第3章22「そして悪魔は食事をする」
登る山あれば下る山もある。レイラさんが階下から空を駆けてきたのなら、当然真下へと落ちる訳なのだが…。問題は、オレもその途中下山の参加者に含まれている事だ。
「レイラさん!?どうして下から…ってこのままだと落ちるぅ!?」と、オレに精神の余裕があったなら喚き散らす所なのだが。
幸か不幸か、その声すら出せない程にオレは疲労している。オレの顔が階下に向いているのだから、恐怖の10割増しも待ったなしだ。
そんなオレの後ろ向きな思考を読む事など他愛もないと言わんばかりに、レイラさんはオレの身体をしっかりと抱きかかえた。
「着地はお任せを。ただ、舌を噛まないようご注意下さい」
法衣ドレスが、落下による風の煽りを激しく受けてバサリと広がる。女性のスカートの中身が丸見えになってしまうのはいただけない、肉壁が重石になっているので大惨事には至っていないと思いたいが…。
とはいえ、今のオレにとってはその視界の遮りが非常にありがたい。視覚情報は意外と脳裏に焼き付くもので、迫る床の恐怖は落下速度も相俟って、今の衰弱しきったオレに到底耐えられるものではない。
せめてその後のレイラさんの負担にならないよう、舌を引っ込め歯を噛み締めた。
ズズウゥゥンッ!!!!
その一拍後、オレの身体に衝撃が走るーー事はなかったが、代わりについ先ほどまで聞いていた音がオレの耳を衝いた。オレの視界いっぱいに広がっていた、レイラさんのスカートがようやく落ち着きを見せた頃、オレの視界はようやく1階エントランスの床を見る事ができた。
…え、待ってレイラさん。あの音、レイラさんの着地音だったの!?床、全然ヒビ入ってないんですけど!?質量保存の法則どうなってるの!?
「悪魔だ、悪魔がいる」「やだぁ、もう揺れるのやだぁ…!」
その場にいた警備エルフたちが恐怖のあまり泡を吹いて倒れ、あるいは突き上げる謎の衝撃に発狂し、既に現実を逃避した面々と合流するように意識を失っていく。戦意を喪いつつも、最後の最後まで意識を保っていたエルフたちは、これで全滅だ。
…気持ちはよく解る。こんな常識外れの力を見せつけるレイラさんのような敵がいたら、力の限り白旗を振り続けたくもなる。そればかりか、脚を少し浮かせてダメ押しのひと踏みまで敢行しようとする彼女の容赦の無さに、間近でその様を見ていたオレは顔を青くするしかない。新種の震脚でも習得しているんですかレイラさん…?
「逃がすかぁッ!」
そんな畏怖に近い念を抱いていたオレの頭上で、嫌な風が吹いた。オレをずっと追い回していた追手の一人、ミーシャと呼ばれていた方の魔法だろう。
建物内に響く命を断たんとする轟音は、まるで小さな台風のよう。追手から放たれようとしている殺意に満ちた一撃は、鋭い風の斧が乱舞する事を想起させる。
「ちょっと、ミーシャ!?ソレがあの人間に当たったらアタシたち、プリシラちゃんにどう顔向けすれば良いのよ!?」
「ダイジョーブ、あの女『戦巫女』だから。どうせワタシの全力でも死なないでしょ?」
物理的に距離があった為か、この衝撃の耐性があるのか、はたまたその両方か。未だ戦意を枯らさずにいるらしい彼女の精神的なタフさは、今に限っては羨ましく思う。
しかし宣った内容は大変物騒だ。恐らく純度100%の殺意を、オレやレイラさんへ向けているに違いない。残念ながらオレの視点は未だエントランスの床に定まっており、追手のその蛮勇を見る事は叶わないが。
「どうやら折檻をお望みのようで。致し方ありません、脱出は一旦お預けです」
対する挑戦状を叩きつけられたレイラさんの現状は、困った事に彼女の得物である拳がオレを抱える為に使われており、握る事ができない。オレを離してくれれば応戦できるかもしれないが、彼女の真面目な性格からして簡単に離してくれるとは到底思えない。
得意戦術で応戦か、安全優先の退却か。選択肢は2つに一つだが、さてレイラさんの答えはーー。
「カケル様、もう少しご辛抱ください。少し脚をぶつけるかもしれませんが、そちらもご容赦を」
選択肢3の「脚を使って応戦する」でしたか。流石は格闘姫、思考が追手同様に物騒だことで。
…ん?という事は、オレを抱えながら戦うおつもりですかレイラさん!?せめて木偶の棒は地面に足を付けさせてもらえませんか!?
「刎ねろ、断頭風!」
ほら、勝機と言わんばかりにあの凶刃の風を飛ばしてきた音がする!そもそも浄化の恩恵を脚に纏わせた所で、どうやって風を防ぐつもりなんですかッ!?
