第4章17「贈り物は地上から降ってくる3」
見知った人間たちの間にも礼節は存在する。たとえどんなに良好な関係であっても、それを掛け違えば一瞬で積年の努力が泡と消えるのは言うまでもない。
ならば見知らぬ相手にこそ、より礼儀を尽くすべきだとオレは思う。初期対応で印象がガラリと変わるという話は、どこに行っても聞く有名な話の筈だ。
だが…どうやらこの天使モドキは、他人の心の畳縁を土足で踏みつける事に何も抵抗がないらしい。
一切抵抗せず相手に従え?部下の教育はどうなっているんだ上司、機会があればアンタの顔を拝んでやりたいわチクショウ。
「今の言葉で誰がアンタの手を取るって?他人の事は言えた義理じゃないけど、それが口説き文句のつもりなら落第点以下だぞ」
「あらぁ、それは残念。わたくしも殿方の心を掴む会話術の一つくらい仕込んでくるべきだったわぁ」
いくら見た目は飾る事ができても、内面が表れる言葉だけは飾れない。…ほんわか属性というめちゃ強素材を活かせないのなら、営業トークで男を落とせると思うなよ?
そんなオレの心を察してか、金色の光の刺繍が施された赤い頭巾が水の大鎌を手に迫っていく。振り上げたその得物が命を刈るのに、一切の躊躇いはなかった。
「このひとに、ふれるな!」
「貴女、そんな物騒なものを振り回すのねぇ。怖いわぁ」
プリシラの必殺の鎌が乱舞するが、未だにその水に色はつかない。ひらり、またひらりと躱すだけで、女の浮かべる表情が崩れる様子はない。それどころか、反撃する姿勢を見せていない。
まるで誰かに「こちらから手を出すな」と厳命され、その指示に従っているかのような動きーー水鎌の間合いを見切っているかのようにステップを軽快に踏む姿は、氷上で滑る演者のそれだ。
舐められている、その態度に隠された感情を察しないプリシラではない。大鎌を操る手に力がより入っていくのが、戦闘素人のオレから見ても分かる。
「よけ、るな…!」
「だって当たったらタダじゃ済まなさそうだものぉ」
まるで鈍器のように振り回す水は、見るからに重く鋭い。土を抉り、畑の中に違法建築している木造家屋を粉微塵にする様は、今のプリシラの感情を余さず乗せているかのようだ。
その感情に女は、敢えて錘を追加で乗せていく。指をクイと動かし「本気で掛かってこい」と、マニュアル通りの挑発までしてくる始末だ。
「…あそんでいるつもりなら、めにものをみせてやるわ」
遂に堪忍袋の緒が切れたのか、鎌の形を解いて篭手へと水を変形させるプリシラ。「あらぁ」と女が驚くのと同時、ピクリと無意識に構えた腕の動きをプリシラは見逃さない。
鎌の動きに女の目が慣れた頃を狙った、得物の形と間合いそのものを変える事で動揺を誘う死神の得意戦術。これを初見で看破し、あまつさえ反撃しようと考えるなど、格闘姫のような化物染みた戦闘技能が備わっていなければ思いつく筈もない。
ましてや、顔に被弾しないよう構えた腕にプリシラの水拳が触れるだけで力が抜けていくなど、誰が想定できるだろうか。
「これ、は…!?」
「とらえた、もうはなさない!」
死神の拳がしなり続け、女の上半身を叩き続けていく。鎌の形態よりも手数の多い攻撃、そして出の早い拳の不規則な動きに女は初めて表情を変えた。
目の慣れない女に、先のような華麗な回避などできる筈がない。気がついた時には既に鈍化が重なり、回避すらままならなくなる。自然、力を吸収されるのでガードの意識も甘くなっていく。
上下、そして左右。変幻自在に軌道を描く水の拳の勢いは止まらない。少しでもガードを崩したら急所に致命の一撃を放ってやると、息もつかせぬ速さで拳撃を浴びせ続けて反撃する気力すら湧かせない。
「確かに、防げないその攻撃は厄介ねぇ…。わたくし、貴女の実力を低く見積もり過ぎたみたい」
「ならそのあまいみつもりをだしたーー」
女の意識がプリシラの拳に向いたのと同時、死神の脚が女の軸足を蹴り薙いだ。
傍から見れば、線の細い少女が放つにしては良い音を鳴らすただの下段蹴り。しかし死神製の毒が全身を蝕む中で受けるそれは、女の重心を崩し致命的な隙をもたらした。
躰のバランスを崩す事で伸びる腹の筋、顔の守りは万全でも臓器の守りが疎かになれば、狙う場所は自然とそこになる。
「むかしのじぶんをのろいなさい」
水の篭手に覆われた黒い拳が力強く握られ、踏み込みと共に弧を描きながら穿たれた。めり…と女の内臓の悲鳴が聞こえてくるようだ。
