第4章46「女教皇と死神は天の調べに吊るされる4」
開かれた石の門扉の向こう側に、オレたちが目指すべき夜空が大きな口を開けて待っている。
夜空に吸い込まれるような強風がオレたちの足を浮かせそうになるが、しかしここは雲海が建物の下で広がっているほど高度にある天空城。無策のまま飛び込めば五体満足で地上に辿り着ける筈がない事は火を見るよりも明らかだ。
その空中散歩を食い止めるべく立ち塞がったのが、レイラさんの拳を白い翼で受け止める白いアオザイを身に纏った天使だった。
浄化しきれない殺意を載せた拳を叩きつけたレイラさんに対し、天使の笑みは崩れない。しかし天使の笑みはどこか引き攣っているように見える。
自慢の白翼がどれほど強固な壁のつもりで差し出したのかは、戦闘の素人であるオレには全く分からない。そのオレから見ても解るほどに天使の足が石床に埋まり始めており、崩れた石によって山が出来上がっている。
「お互い、拳も脚も射程圏内ねぇ。このままどちらかが気絶するまで、殴り合ってみるぅ?」
「浄化の恩恵のある私の方が断然有利な条件だと思いますが、それでもよろしければ根競べは望むところです。貴女様から仕掛けた勝負ですので…一撃で意識、飛ばさないでくださいね?」
普段のお淑やかな所作からは想像しにくい乱雑さで、殴りつけていた白い翼を弾くレイラさんが笑顔を張り付けながら拳を構える。
まるで天使に張り付いていた表情と交換したかのような変化。だが、感情ばかりは交換の対象外だったらしい。弱者と強者の違いは、顔の引き攣り有無だけでなく声色の温度差にも表れていた。
売り文句に買い文句と、現実世界の格闘技の試合前口上であればオレは評しただろう。だが命の奪い合いまで視野に入る夢世界の口上となれば、弱者と強者の立場がはっきり分かれてしまう。
横に控えてくれているプリシラも「あんなふところにはいられたら、もういちげきだってもたないわよ」と烙印を押される始末だ。レイラさんの接近戦に対する信頼度が高すぎる。知ってたけど。
「あなた、もうすこしはなれたほうがいい。いくさみこのぎあが、あがるわ」
「ギア?」
はて、今のままでも十二分に強いレイラさんが更に暴走するんですか?と首を傾げていると、プリシラが腕を強引に引っ張ってその場から退避させる。
「お、おい!」と抗議しようにも、有無を言わさないプリシラの表情がオレの口からこれ以上の言葉を継がせなかった。一体何が始まるって言うんだ?
「かべまで、まにあわない!せめて、しかいだけでもーー」
「炉心解放」
プリシラの細い躰の中心へオレの視界の大半を覆うように押し込まれた瞬間、視界が爆ぜたような錯覚に襲われた。
周囲の光景から光が瞬間的に色を失い、レイラさんへと引き込まれていく…ように、オレの覆われなかった視界が捉えたと思う。思うのだが、視認した代償は大きかった。
「あ、が、ぐぅッ!?」
「あなた、まさかさっきのひかりをまともにみたの!?くっ、あたしがもうすこしはやくおおっていれば…!」
オレの脳が沸騰したように熱を帯び、目から液体が零れるような錯覚に酔いそうになる。
しかし、決してオレの錯覚ではなかった。一拍遅れて口の中に入ってきた、目から零れた鉄の味がする液体に今度こそ本能が理解を拒み、膝から崩れ落ちた先で嘔吐する。
「うぶぉッ、おぇッ!おぇぇぇッ!!」
「しっかり!いしきをつよくもって、あなた!」
受け止めてくれていたプリシラの躰から逸れて嘔吐できたことが唯一の僥倖だった。その安心を片手に意識を手放せれば、どれだけ良かった事か。
残念ながら人間の思考は、オレたちの後ろに控えている土兵たちや機械のように意識を簡単に手放せる機能が備わっている訳ではない。
なのでこの一瞬の間に起こった出来事を、失明するかもしれないという絶望感と激痛による意識が割けそうになる中であっても、脳が理解する為にフル回転してしまい、答えを導き出してしまう。
レイラさんに攻撃されたという恐怖、“ヤツヨ”から聞いた超越物質持ちが命を落とす意味。黒覆面男によって集められた15人の女、オレの命を狙う存在がいるという推測込みの事実。
繋がる点同士かもしれないし、そうでないかもしれない。だが恐怖とは判断基準を曖昧にしてしまう。錯乱した今のオレは、繋がる筈のない点同士が結び付ける事だって出来てしまうのだ。
