第4章31「色染まるバケモノたちの舞踏会1」
覆面男の姿が見えなくなってから、どれだけの時間が経ったのだろう。10秒?30秒?それとも1分?…いや、それ以上に体感長く落ちている気がする。
床が未だに見えない現状、こうして落ちているオレの命はもう無いものと思った方が良い。何故って?現実世界において準備なしに長時間滞空し続けた人間の生存記録など、ほぼゼロに近い確率だからだ。
中には奇跡的に林に引っ掛かって複雑骨折程度で済む可能性もあるだろうが、残念ながらそんな豪運がオレに備わっているとは思えない。夢世界だから何とかなる?戯言は寝てから言いなさい。
(願いよ届け、願いよ届け…。よし、呪文の練習はばっちりだ)
オレの中に生まれたタロットをイメージし、思い出したくもないスライムの顔を脳裏に貼り付ける。…一瞬だけレイラさんの顔を思い浮かべたが、彼女でイメージの固定化はしなかった。理由は何となくだ、深い意味はない。
…いや嘘をついた、理由はある。ソレイユとの戦いの結末を見届けてから、無条件に信頼していたレイラさんを警戒するようになった。何か彼女にも理由があったようにも思うが、今は心のどこかで彼女を信用しきれない。
(いざとなったら…いや、着地の時を見計らって“悪魔”を使って助けてもらわないと。レイラさんに頼る以外の選択を)
探さないと、と意識するより先に。重力に従って落ちている筈のオレの身体が、更に加速した。
「な、んーー!?」
何かに引き寄せられるような違和感、その正体は分からないが…とてつもなく嫌な予感がする。オレの第六感が“悪魔”を今すぐ起動しろと警告してくる。
だがオレの警告は、唐突に姿を見せた死の恐怖に呑まれてしまった。先ほどまで練習していた筈の起動呪文は、すっかり頭の中からキレイさっぱり消えてしまっている。
人間、いざという時に身体が動いてくれない事はよくある。それ故の訓練なのだと、知識だけ溜め込んでも実践する場がなければ意味がないのだと、改めてオレは思い知る事になった。
「くそッ!タロットを、どうにか」
起動しなければと、ようやく意識して呪文を思い出した頃には、真下が既に光っている。もう間に合わない、それでもイチかバチか賭けて起動させるしかないーー。
「あー!ようやく落ちてきた…ってめっちゃ慣性乗ってる!?」
「この馬鹿、よく分からない力を勝手に使った結果でしょ!?ほらさっきまで使ってた力を弱めなさい!」
「い、今やった!」
ようやく黒一色の世界から抜け出せたと思ったら、未だ真っ黒な大口を開けた床が再びオレを吸い込もうと待ち構えていた。…違う、オレが落ちてきた天井が目の前にあるのだ。
階上の穴に落ちたのなら階下から見える景色は天井になければおかしくなる。考えれば当然の事象を、オレはたった今理解した。
そして理解を取り戻す時間を重ねれば重ねるほど、オレの置かれた状況も把握していく。
今のオレは、天井に空いた穴から飛び出してきた直後に何者かの力のお陰で浮かされている状態らしい。おかげで頭に竹のプロペラをつけなくても滞空できている。オレの身体も加速したり停止したり忙しい、内臓シェイク状態でとても気持ち悪いのはその所為だろう。
だが、オレに起こった事は良い事ばかりでもないらしい。
たった今聞こえてきた二人の声の正体を、オレは知らない。真下で待ち構えているらしい人間の声色から、女である事が分かるくらいか。
黎明旅団の面々の誰か…という可能性も無くはないが、ざっと思い出せる声色を浮かべても誰とも合致しない。顔や服といった視覚情報が全くない以上、現段階で決を採るしかない。
つまりは敵。完全な味方ではない人間がオレを待ち構えている事になる。
だがオレを亡き者にするつもりであれば、このまま地面に叩きつければ良い。それをしないという事は、少なくともオレの命に価値を見出している面々という事だろう。その意味では一応の命の保障をしてくれそうだと安心する。
ともかく、今は下に待ち受けている人間が敵でも良い。まずは受け止めてほしいと必死に願った。
…ところが。オレの願いは神様に聞き届けられるどころかそっぽを向かれてしまった。
視界一面に映っていた筈の天井は少しずつ離れていく。浮いていたオレの身体の高度が落ちているのだ。
「あ、あれ?さっきまで調子よく使えてたのに、急に全身の力が抜けてきちゃった…」
「んな!?」
真下から聞こえる気怠そうな人間の声に、オレも思わず「は?」と声が漏れる。…やっぱりオレの命、ここで潰れるかもしれない。
もう一人の反応からして救命用の緩衝材を敷いている訳でもないらしい。視界が真下に向いていなくて良かったと、つくづく思う。…アクリス村でも同じような事があった気がするな。
「ま、まだ落とすんじゃないわよ!落下してくるあの男を受け止める自信なんてカノン無いんだから、早くゆっくり下ろしなさい!」
「むぅ…難しい注文しないでよぅ」
抗議する甘ったるい声色の女だが、注文通りに男を床に下ろそうとする辺りは義理堅い性格らしい。本当に少しずつ、天井が遠くなっていくのが分かる。
まだか、まだかとソワソワするオレの緊張感が伝わったのか、「う、動かないでぇ…」と注文される始末だ。…すみません、大人しくしてます。
とはいえ、時折身体が揺れるのはよろしくない。そして揺れる頻度も多くなってきた。
天地無用の他に取扱注意も併記してなかったんですか?人間ってすぐ壊れるから無闇に揺らしちゃダメなんですよ!…そもそも人間を荷物にするな?それはそう。
「あ…もうむり、眠気がマックスぅ…」
「待て待て誰だか知らないけどもう少し頑張ってくれ!あとどれだけ高さがあるか分からないけどまだ粘ってくれ!!」
「そ、そうよ!あと3メートル…いや2メートルで良いから!」
「それもう床だしぃ…むにゃ」
むにゃ、って言ったぞ!?もう夢の世界に飛び立とうとしている前兆じゃねぇかチクショウ!!
そしてしれっと自分だけ仕事を放棄しようとするんじゃねぇぞ、アンタも仕事をしろもう一人の女ァ!!
「その人、おちるから後はがんばって…」
「「ふ、ざ、け、る、なーッ!!」」
大合唱の一拍後、オレの身体は虚しく床に叩きつけられた。こんな事の為にタロットを起動する気になれなかった事も災いした。
普段のレイラさんがいかに化物じみた腕力と脚力を持っているのか、改めて思い知った瞬間だった。




