第3章18「水面に浮かぶは隠者の影1」
拝啓、父上母上その他諸々殿。私は今、生命の神秘というものに触れている気がします。
チトなる生き物は、生物ピラミッドの観点から言えば下層に位置するらしいのですが、どう考えても目の前の獰猛なそれは生物上位種に君臨していてもおかしくない生き物です。巨大な体躯に鋭い牙、水面から獲物をギョロリと睨む様だけ見れば些か育ち過ぎた出目金のよう。しかし両側に生える剣先のような尾びれがドリルのように高速で回転し、オレたちをこま切れ餌にせんと突撃してくる姿は、悪魔以外の何者でもありません。
…説明は要らないから、その生命の神秘にふれたオレの所感を簡潔に伝えてくれ?ではお言葉に甘えて、声高に言ってやりましょう。
「絶対これ食用魚じゃないだろ!むしろオレたちを餌認定してないかこの悪魔魚ァ!?」
見た目はゲームに出てくる獰猛な魚、だが魚という括りで縛るには巨大すぎるそれは、現代では新種ーー否、存在してはいけない新生物に分類されよう。エルフたちの魔力の網で引き揚げられ、突如湖から現れたその巨大魚のご機嫌は、見るからによろしくない。
最早これは、食事準備の風景ではない。ひと狩り行くか否かの話になっていた。
★ ★ ★ ★ ★
時は数十分ほど遡って、昨日の夜通しの酒の席から解放された牢屋へと場面を戻す。
「あ゛ぁ…だるぅ」
飲み会の後は、オレの身体は決まって半日は重くなるのだ。現代でもやった事のない夜通しの酒宴で精神的に未だグロッキーなオレは、このまま宛がわれた冷たいベッドの中で一日中引き籠りたいモードにスイッチが入ってしまっていた。…若い皆、朝はちゃんと起きるんだぞ。時間は貴重だって、オッサンになると身に沁みて感じるからな。
そして、オレが引き籠りたい目的がもう一つーー。
「おはよう、あ・な・た」
「ッ!!?」
こちらの顔を、薄い表情ながらも頬を朱に染めて恍惚と覗き込んでくる赤ずきん少女の存在だ。ただでさえ個人空間の広いオレにとって、敵である女に目と鼻がくっつきそうになる距離で見つめられるのは生理的に受け付けられない。この距離まで近づかれても眠り続けていたオレの鈍感さにも驚きだがな!
なので、彼女がオレの視界に入って来る度に身体を高速半回転させ続ける事、実に数分。それは、突然やってきた。
「う゛っ」
ビキリと何かに縛られる感覚から少しして、身体のあちこちが攣ってくる。日頃身体を動かさない罰が当たったのだ、もう動けねぇ…。
それに、慣れない動きを続けていたので消化管の中身が逆流しそうだ。ーーうっぷ、戻しそう。
でも敵とはいえ、少女の顔面に奇声を一度も浴びせなかったオレの理性だけはどうか誉めてほしい。赤札ゲッツーで即退場?そんなー。
「もうひがたかくのぼったじかんよ」
「オレの中じゃ、まだ夜の31時だ」
「いちにちは24じかんしかないわよ。それと、いまはあさの10じごろね」
オレの体内時計が狂っている事くらい、自分でも解ってるんだよ!でも訂正は助かったよチクショウ!
「というより!おはようの挨拶まで頼んだ覚えはオレには無いんだが!?」
「おっとのかおをあさはやくからみられるのは、つまのとっけんでしょう?」
「幻想妻を名乗るなァ!オレはまだ独身だっての、誤解を生むだろうが!」
思わず大声で突っ込んでしまったのだが、昨夜のお酒がまだ身体に残っているらしく、フワフワとオレの頭が揺れて気持ち悪い。ダメだ、今は何か考えるのは避けたいーー。
…いや待て。今この女、朝早くからって言ったか?つまり何か、下手したら何時間も前から目の前でオレの顔を見続けていたって事か!?病んデレ気質かアンタ!?オレの頭が違う意味でクラクラしてきたぞチクショウ!
