第4章45「女教皇と死神は天の調べに吊るされる3」
心の容量が小さければ他者を見渡す余裕は生まれないし、努力して積んだ知識が十分になければ他者を正しく導く事はできない。
二つの内どちらかが欠けても、あるいは歪に尖っても人間性という評価は著しく落ちてしまう。
バイクを盗んで見よう見真似で走り出したり、販売前の食べ物を指でつついた先にある光景は、誰もが容易に想像できる事だろう。
その点、天使はこの二つを持ち合わせている存在だとオレは思っている。さらに付け加えるならば、純真かつ清らかで慈愛に満ちた存在だ。
詳細な容姿は男の子だったり女の子だったり、もしくは動物だったりと各々の趣味嗜好が出てくるだろうが、今重要なのは慈愛に満ちた存在であるという事だ。
決して他人を獲物のように見定めて舌なめずりするような存在であってはならないし、オレに向ける表情が愛おしいものであるかのような誤解を生むものであってはならない。
「アンタの歪んだその表情、オレは好きじゃないんだ。止めてくれないか」
「あらぁ、それはどうして?どうか言葉で表してくださらない?」
ああ言えばこう言うを地で行くタイプの人間は現実世界でも一定数いるが、実際に目の当たりにすると漏れ出る嫌悪感が止められない。
オレと同じような表情を浮かべているのだろうプリシラも、無言ながら拳に水を溜める音が横から聞こえてくる。近寄らば殴り殺すと言わんばかりの彼女の闘志に、殺意を向けられていない筈のオレの体温が下がっていくのを感じた。
「あなたのかおがこのみじゃない、ってことよ。こっかくもにくづきも、ぜんぶかえてでなおしなさい」
「ふぅん、そのなだらかな躰で戦巫女の背中に隠れて言わなければ及第点の煽り文句ねぇ。それで?戦巫女も同じ言葉を重ねてくれるのかしらぁ」
艶めかしく自分の躰をオレたちに見せつけるよう、わざとらしくポージングしながら挑発を重ねてきた。人によっては欲を強く刺激する、赤らめた表情に柔らかい仕草は生唾を呑むだろう。
レイラさんもプリシラも、目の前の天使と比べれば胸の育ちは確かに慎ましい。一種のステータスとして、女性でも多少は夢見るものなのだろうと認めもする。
しかしオレ個人の好みで言うのなら、天使は残念ながら落第だ。外見は確かに他人の興味を引く強力な手段となるが、中身が伴わなければ自然と興味は離れていく。地面に埋める事なく放置された地雷原へ無防備にマラソンしに行くような真似は、オレだったらしたくはない。
「カケル様、念の為にお尋ねします。この白翼族がカケル様を襲った不届き者ですか?」
「そうです。自分もプリシラも、この女に襲われました」
なのでオレは、迷わずレイラさんに偽りない感情を共有した。敵として排除してほしいと、拒絶に近い感情を共有した。
オレの感情を受けて天使と向き合ったレイラさんの表情は、オレの立ち位置から伺う事はできない。けれども実際に向けられた天使の嗤う表情からして、相応の殺意が込められている事は容易に想像できた。
「フフ、相変わらず面白い人。巨大な猪をただの拳で打ちのめすだけの事はありますねぇ」
「…ボロアを狩りに行った時にラーファン山脈から見下ろしていた方でしたか。なら私の手の内も読まれているものと考えて良いでしょう」
「あらぁ、よく見ているのねぇ」と子供を誉めるような言葉とは裏腹に、レイラさんに向けている天使の目は獲物に狙いを定めた獣のそれだ。
視線を向けられていない筈のオレですら思わず委縮してしまいそうになる重圧なのに、視線を直に受けているレイラさんの姿勢は少しも変わらない。彼女の頼もしい背中を見て、オレの心に張り巡らされた緊張の糸が多少解れてくれたように思えた。
「なら解るでしょう?戦巫女の射程範囲内まで近寄らず、遠くから砲撃を浴びせ続ければ良いという単純なお話。でも残念な事に、わたくしが得意とするのも近接格闘戦。嫌ですわぁ、こんな蛮族と殴り合いだなんてーー」
天使の嫌味は、最後まで続かなかった。瞬間移動のような速さで突撃していったレイラさんの拳が、砲台を間近で使ったかのような轟音と共に天使の顔の骨格を歪めんと放たれたのだ。
しかし、レイラさんの拳は天使の顔には届いていない。天使の背中から生えている純白の翼によって、すんでの所で防御されてしまっていたからだ。ジリジリと何かを削る音が拳と翼の間で響いているが、一体何をレイラさんが削っているのかがまるで分からない。
それでいて、互いが攻撃の射程圏内に相手を収めている以上、二人が退く理由はどこにもない。レイラさんも天使も、有効打を相手に叩き込まんと拳と脚を構える間にも、天使の翼は浄化によって何かを削られていく。
「貴女様の種族の象徴である自慢の白い翼を浄化でむしり取られたくなければ、素直にその顔を差し出しなさい」
「やだ、蛮族がわたくしに勝つつもりだなんて。憐れを通り越してゾクゾクしちゃう」
素人でも唯一解るのは、今の打ち合いが開戦の狼煙になったという事だけだった。




