第3章16「プレイバック・アクアリウム編4」
牢屋の檻越しにこちらを説教してきた失礼な男は、口から噴き出した血の中に突如沈んだ。別にそれ自体は構わない、むしろ標的を月の国まで運びやすくなった事を喜ぶべきだろう。幸い、少女には水源さえあれば治癒の術があるので生かすも殺すも少女の機嫌次第になる。
しかし、男が意識を失う寸前に放たれた言葉が、脳裏で呪いのように繰り返されて中々離れてくれない。
『いきることを、あきらめるな…』
どうせ、顔を見られた暗殺者に二度目の仕事は回ってこない。このままご主人様の元に戻れば、待っているのは制裁の雷だ。この場に留まっても、あの太陽の国の暗殺者たちに嬲られ…最終的にはボロ布のようにこの身を棄てるだろう。
別にそれは構わない。この身は元より、命を既に零し終わった滓のような存在だ。一度でも暗殺に失敗したら、僅かに残った命が枯れるのも道理…。実力至上主義の中で育った赤ずきん少女は、そうご主人様から教えられていたし、少女もそれを疑わなかった。
しかし、命を捨てる事を赦さないとーー泥水を啜ってでも生き抜けと、男は言ったのだ。幸い、男は最後に血反吐を供給してくれた。これを使えば、脱獄の為の最低限の武装は整えられるだろう。
だが、少ないながら少女にも自尊心がある。
⦅おとこの、ち。…たいえき、いり⦆
頬を朱に染め、目を潤ませる。意識をし始めて、少女の身体に熱が帯びてくる。
この世界には、「永誓の契り」という儀式が存在する。簡潔に説明すると、各々が決めた誓約を自らの意思で行った場合に、誓約者に自らの心血を捧げる…というものだ。少女の場合、他者の体液を口に含む事がそれに該当する。
一度決めた誓約は変える事ができず、また永誓の儀式というだけあって効力は絶大。男と女がそれを互いに交わせば心血を捧げ合う仲と見なされ、婚姻の儀にも代替できてしまうのだ。
さて、この少女の恩恵は水を自在に操るというもの。水源さえ確保できれば、そこは彼女の独壇場となる。特に、ほぼ無限に水が使用できるエリアス湖で戦闘すれば、裏切り者ですら浄化による突破は困難だろう。…何故か先の戦いは、あの程度の水で押し勝てそうだったが。
閑話休題。少女が恩恵を発揮するには一点、供給源のサンプルを確保ーーつまり、一度試飲する必要がある。…少女の永誓の契りが、成立してしまうのである。
当然ながら、周囲を見渡しても水源になりそうなものはない。男の言動から、地上まで出られれば恐らく水源は確保できそうだが…。目の前の男の惨状は、そんな悠長な時間を少女に許してくれるだろうか。
『…いかすか、ころすか』
奴隷の少女は未だ純潔であり、武装も自然の清らかな水を使う程だ。それは、少女自身が己を保つ為に定めた矜持であり、自らの誓約を破らないようにする為の戒めでもあった。
けれども、それも今日限りだ。目の前の命を枯らさない為には、矜持を投げ棄ててでも啜らなければならない泥水がある。
『そんなの、きまってる』
少女に課せられた任務は、この男をご主人様の元に連れていく事。生きる為には、まずは目の前の任務をこなさなければ。
ーー少女の初めての口付けの味は、鉄の味がした。
★ ★ ★ ★ ★
男の体内に流れていた毒素は、供給できた水のお蔭でおよそ外に出す事ができた。しかし体内に留まった毒素を全てを取り除くには、供給できた水量ではまだ足りない。傷が完全に癒えていない腕や脚の痛みを和らげつつ、大の男を背中に抱える為に残っていた恩恵を全て身体強化に回した都合、どこかで再び水源を確保する必要がある。だが、その心配はしていなかった。
途中、脱出の為に向けていた足を一度経路から外れ、水源確保のつもりで礼拝堂へと踏み入れる。この奥にある厨房のような小部屋、そこに用事があったからだ。
⦅いまは、みずがほしい⦆
