第4章12「月下の密談1」
歌声が聞こえる。子守唄のような、しかしそれでいて美しい声色は聞いていて気持ちがいい。
現実世界では多少だがピアノを齧った事があるので音やリズムのズレには少しうるさいが、この声には嫌悪感が全く湧かない。叶うのならこのまま聞き入っていたいくらいだ。
だが、それは流石に遠慮する事にした。オレの記憶が定かなら、最後に傍に居たのはあの軟体生物だ。ならば可能性が高いのは、軟体生物による美声独唱。…折角の気分の良い夢を現実に破られたくはない。
無駄にイケメン声である事は認めるが、全てを台無しにする言葉選びと下劣な表情を挟むのはいただけない。残念ながら生物である以上、たった数個の欠点だけで評価は右肩に下がるのだ。むしろ直角に下がってくれ。
他の要素がどれだけ優れていたとしても、結局ヒトは自分が攻撃しやすい短所に視線が向いてしまう。
自分を上に立たせたいが為、マウント合戦を「生物の競争」とまで言い始める輩とはウマが合わないと常々思う所だ。
…マウント思考なんてつまらない以外の何者でもないし、染まらないよう努めているつもりだが、この軟体生物にだけはどうにか例外適応させたい。
女神様、願わくばこの美声でオレの睡眠を妨害する不届きな軟体生物に、恨み辛み拳を見舞う許可をくださいーー。
「気がつかれましたか、カケル様」
「れ、いら…さん?」
違った。美少女の子守唄だった。非常に勿体ない事をしてしまった気がする。勿論、心の中で拳はしっかり引っ込めているので安心してほしい。
だが一度目を覚ましてしまった以上、再び意識を引っ込める訳にはいかない。そもそも、今のオレの視線の角度がよろしくない。
どうやら今のオレは、美少女の膝に頭を乗せているらしい。慎ましい白い山、青いリボン、その奥でオレを心配するように可憐な顔が、淡い水色の髪を揺らしながら窺っている。
つまりオレの顔が乗っているここは、幾人もの暴漢たちを叩きのめしたとは思えない柔らかい感覚の上ーーレイラさんの脚の上だ。
男の天国がそこにはあった。甘い夢に誘われ、今にも届きそうなそれらに手を伸ばしたいと誰もが思う事だろう。オレも少し心が揺れた。
だが、それは良くない。何よりオレには…他人に甘える資格がない。それどころか、オレの全身に力が入ってしまう。
「すみま、せん。すぐ立ちますーー」
ぐっと身体に力を入れ…ようとして、それが叶わず身体が震える。よほど体力を使っていたのか、過剰疲労を起こした後のような脱力感がオレの身体を押さえつけていた。
それを何度か繰り返していると、レイラさんの手がオレの顔に触れる。オレの体温が低くなっていたのか、その手はほんのりと温かい。
「どうかこのままで。カケル様もお疲れのご様子、暫くは私にカケル様のお時間をいただけませんか?」
ーーここまで分かりやすい据え膳は、現実世界でもそうそうお目に掛かれない。整った容姿を持つ女の子に甘く誘われようものなら、首を縦に振らない男など居ないだろう。
けれどオレは感情を抑えた。これ以上感情が揺れないよう、なるべく視線をレイラさんから逸らし…視界いっぱいにこの部屋にある巨大なステンドグラスを納めて抵抗する。
相手は高嶺の花、どんなに凡夫が背伸びをした所で決して届かない肩書き持ちの美少女。それでいて穢れなき心身を表しているように纏う白と青のドレスは、まさに彼女自身の在り方と言えよう。
強いて彼女の短所を挙げるなら…山がなだらかな所だろうか。でもオレは逆に大きすぎる方が苦手なので、レイラさんの容姿は真に完璧であると声を大にして叫びたい。…実際に声に出すのは自重するが。
そんな無垢の化身を、薄汚れた俗物が汚して良いわけがない。赦されるわけがない。
立場を弁えろ、常に客観しろ、自我を持つな、泥水を喜べ。
心の中で自らに罵声を浴びせ、精神の肥大化を抑制する。レイラさんも嫌がっているだろう?だからこれは決してオレの自己満足ではない、相手も見知らぬ歳離れた男の頭を乗せて気持ち良い筈が無いのだーー。