「私が何の考えもなく、同じ場所を踏み鳴らしていたとお思いですか?」
そんなオレの杞憂は、レイラさんの靴の先が軽く床に触れただけで。文字通りに弾け飛んだ。
ガラリと激しい音を立てて崩れる床、ゴウゴウと撒きあがる木片と土煙。その先でいつの間にか大口を開けていた奈落に、オレたちは吸い込まれていく。基盤が崩れた為か、この建物そのものが崩壊しているような気がしてならない轟音に、思わずオレの顔が青くなる。
それだけではない。オレとレイラさんを呑みこむだけでは飽き足らず、顔を出した奈落は意識を手放したエルフたちすら腹の足しにしようとしているらしい。とんだ悪食がオレたちの足元に潜んでいたものだ。
しかし、レイラさんは奈落の食事に抗うように、比較的無事だった丈夫な足場を使って再び地上へと大きく跳躍する。
その先で構えている筈の、嫌な風の威圧感はーーもう存在しなかった。
「風術は、基本属性の中でも他者への影響を与えやすい魔法です。ですが同時に、放出または纏い続ける必要のある…ある意味燃費の悪い魔法でもあります」
吹き抜けの2階部分に位置する壁を踏み壊し、更に3階へと躍り出る。その高さは、自分の風術を完封されて呆けている術者が立っていた。
「それ故に、操作も繊細さを求められます。室内であれば、自分の起こした風を一定の威力に保つ為、風の通り道を考慮する必要があるのです」
どうやら新しい奈落から供給された淀んだ風によって、魔法操作を狂わせたらしい。…環境を荒らす事も属性バトルにおいては重要なのかと、平時のオレであれば思わず感心したに違いない。
それより先に光術を纏ったレイラさんの脚は、術者の顔の側面を的確に薙いでいく。
大の男でも脳震盪を起こすには充分な一撃を、術者の躰が受ければどうなるか。隣にいたもう一人の追手と共に、奈落に突き落とす特大砲となった…なんて想像も難くはないだろう。
「貴女様の敗因は、その風術に頼りきった戦闘技術。得意の武器が一つ折れた程度で泣くようでは、私にその風は届きませんよ」
悪魔の食事処へと墜ちていく悲鳴は、ただ一人分のみ。道行きを共にする筈の女から、底へと辿りつくまでに怨恨が口から出てくる事は遂になかった。
●「恐怖の10割増し」
実はここ、主人公君の隠れたトラウマポイント。嫌々参加させられたバンジージャンプで、ほぼ突き落とされるように飛び出した後、非常に地面スレスレの所まで顔から突っ込んでいった記憶を想い起していました。…多少はヒロインちゃんの法衣ドレスのスカートが目隠しになっていますが、それでも怖いものは怖い。
奇しくも、主人公君の記憶にある因縁の場所は、水音が環境を占める秘境の地…アクリス村に似た景観です。「夢」世界なので、無自覚に自分の中の埋もれた記憶から景色を引っ張ってきているのでしょうね。
でも人間の記憶って、そんなに鮮明に景色を覚えているものなのでしょうか。(中には覚えている人もいるのかもですが…)人間って、不思議ですねぇ。
●主人公君を追っていた風使いのエルフたち
向こう見ずで、やたら風の魔法をぶっ放しているのがミーシャ。それを咎め、後方支援に回っているのがマーシャです。似た名前である事から何となく想像できるかもしれませんが、二人は血縁同士。マーシャが姉で、ミーシャが妹となります。
二人ともが風の恩恵を受けた魔法職で、風の巨大な刃を乱舞させる大技、断頭風を連発できる程度には優秀です。可能であれば是非スカウトしたい人材ですが…?
●いやいや、床を爪先でトントンと軽く叩いたくらいで建物が壊れる筈…
器用な事に、ヒロインちゃんは建物の四隅にある地中に埋もれた支柱を、その場の跳躍による衝撃だけで器用に壊しています。その中心付近で衝撃を加えれば、支柱は完全に砕けずとも天板のバランスは崩れ、あれよあれよという間に破壊と掘削の連鎖が起こる…。そんな一種のご都合展開です。
都合よく床が壊れて、都合よく床下の地面も抉れている、なんて事があるのかって?「夢」世界なので何でもアリなのです。
●風術の弱点
第1章05の後書きにもありますが、風術は土術との相性が悪いです。その理由を、ヒロインちゃんに簡潔に説明していただきました。
風は自由気ままに吹きますが、地形によってその力も強弱がつきます。ビル風や山おろしなどのイメージが解りやすいでしょうか。
逆に空間が解放されると、一気に押し出される筈だった風が離散してしまい、効果が弱まってしまいます。今話でヒロインちゃんが取った行動が、まさにそれです。
地形の変化による強弱がついてしまう事が最大の弱点で、それを起こさない為に常に一定の魔力を放出する必要があります。…そう、魔力が尽きやすい上に繊細なコントロールを求められるのが風術の弱点となるのです。
風術使いは、前線に出過ぎてはいけませんよ?