「目が、目がぁ!ああああッ!!」
痛みに慣れていない現実世界の人間の、答えを口から無意識に漏らしてしまう事を防ぐ為の最終自己防衛。痛みによる思考の蓋が爆発し、感情が漏れ出始めてしまった。
傍から見れば、大の男がみっともなく痛みに悶える姿にしか映らないだろう。だが今この感情が漏れ出たタイミングが、乱れ切った感情をなだらかにできる最後の分水嶺である事を。矛盾する点同士を結び付けない為の最後の抵抗であると、現実世界の人間たちはどれだけ知っているのだろう。
幼少期に虐められ、人生観を歪められた人間に貼られたレッテルは、そう簡単に剥がせるものではない。成人後に酒の席でしか謝る事ができない関係になってからでは、関係の修復など当然不可能だ。
既に本能が答えを理解している以上、軌道修正にも限界がある。得た答えを口にしたら完全に臨界点を超えて取り返しがつかなくなる。
だからレッテルが貼られた瞬間と事態が判明した初動は、事態解決を図るのであれば対応を絶対に間違えてはいけない。第三者の介入するタイミング、掛けるべき言葉、向けられるべき感情の矢印と大きさ、その他諸々が全て被虐者の心を満たすものでなければならないのだ。
ならば、オレの傷を即座に癒しに来てくれた目の前の法衣ドレスを身に纏った少女を、果たしてどのようにオレは評するべきなのだろう。オレの心は、正しく満たされるのだろうか。
「申し訳ありませんでした、カケル様。私の恩恵でカケル様を傷つけてしまった事、言葉だけで赦されるとは思いません。お守りすると誓った筈の、完全なる私の失態です」
自分のミスを認め、頭を深々と下げるレイラさんの姿に、痛みが引いて言葉が自由に選べるようになった筈のオレは言葉を返せない。…否、返す言葉を探そうとしたが適切な言葉が選べない予感がした。
何も考えず感情のままに口を開けば、恐らく取り返しのつかない言葉を吐いてしまう。どんな言葉が出てくるかは想像もつかないが、レイラさんとの関係に大きな溝を作るきっかけになるであろう事は簡単に想像がついた。
だからオレは、レイラさんの言葉を更に待った。何も言わず、ただレイラさんを見つめ続けた。
我ながら卑怯だと思う。言葉にしないと大切な事は相手に伝わらない、とは漫画やゲームのキャラクターたちが好んで使う文句だが、オレは言葉にしないが察してみせろと真逆の態度を示しているのだから。
それでいて、正確に汲み取れなければ感情は直ちに起爆すると表情で訴えているのだから、正しく歪みを直す事などできはしない。正解のない難問に対して100点満点の解答を要求しているものだ。
そんな不条理を強いられた筈のレイラさんは、まっすぐにオレを見つめ返しながら言葉を続けた。
「今は最低限の浄化しかできない事をお許しください。あの白翼族をカケル様の前で討ち取ってから、改めて浄化させていただきます」
「あ、ぁ…」
「その浄化の際に、カケル様の叱責をお受けいたします。どのようなお言葉であっても、どのような沙汰を下されても、私はカケル様に手を上げる事なく受け入れると誓いましょう。ですが今は、私の失態を僅かでも取り返す機会を優先させてください」
レイラさんらしい、嘘のつけない真っ直ぐな性格が改めて伝わってくる。そのお陰で、オレの感情の噴火も多少落ち着きを見せたらしい。
コクリと僅かに頭を動かすと、レイラさんはオレの背後に視線を移した。
「プリシラ様。暫くの間、私に代わってカケル様の事をお守りください」
「まかせて」
短い言葉のやり取りでお互いのするべき事を確認した二人は、即座に行動を開始した。
一人は再び光の速度で未だ目が眩んでいるらしい天使の前へ。一人は周囲には水の珠を何個も浮かべ、いつでも射出できるよう臨戦態勢のまま、オレを連れて門扉を抜ける隙を窺い始める。
「お待たせしました。カケル様ともお約束しました事ですし、貴女様にはこの場で物言わぬ肉袋になっていただきます」
黒い手袋を嵌め直し、レイラさんが冷たく天使に言い放つ。対する天使は覚悟を決め、首についた鎖で音を鳴らしながら拳を握って構え直す。
通常であればただの挑発に過ぎないレイラさんのこの言葉は、今のオレにとってはただの死の宣告にしか聞こえなかった。