「急に頭を動かすと危ないですよ。打ち付けてしまいます」
「…ならせめて、頭だけでも膝から降ろしてもらえますか?」
「いいえ、このままで。顔は横のままで大丈夫ですので、意識だけでもこちらに向けていただけたら嬉しいです」
レイラさんの声がどこまでも柔らかい。全くオレを拒まない姿勢に、思わず身震いしてしまった。
何故?どうして?目を合わせない、顔を向けていないのだから根気よく会話してくれなくても良いのに。
他人と話すオレの眼は、常にどこか明後日の方を向いている。オレの悪癖の一つだ。
会話が不得手という要因もあるだろうが、何より心中を見透かされる感覚が苦手なのだ。
たとえそれが一瞬こちらに眼を配らせるだけの儀礼だったとしても、視線が合うだけでオレは嫌悪する。
現実世界の朝礼なんかは最悪だ、瞬間的に数十対の眼がこちらを注目するのだから吐き気すら覚える。相手を案山子に見立てようともしたが、やはり嫌悪感は拭いきれなかった。
そんな悪癖を、レイラさんだけに見せている訳ではない。ソレイユや黎明旅団の面々、そしてプリシラ相手に何度もやらかしている自覚がある。常習犯なのだ。
けれどもレイラさんは、罪人の悪癖を指摘してみせた上で、受け入れている。
彼女の優しさが気持ち悪さに変換されていく。意味が解らない。
触れるレイラさんの手がいつ握り拳に変わってもおかしくない。張り倒されたって文句は言えない。罪人には、飴ではなく鞭がお似合いだ。
しかしレイラさんの小さな手は、いつまで経っても振りかぶる事はなかった。
「カケル様、誰にでも得手不得手はあります。私にだってあります。それを強制する事はしません。…カケル様が面と向かって話をされないのは、会話そのものが不得手であろうという事も察していました」
「ならどうしてーー」
「何故構われるのか、と問われますと少し困ります。これでも私、カケル様の護衛役ですので」
嫌な事は嫌と言って良いんですよレイラさん…。それに、オレみたいな礼儀知らずを野放しにしていたら増長してしまいますーー
「それに私、今はこの教会で軟禁されている状態なんです。時間を持て余しているんですよ。私の我儘にどうかお付き合いいただけませんか?」
…他にも理由をつけてレイラさんに膝枕から下ろしてもらおうと試みようとするが、まるで図ったようにオレに二の句を継がせない。
柔らかな表情の中にある言葉の圧が、オレの中にある気持ち悪さを飲み込ませ、「…はい」と首を縦に振らせた。
元々力関係で負けているのだから、レイラさんに請われれば従うしかない。正直に言って全く納得していないが、今回は辛抱強くオレが折れるのを待ち続けたレイラさんの勝ちだ。
というより今いる場所って、フローア村の教会か。道理で見た事のある立派なステンドグラスだと思った。差し込む光の具合からして…今は夜だろうか。
なら、眠気が来るまでは大人しくレイラさんの話し相手に徹しよう。どうせ(物理的に)動けないのだ、オレも話をするくらいしか時間を潰す手段がない。
「えっと、じゃあレイラさん。軟禁って一体何をしたんです?」
「私は何も。ですがもう一人の私が色々と悪さをしたようです」
もう一人のレイラさんって…”ヤツヨ”が言っていた自動人形とやらの事だろうか。あの老司祭は影染兵と言っていた気がしたが。
寝起きの所為もあって状況が全く整理できないが、オレとプリシラを急襲したあの和装束の女と何か関係があったりするのか。
「…お察しの通り、カケル様を襲った方を解放したのは、私が追いかけている影染兵です。黎明旅団の方々の噂話と併せて、間違いはないでしょう」
「レイラさん、一体いつ女神様と同じ読心術を身につけたんですか」
思わず声に出して突っ込んでしまった。そんなオレの反応を見てか、くすりと微笑む声が頭上から聞こえてくる。
「あの方と同じと言われると少し思う所はありますが、何となくカケル様がそう思っていそうだなと」
どんだけオレの表情分かりやすいんだよ。というより、顔を背けている筈だから表情も分からないですよね普通?