「みんなもしんぱいしてるわ、はやくおきて。きょうのしょくじはエリアス湖のちとだから、きっとあなたもきにいるわ」
気に入るも何もあるか!あんたはオレのオカンか何かか!と口を開きかけたが、オレの背後の少女への恐怖が勝ってすぐに閉口する。
何となく、本当に何となくだが。会話の中にも致命的な境界があって、今しがた口に出そうとした言葉がその入口になっていた…気がする。
赤ずきん少女の中で何が地雷ワードなのか、未だ分からない中で冒険するのはあまり得策ではない。今更過ぎる?それはそうだが、自分の命に関わる事って案外第六感も働く…とかそうでもないとか。
「わ、分かった。行くから、少し外で待っててくれ」
「よかった。じゃあ、まってるわ」
まさかこの歳になってままごと遊びに付き合わされるとは思わなかったが、こうして従順にしていれば命までは取らないらしい。ならば、レイラさんが助けにきてくれる事を信じて待つしかあるまい。命あっての物種だ。
…ゲームや漫画でよく描かれる囚われの姫君って、こんな虚しい心境なのだろうか。何となくその心境を理解できてしまった30過ぎの男は、心の中で深く溜息をつくのだった。
★ ★ ★ ★ ★
以上、短い回想終了。回想の中でも叫び、つい先ほども眼前のあり得ない光景に思わず声を荒げてしまったオレは、思考を再び停止させる。脳内で処理できる容量が限界を迎えてしまったのだ。
用意された専用のテラス席に、頭から白煙を漏らしながら顔面を叩きつける。どうせ夢の中の世界なんだ、もうどうにでもなれチクショウ…。
「ここまでおおきいちとはひさびさ。うでがなるわ」
そんなグデグデに溶けているオレを置いてパキリと拳を鳴らす赤ずきん少女は、拳に水を纏いながら臆する事なく、水場から突如引き離されて動きが鈍ったその生物に突進していく。それに追従するように、他のエルフたちも各々の得物を構えて駆け出していった。
「まずは、したしょりから」
赤ずきん少女の纏う水の拳から大鎌が鋳造され、胸びれをまず一閃。突然の水の斬撃に呆気を取られたのか、「ギィイッ!?」と悲鳴を上げながら巨大魚はバランスを崩していく。しかし、この程度で戦意を喪う悪魔ではない。
ハンドルが利かなければ直進し続ければいいじゃない!と言わんばかりに、自らの重量と牙による反撃を襲撃者に試みる。そのままぶつかれば、レイラさん同様に線の細い赤ずきん少女の骨など木っ端に粉砕してしまうだろう。
「させない!土門壁!」「プリシラちゃん、もう片方も頼むよ!頭はオイラたちが請け負う!」
その突撃を、エルフたちの魔法詠唱によって生まれた土の壁によって取り囲まれ、巨大魚の行く手を阻み退路も断たせる。思うように動けず苛立つ巨大魚が「ギィイイ!!」と唸りながら、残された胸びれで土壁を破壊しようと掘削し始めた所へーー。
「きる」
短いスカートが翻る事も気にせず、再び水の大鎌を振り上げながら空中に作り出した水の壁を連続で蹴って、高速で回転する尾びれへと少女が迫る。巨大魚がその敵影に気がついた時には、既に最後の武器が斬り落とされた後だった。
「ギィイイイイイイ!!」
武器を失い、死神が命を刈りに来た気配を色濃く感じ取ったらしい巨大魚が、最後の抵抗と言わんばかりに激しくのたうち回る。
自らの重量による単純な暴力は、しかし単純が故に効果的だ。掘削し損ねた土壁が衝撃によりガラガラと崩れ、男女を問わずエルフたちの悲鳴を木霊させながら巨大魚の逃走経路が形作られてしまう。
