第4章42「落涙は女教皇を呼ぶサイン」
右を見ても石の壁、左を見ても石の壁。背後に気配を感じてふと振り返ってみると、先ほどまで確かに踏みしめていた床は垂直に立ち上がっている。
全ての部屋を隅々まで見て回って地図を埋めたがるマニアとは一生解り合えない性質を、この闘技場は備えていた。デレ乱数はどこですか?教えてくれRTA走者たち。
「おかしい。あたしのきおくがたしかなら、このあたりにうえへのぼるかいだんがあるはずなのに」
「階段の場所が移動したんだろ?もうこの手のギミックくらいじゃ驚かねぇよ」
「ふつうはおどろくよりさきに、げんじつばなれしたしかけがこわいってはんのうがでてくるとおもうわ、あなた」
確かに、地形そのものが生物のように動き回る事にオレは驚くべきだし、生きて闘技場を出る事ができないかもしれないと恐怖する場面なのだろう。
しかし残念ながら、地形変化の理不尽はソレイユと行動していた時に教えてもらっている。今更階段の場所が動いただけで驚くオレではない。
地形変化よりも、オレの心の余裕を奪う理不尽がオレたちの真後ろからピッタリとくっついてきている事の方が大問題だ。
「怖いって言ったらプリシラ、オレたちの真後ろをずっとついてくるあのゴーレムたちの方がずっと怖いだろ!?何なんだよ、襲ってくるでもなくずっとオレたちの後ろをついてきやがって!?」
「いくさみこほどじゃないけど、あれくらいならあたしでもさばけるわ。おそってこないなら、ほうっておいていいとおもう」
ちらりとプリシラが視線を背後に向けると、そこには軍服女を神輿に担いだ土兵一行。元はオレを月の国まで連行するよう白薔薇女に命令された軍服女が召喚したものだ。
命令系統が狂ったのか、それとも召喚主の指示がないからか、あるいはその両方か。どちらにせよ、まだ軍服女の息が掛かっている疑いが晴れていない土兵たちに、素直に背中を見せるほど心が許せる訳がなかった。
「でもこまったわ。これじゃいくさみこたちとごうりゅうできない。めいろってにがてなのよ」
「待て待て、ならどうやってレイラさんたちと合流するつもりだったんだ?」
「あたし、かべをこわせばいいっておもってたから。ちょくせんにすすめば、もくてきちまでいちばんはやくたどりつけるでしょう?」
「これだから戦闘民族はさァ!?」
迷路製作者に謝れ!壁ぶち抜き突破法は幼少期の子供だけの特権なんだぞ、良い歳した大人が堂々と力に任せて掘削しようとするんじゃねぇぞチクショウ!…と続けたかったが、武力行使で解決できる方法があったらプリシラと同じ事を考えたと思うので口には決して出さない。
とはいえ、レイラさんたちとこのまま合流するのは少し気が引ける。ソレイユの躰を打ち抜いた彼女の拳が、今でも鮮明に思い出せる。納得できる説明がなければ、オレはレイラさんをーー。
(ダメだ、それ以上は考えるな。言葉にしたら意識に残るって、昔から言ってるだろうが…!)
慌てて頭を振って、強制的に思考を崩して平らにする。崩しきれなかった場所から今の思考を再構築するまでの時間稼ぎにしかならないが、今この瞬間だけ目を背けられればそれでいい。
再構築される前に、別の思考をするのだ。例えばレイラさんとの合流方法とかーー。
「そ、そうだプリシラ!むしろレイラさんたちに見つけてもらうって方法はどうだ?信号弾みたいなものを出したりして!」
「しんごうだん?ってものはわからないけど、たぶんあなたのいいたいことはわかったわ」
咄嗟に浮かんだオレの提案を、プリシラなりに解釈してくれたらしく、彼女の掌から水の珠を作ってくれた。
珠はあっという間にプリシラの掌を離れ、徐々にその場で大きくなっていく。この光景にオレは既視感を覚えた。
「それって確か、フローア村の教会でオレを閉じ込める時に使った水の檻だよな?」
「そうよ、これはあのおりのおうよう。ひょうめんにみずのまくをうすくはって、くうきをいれていくの」
「へぇ、水に空気を入れるって器用な事もできるんだなーー」
いや待て、逆じゃない?プリシラがやりたい事って風船のそれだろうけど、水の膜に空気を入れるっておかしくないの?むしろ何で膨らませられるの?
「ん、そろそろはれつしそう。あなたはみみをふさいでて、じゃないとこまくがやぶれるわ」
「そんな強烈な音出せるのコレ!?」
オレの突っ込みを入れるよりも早く、事態はあっという間に進んでいたらしい。マジかよ夢世界、何から何までオレの理解の範疇を超えてやがるぞチクショウ。
そもそも、破裂音が聞こえる範囲の人間を全員呼び寄せる事にならないか?オレはレイラさんだけに判る信号を送ってくれれば良いって言ったつもりだったんだけど?
『ゴー…』
「んなッ!?何だいきなり!今になって襲い掛かってくるんじゃねぇぞコイツ!?」
白い目でプリシラを睨もうとしたオレの頭を、土兵の一人が優しく掴んだ。…否、正確には両耳を挟むように腕を添えられた。
オレの頭を捻って千切るでも、潰すでもなく、ただオレの耳を塞ぐ為にオレの背後に立った土兵。じたばたと暴れるオレの攻撃など痛くも痒くもないのだろう。まさに暴れる子供を宥める大人の図だ、オレと土兵がどちらの役かは言うまでもない。
「くっ、こっちのかげんがむずかしいからたすけられない!もう、はれつする…!」
何となくプリシラの口の動きから、こんなニュアンスで話をしているのだろうと当たりをつけてみる。土兵の腕がちょうど耳栓代わりになっていて、プリシラの声が聞き取りにくかったのだ。
もしかしてこの土兵、オレの鼓膜が破れないように耳を塞いでくれているのか?と心の隅で思い始めた頃。形の維持ができなくなった水の爆弾の、いよいよ破裂するタイミングと重なった。
瞬間、水の珠が周囲に弾け飛びながら溜め込んだ空気を解放しーー闘技場全体が轟音に痺れた。
オレのように土兵による耳栓をしていなかったら力強い音を浴びて、あるいは脳が震えて失神したかもしれない。
もしこの轟音をまともに浴びても、何事もなく動く事ができるのだとしたら。それはあらかじめ轟音のタイミングを示し合わせていたか、そもそも轟音によるダメージを無力化できる人間だ。こんな奇跡みたいな条件に合致しそうな人間は、オレは一人しか思い浮かばなかった。
「ご無事ですか、カケル様ッ!!」
轟音を浄化し、文字通り光速で床と壁を何度も蹴りながら音の発信源を目指していた少女ーーオレの想像通りの解答が、オレたちの目の前に現れた。