この教会における水源は、食糧庫として置かれている小部屋にある。元より強大な敵を相手取る為に水源を用意する必要があったのだが、その小部屋は礼拝堂をどうしても通過する必要があるのだ。いざとなった時は今ある身体強化のみで戦闘するしかないが、背中の男にも人質として役立ってもらわなければーー。
『なに、これ』
だが、一歩礼拝堂に踏み入れた少女の足は、思わぬ惨状を目の当たりにしてその場に縫い付けられ、言葉を漏らしてしまう。
無理もない話だ。少女を牢に入れた事で危機は去ったと、腹立たしい理由で酒宴を開いていた筈の暗殺者たちはーー皆が皆、この男と同様に血を吐き倒れていたのだから。
『もしかして、おなじ…どく?』
暗殺者の様子を警戒しながら、縫われた足を少しずつ動かしていく。10秒も小走りすれば簡単に辿り着く程度の距離が、今は数倍長く感じ、思わず少女は歯噛みする。
気を紛らわせる為に暗殺者を観察すると、まだ微かながらも意識が残っている者、既に事切れている者と、微妙に症状の差があるようだった。しかし当然ながら、その全員が脱走者の存在に気付く事はない。そも、気がついた所で応戦できるだけの力が残っているとは思えないが。
とりあえず簡易的な水源補給をと、酒宴の為に用意されていた机の上に置かれた器に手を伸ばす。…が、恩恵で身体強化を施していた事を失念していた所為で手元が狂い、ガシャンと音を立てて器を割ってしまった。
『むぅ…』と、声を荒げたくなる心を鎮めながら自省するが、しかし改めてその場に残された水源を一目見てーー少女が横に首を振る。毒物に汚染され、使い物にならないのだ。
⦅どくはい…?あたしが、こうしてだっしゅつすることを、だれかがみこしていた?⦆
目的の小部屋にも立ち寄ったが、しかし結果は同じ。あらゆる飲食物に毒物が仕込まれており、誰かをピンポイントに狙うような暗殺ではない事が窺い知れる。一斉にこれらを煽る機会がなければ、一度にここまでの人数が倒れるようなものでもないと思うのだがーー残念ながら、これ以上の思考は少女の興味の範疇外。これ以上の推察は生き残った誰かがやってくれるだろう。
『どのうつわにも、おなじどくがしこまれている。…しかたない、いちどエリアス湖までもどらないと』
当てにしていた供給源は断たれてしまい完全な無駄足となってしまったが、行動を起こし直すなら早い方が良い。改めて、水源の確保はエリアス湖で行う事にしようと、急いで教会の外へと足を進める。
恩恵が持続できるのも、そこまで長くはない筈だ。早急に落ち着ける場所まで逃げなければ。
『その方を連れて、どちらに行かれるおつもりですか…プリシラ様』
教会の外に出た所で、今一番遭いたくない裏切り者ーー白と青の気品溢れる法衣のようなドレスを纏った少女と、遭遇してしまった。
●赤ずきん少女の運命の分水嶺
ここで主人公君に対し、彼が戻してしまった血液を使った治療を行っているかどうかで、今後の展開が大きく変わってきます。
尚、地上に急いで戻って宴会で出されていた水を使った場合は、再度毒を仕込む事になるので、主人公君的にもアウト。彼女の恩恵によって中途半端に治療されてしまうので、ヒロインちゃんと合流できるまではジワジワと体力が削れていく生ゴロシ状態になります。
更には、彼女自身の運命にも関わってくる為、毒をここで仕込むのはとても危険。この第3章においては、主人公君の体液再利用による治療が最適解となります。
15行も間を作って葛藤の末にキスをした甲斐があったね、赤ずきん少女さん!
●振り返り中のヒロインちゃんはどうしていたの?
ソレイユに折檻を終えた頃に、まるで仕込まれたかのようなタイミングで吐血した暗殺集団たちの浄化を行っていました。体内に取り込まれた毒を取り除く事そのものは簡単ですが、何より人数が多い為、主人公君の異変にも気付く事ができませんでした。
赤ずきん少女に担がれて教会の外に出てきた時の彼女の心境は、それはもう主人公君には見せられない程の驚きと怒りに満ちていたそうな…。




