第2章07「焔の隣人7」
最初の感想は、グレードは落ちてもやはりこの世界の牢屋の概念はおかしい、だった。あの豪華な牢屋と比べたら、調度品の数は流石に劣れども、ひと目見ただけで解る高級そうなデスクやベッド。そして本棚に、書籍の数々。
…ここはホテルの一室か何かか?衣食の問題さえクリアできれば、お金を積んででも住みたい人はいくらでも居そうな気がする。
とはいえ、それ以外の雰囲気があまりにも陰鬱だった。せめて炎の色を暖色系にするとか、篝火の場所を増やす等の工夫をしてもらいたい。それだけでも、地下の雰囲気はガラリと変わるだろうに。
(反対側の牢屋の通路と比べると、光の量が全然違うんだよなぁ)
地下なのだから、立地環境が悪いという事もないだろう。だとしたら、考えられるのは整備不足。もしくは、意図的に暗くしているのかもしれない。そうであれば、その理由は一体何だろうか?いずれの理由にせよ、心の沈む思いをするのは確かだった。
そんな心が凍えてしまうような暗い牢屋、その中には。昨夜レイラさんが拳の一閃で見事K.O.してみせた、あの老司祭の姿があった。顔の腫れは未だ引いていないようで、必要最低限の治療を行っただけなのだろうと簡単に想像できてしまう。
…老司祭でこの傷の具合なのだ、あの忍者女の残存ダメージ量は今から想像したくない。
「ファルス様、貴方様にも後ほど伺いたい事が。その時は正直にお答え、いただけますね?」
「ふぉっふぉ、怖い顔をされる。今の儂に命知らずな真似が出来るとは思えませんがなぁ」
「では、今貴方様が晴れて自由の身になったなら?」
「心根は簡単には変えられぬものですぞ、レイラ殿」
老司祭が目を剣呑に光らせたその瞬間、レイラさんの纏う空気が変わるのを肌で感じた。オレの手を繋いで忙しいレイラさんの手はそのままに、空いている手を彼女は瞬時に握り締め、冷たい檻を力任せに殴り付ける。その衝撃は鉄製の格子をひしゃげさせ、老司祭の背後の石の壁を、音を立てて抉り取った。
まるで拳で空気の圧を飛ばしたかのようなレイラさんの芸当に、「ひぇっ」と思わずオレの声が漏れるのもやむなし。…誰かそう言ってくれと、オレの視線が虚空を右往左往した。
「失礼、手が滑りました。ですが次、もし私たちに向かってくるような事があれば…」
「えぇ、承知しておりますとも。先ほども申し上げたではありませんか、命知らずな真似が出来るとは思えないと」
滑った拳から放たれた圧で石壁を採掘できる女の子は、果たして存在するのだろうか。もう彼女と行動を共にしてから何度考えたかも分からない類似した疑問と、今日も同じ結論へと導かれる思考の既視感に眩暈を覚える。
というよりレイラさん、光術は纏う事しかできないって言っていたじゃないですか。術は放出できないって、言ってたじゃないですか…。
「おや、御付きの方が怯えていらっしゃるようだ。今の衝撃がよほど堪えたのでしょうなぁ」
「っ、失礼しましたカケル様。先を急ぎましょう」
オレの引いた視線でレイラさんも我に返ったらしい。バツの悪い顔を浮かべた彼女は、オレの手を半ば強引に目的地へと引いていく。その加減の調整を誤った手の握りに、ついオレの喉から小さな悲鳴が漏れてしまった。
「カケル様、どうなさいましたか?」
「だ、大丈夫。急に手を引かれたので足がもつれそうになっただけです」
訝しげに振り返るレイラさんに、慌ててオレは取り繕うように言葉を並べた。幸いにもオレの即席で並べた嘘に納得してくれたらしく、「すみません、次は気をつけますね」と優しく微笑んでくれた彼女を見て、内心で胸を撫で下ろす。
…分かってはいた事だが、言葉とは裏腹に握っている彼女の手は、一向に離してくれる気配がない。
(やっぱり警戒、されているのかなぁ)
嘘をつき続けているオレの自業自得であるとは思っているが、その罰が手繋ぎ。現実の女性を苦手とするオレにとっては、平時であれば冷や汗が止まらない程にとても重い罰だ。