「…こほん。黎明旅団の方々も私の影染兵を見つける事ができなかったそうで、仕方なく私をこのフローア村の教会に押し込めた…というのが現状です。なので今、この教会にいるのは私とカケル様だけ…と、言いたいのですが」
言葉の切れが悪くなるレイラさんに、オレもつい訝しむ。
ここが教会の中だという事は分かった、オレもレイラさん同様に軟禁されている事も(納得はしていないが)理解はした。
だが、他にも軟禁する必要のある人物がいるのだろうかーー。
「吾輩、そろそろ喋って良い? 良いよね? お預け食らってから10分経ってるよ?」
「うわ…」
急にオレの目の前に物悲しそうな表情で覗いてくるんじゃねぇ軟体生物! 思わず口から本音が漏れたじゃねぇか!
それと10分くらいならお預けとは言わねぇ、忍耐力を鍛え直してこい。
「この”悪魔”様の他にも、プリシラ様を浄化目的で運んでいただいています。食糧はアクリス村でいただいたものがありますので、困る事はないと思いますが…」
「浄化…そういえばプリシラ、さっきの戦いの傷ーーッ!」
「そちらは浄化済みです。酷い傷でしたが、命に別状はありません」
思わずその場で暴れるオレを、しかしレイラさんは冷静に片手だけで制した。
…いつもながら彼女の細腕のどこに、暴れる大の男を抑え込む力が隠されているんだ。
でもプリシラが無事なら良かった、前線に立った彼女のお陰で木偶の棒も生き残れたのだから。
「それはそうと、嬢ちゃんも含めておヌシたちに大事な話をしておこうと思う。今から嬢ちゃんを連れてくるから、ここを動かないでくれたまえ」
オレの視線に合わせるように伸びてきた軟体生物の身長が縮んでいき、ぬちゃぬちゃと粘着質な音を立てながら部屋を出ていった。
…あの軟体生物から大事な話があるって、一体どんな内容なのだろうか。
●教会にまた閉じ込められてるよ主人公君…
今回は中にいるメンバーが変わり月の国の面々ほぼオンリーとなっています。前回のように顔を合わせる度に拳と脚が乱舞するような事はありません。…ないと良いなぁ?
●音感持ち主人公君
ピアノに限らず、楽器は良いものです。両手の指を動かす訓練にもなりますからね!ある程度なら音感は鍛えられます。絶対音感?そんな高級スキル、主人公君には備わっていないですね…。
さて、教会に音楽と言ったらオルガンや賛歌。主人公君に子守唄と称されてしまったヒロインちゃんですが、賛歌はお手の物です。
オルガンさえあればヒロインちゃんと仲を深める為に使えそうですが…残念ながらこの教会には置いていない様子。オルガン弾きの練習は必要なものの、気になったら誰か作ってくれそうな人を探してみるのも良いかもですね。
●うわ…この主人公、自己肯定力低すぎ…
子供とは増長する生物ですが、感情の根本を叩けば治るというものでもありません。
どうやらこの主人公君、対人関係において何か良くない事でもあったのでしょうか。親身になってくれる誰かに対しても視線を合わせないようでは、その傷の修復も容易ではなさそうです。
それでも主人公君に付き添うヒロインちゃんは聖人か何かでしょうか。それとも…何か主人公君について行く理由があったり?
●ヒロインちゃん軟禁物語
偽物が行った(という発言がある)とはいえ、捕えていた(太陽の国にとっての)刺客を解放した…。これだけで、黎明旅団の面々にとっては牢獄行き片道切符を手渡すのに充分すぎる理由になります。
特に軟禁期間は定めていないようですが、主人公君たちはこの間、当然ながら外の情報を仕入れる事ができません。気が狂うのを避ける意味でも、適度にヒロインちゃんたちと今の内に交流するのが良いでしょう。