「くっ!」と慌てて土壁を作り直そうとする果敢なエルフも、激しく揺れる足場の中では質の良い土壁を再度作る事など出来る訳もなく。それどころか、必死に生き延びんと抵抗する巨大魚の尾びれビンタに全身を強打され、自分の作った土壁へと吸い込まれていった。
「この、止まれーーぐわッ」「う、土門壁ーーきゃぅッ」
術師が一人、また一人と巨大魚の悪あがきに捕まり、土壁に人型の穴が掘られていく。掘られた壁に強度なんて期待できる筈もなく、しかし穴の数だけが徐々に増えていきーー気がつけばあっという間に、土の包囲網は全て崩れてしまった。
「頭を落とす!断頭風!」
獲物が相手の領域に逃げないよう、まだ五体満足なエルフの一人が風の太刀を振るう。もしも魚に首があったなら、そこに向けて振り下ろしていたであろう包丁は、しかし胴体と切り離すまでには至らない。功を焦った為か、単純に魔力が篭めきれていなかったのだ。
だが、狙うべき位置さえ判れば、後は赤ずきん少女の出番だ。空中に浮かぶ水の足場を再び連続で蹴り、最後の足場から宙に高く舞い上がると、空中で身体を器用に回転させて構えた水の大鎌に遠心力を加えていく。
「ひといきにおとしてあげる」
少女の掌から魔力が供給され、水の鎌が次第に大きくなっていく。たった数秒にも満たない滞空時間、その中で鎌の大きさは少女の身体の倍近くまで膨れ上がりーーちょうど巨大魚の頭に衝突するタイミングで、得物を振り下ろした。
実際には、その水の鎌を直接巨大魚に叩きつけた訳ではない。恐らく、鎌の中に溜め込んだ魔力を放出して水の斬撃を繰り出したのだろうと、疲労に満ちた中で必死に観察し、考察してみる。そうでなければ、巨大魚の頭に衝突した斬撃の色が、すぐに真っ赤に染まる訳がないからだ。
「ギィイッ!ギィイイ…イイ」
水圧カッターの要領で頭を切り落とされた巨大魚の暴れる胴も、次第に抵抗する力を失っていく。その様を見て、エルフたちの吼えるような勝鬨が沸き上がった。
「っはー!ヌシのチトを食べるのなんて久々だー!」「めでたい事が続くもんじゃ!さぁさ、すぐメシの支度にかかるぞ若いの!」「お造り、釜飯、焼きチト!腕が鳴るねぇ!」
思い思いに喜びの声を上げるエルフたちだが、残念ながらオレはその輪に入れそうにない。何故って?彼ら彼女らの思考の行き着く先は、どうせ酒宴だ。そうなれば昨夜の再来、赤ずきん少女に拘束され、酒豪のエルフたちの絡み酒に付き合う羽目になる。
(エルフってさ…こんなに酒飲みな種族だったっけ…)
この手の酒豪キャラって、ドワーフとか竜種とか、違うキャラのイメージがあるのだが…。どうなっているんだオレの中の夢世界。心の中で、オレの恨み節だけが虚しく響くのだった。
Q:これ、閑話じゃないんですか…?
A:本編です(真顔)
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●アクリス村について
基本、月の国の民たちの食事は恵まれています。水資源は言うまでもなく、土壌も豊か。森の原生生物から肉も狩る事ができるという超絶好立地にあるのが、このアクリス村の特徴となります。
その中でも特筆すべき事項は、この夢世界における最大の水場が、このエリアス湖である事でしょうか。
中でもチトという巨大な闘魚は、焼いてヨシ・揚げてヨシ・刺身でもイケるという万能魚。月の国の一部のお偉い方々が好んで取り寄せる程に美味との事。ただ、(一応月の国のお偉いさんである)ヒロインちゃんは食べた事がないそうです。
…そう、このエリアス湖が夢世界の最大の水源。主人公君の世界は、かなーり狭いようですね。もっと外に出て、見分を広めてはいかがでしょう?