手を引かれるまま、老司祭の牢屋を後にする。「ご安心を、この壊れた檻から出ようなど考えてはおりませぬ」と背後から老司祭の声が聞こえてくるが、レイラさんからその返答をする事はなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
カケルが寝かされていた牢屋のある地下、誰もいない筈の牢屋の調度品が独りでに動く。まるで奥に潜んでいた何かが、そこから抜け出してきたかのように。
調度品の向こう側は、どこかへと続いている穴になっており、そこから這い出てきた者は何事もなかったように穴を調度品で隠し直す。ものの1分も経たない内に、その牢屋は数刻前と何も変わらない景観を取り戻していた。
ボロボロの黒いフードコートを深く被り、顔を嗤う表情の仮面で隠したその者は、肩幅のないスラリとした体躯の持ち主であり、長いコートの丈の所為で性別すら判別がつかない。その者が徐に檻へ触れ、何かしらの呪文めいた言葉を口にした数拍後。
頑丈だった筈のその檻は小さく爆発し、背の低いただの鉄の柵と化してしまった。不審者を閉じ込めるという用を為さなくなってしまったそれを、黒ずくめの者は軽々と跨いで越えていく。
脱獄者が、階段のある方へ身体を向ける。その先にあるのは、地上への帰還路。
「こちらを張っていて正解だったようだ。5人目と最初に対面できるとは、ボクの勘も捨てたものではないらしい」
しかし、その者が地上へ帰還する事はなかった。唯一の連絡路である、階段の前に立つ少女が。小さい爆風で乱れた空気の流れで薄いピンクの髪を仄かに揺らし、その揺れを抑える狐面を頭に被った”ヤツヨ”が、そこに待ち構えていたのだから。
「教会の見取り図を見た時、地下部と地上部の部屋全体の広さが合わないと思っていたんだ。まさかこんな隠し通路があったなんてね」
”ヤツヨ”の淡々とした声が地下牢に響く。彼女は手にした金の宝杖を構えながら、油断なく相手を見据えていた。
「こちらには敵対意思は無いんだけどネ。俺は単に外の空気を吸いに出てきただけサ。そう殺気立たれたら俺も困るってモンだ」
頭を振って、男の参った表情を乗せた声を響かせ返す。肩に担ぐ得物を下ろす事なく、こちらも相手の出方を窺っているようだ。
「キミが困っても、そうはいかない理由がこちらにはある。現に今、彼との念話が再びできない事態に陥っていてね。原因の可能性が高いキミの存在は、とても無視できるものではない」
”ヤツヨ”の言葉に、仮面の者の雰囲気が僅かに変わる。それは、「仕方ない」と諦観が読み取れる仕草。しかし、肩の荷物だった長棍を下ろし構える様は、とてもこれから投降する者の所作ではなかった。
「今日は厄日だナ」「同感だね」
言葉の交換は終わった。ならば、次に交換するのは何か。ーー互いの、武力の交換であった。
●地下の明かり問題
次話に使用する為、レイラが光源をかき集めた結果…左側の地下牢だけ暗くなってしまった…という描写になります。主人公君の心が冷えてんぞ、ヒロインちゃん!?
●ファルス司祭、浄化して良かったの!?
元よりレイラは必要以上の暴力を好まない為、過剰な傷はたとえ敵であっても多少の痕・痛みは残しつつ浄化します。
その後の言動の通り、機会があれば裏切る気満々なこのファルス司祭。牢屋内限定とはいえ、動き回れるとロクな事にならない気がしますが…果たして。
ちなみにレイラの拳圧が唐突に飛んできた時はポーカーフェイスでしたが、意外と心臓バクバクだったようです。やったね主人公君、ビビリ仲間が増えたよ!
●隠し通路から出てきた人物
ボロボロな黒いフードコート、嗤う仮面を被った人物…あ、怪しすぎる!でも本人的には、こうしないといけない理由があったりするのだとか。身体も顔も隠さないといけない理由とは一体…?
この人物、実は堂々と教会の正面から侵入し、階段を使わず礼拝堂からこの地下牢まで辿り着いています。
先の話数から戻ってきた方は経路も覚えていらっしゃると思いますが、最初からここまで読み進めている方は、どうやって辿り着いたのか…考えてみてください。