オレも話を聞いただけだが、プリシラの恩恵を身体の芯…つまりは魔力を通す要所に叩き込まれると、そこの力を封じてしまうのだとか。要するに力のツボを強制的に抑えてしまうので、戦闘どころか立ち続ける事すら困難になるのだという。
格闘技の目線でも渾身の一撃が入った事は伝わるし、何よりプリシラの恩恵上、芯を捉えたという意味ほど恐ろしいものはない。
「……あなた、なにをしたの?」
だが、いつまで経っても女の口から、生理的に出る筈のくぐもった声が漏れる事はなかった。それどころか、今も体内で暴れ回っているであろう鈍痛に耐えかねて崩れ落ちる素振りすら見せない。
更には、いつの間にか女の躰を侵食していた筈の水は消え去っており、女の腹に刺さっているのは黒い手袋で包まれたプリシラの拳だけだった。
プリシラが焦燥するのも無理はない。交戦中に自分の恩恵の出力を控える事はしない筈だし、彼女の格闘術はレイラさんやソレイユらと張り合える高レベルのものだと思っていた。
だからこそ、何をされたのか解らない相手の恩恵にプリシラの心が乱される。前線で戦うプリシラでさえ心を乱すのだ、後ろで控えているだけの戦闘素人は欠片も理解できる筈がない。
「今のは、良い一撃だったわぁ。久々にちょっと…興奮しちゃった」
ようやく開いた口からは、女の艶っぽい声色が漏れ出てきた。言葉だけ聞けば男の欲を刺激する魔性の言葉だが、今のオレには全くの逆効果だ。
興奮はより負の方向へ、脂汗と体温低下をもたらしていく。頭の中が鐘を鳴らし、呼吸が思わず早くなる。そんな興奮状態を、恐怖から来るそれだと思い出すのにそう時間は掛からなかった。
何故今の打撃を受けて興奮できる?何故…プリシラの恩恵で動けなくなる程の毒を受けながら、何事もなかったかのように動く事ができる?
何一つこれらの疑問の終着点に辿り着く為の道筋が分からないまま、興奮する女が尚も言葉を吐いていく。
「それともう一つ、お伝えし忘れておりましたぁ。実はわたくし、仲間内では『蹴撃の天使』と呼ばれてて…。他の天使たちより、すこぉし暴力沙汰には慣れているの」
純白の翼が音を立てて眼前のプリシラを威嚇し始める。不穏な言葉が羅列される中に隠れた殺気が、先ほどよりも分かりやすく色付いた。
勿論、プリシラも女の殺気を感じ取って回避行動を取らなかった訳ではない。しかしその回避先に潜り込むように空気を蹴った女が、プリシラを攻撃の射程圏内に収めた。
「わたくしにズルを使わせるくらい、追い込んでくれた貴女に敬意を払って…。命令違反、しちゃいますねぇ」
ギュルンと空気を踏みつける音が響き、天使の脚がしなり始める。音の正体がその場にない踏み台を作った物だと認識した時には、プリシラの躰は真横に薙がれていた。
「あぁッ!?」
現実世界で言う所の三日月蹴り、下手をすれば内臓を破壊しかねない禁断の蹴り技だ。いくら格闘技術に秀でていても、見た目が華奢な女の子がまともに受けて良い技ではない。
女の脚が振り抜かれ、プリシラの躰が地面を激しく転がっていく。点々と赤い液体を垂らしながら、ようやくその勢いが止まった頃…彼女の躰はオレの目の前でのたうち回っていた。
「う、ぐ…ぁ」
「貴女の血、とぉっても綺麗ねぇ。もっとよく見せてちょうだぁい」
内臓を潰されたらしいプリシラが改めて吐血する。酸と鉄の臭いに当てられ、オレまで気持ち悪くなってきた。
だが、戦闘のできないオレの代わりに動いてくれた少女を前に、同じ醜態を晒す訳にはいかない。吐き出したい気持ちを堪え、わざとらしく地面を蹴りながらこちらに近付く女を睨みつけた。
ーー先にも述べたように、オレには戦う力がない。対応を間違えるなよ、オレ。この変態女に、燃料を与えるんじゃないぞ…。
●機会があれば上司の顔を拝んでやりたい
その機会は後ほど。やったね主人公君、願いが叶うよ!
でもこの天使さんの言う事に反抗したくなるのは道理、実際この天使さんも素直についてくるとは思っていなかったようです。「少しくらい味見、しても良いわよねぇ?」と言わんばかりに襲い掛かってきます。戦闘は、どうあっても避けられません。
●手負いの死神vs蹴撃の天使
弱体化しているとはいえ、プリシラの攻撃を躱し続ける天使も相当の技量の持ち主。
それでもプリシラの「相手の力を奪う恩恵」という戦闘特化の初見殺しを回避できる訳がありません。回避できるとしたら、それは事前にプリシラの恩恵の情報を知っている人間だけでしょう。ただし知っていても完全回避できるとは言わないものとする。
…が、この天使さん。どうやらプリシラの恩恵を跳ね返す奥の手があるようで。嫌なルビですねぇ、一体何のタロットを持っていると言うんだ…。




