赤ずきん少女との戦闘は逃れられません。まぁファルス司祭と同時に相手をしなくなっただけでも良しとしなきゃ…ね?
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●相手を知るには狂気に染まれ
第2章の断片6ネタに掛けて、「思考が染まる事を恐れる主人公君」と「染まる事に慣れてしまった老司祭」の対比となります。白いのが主人公君、黒いのが老司祭ですね。
染まる事を善しとしない主人公君との相性は当然ながら最悪、つまり老司祭はどう頑張っても味方に引き入れる事ができない事を示しています。
加えて、ここでも主人公君の記憶を刺激しています。相手に圧をかけて自省させる方法で怒る方、周囲にいませんか?
相手が聞きたい(引き出させたい)言葉を選ぶのに、ひたすら精神に毒を垂らし続ける行為は、後に老司祭化するので程々に…。
●影染兵
要するに、作中における「自動人形」と全く同じモノを指し示す言葉です。主に、月の国の住人たちが使う単語です。
その命名の主は、生命の研究を進めていた「とある博士」。その人物に他者の影を挿入した事で自我を発現させた様子から名付けたのだそうです。…名前、こっちの方がカッコよくない?
●超越物質を手に入れた経緯
現段階ではまだお伝えする所ではありません。…え?ヒントくらいは欲しい?
老司祭のような外様の人物にすら行き渡っている代物、ですが地位が高ければ高いほど存在を識っている…という訳ではなさそうです。ヒロインちゃんたちの反応から、これは明らかですね。
では、新しい老司祭の雇い主は一体誰なのでしょう?関係の近そうな人物から、もしかしたら話を聞く事ができるかもしれませんね…?