第4章05「行きは虚しく、帰りは満ちる1」
「エリアス湖の主を釣り上げて酒盛りし、月の国に連行されまいと脱走を試みたオレは色々な人から追い回された」。プリシラに強制的に連れてこられたこのアクリス村での、過ごした時間に対する出来事の濃密さは、たった50字で纏めただけでは表しきれない。
恐らく多くの幸運があって今の命あるオレがいると思うと、助け出してくれたソレイユたちには感謝しかない。勿論、一番感謝しているのはレイラさんなのだが…この場で口にするのは大変よろしくない。いくら何でも、見えている地雷には引っ掛かりにいくものじゃないからな。
とはいえ、ここでの生活も最後だと思うと少し寂しさを覚える。郷愁の念という訳ではないが、フローア村にいた時より確かに食事が美味しかった。
先日ソレイユが差し入れてくれたカット果物の質が違っていたから、恐らく食材の新鮮さが影響しているのかもしれない。思わぬ所で想像できてしまう『黎明旅団』の食事事情、そしてこれでもかと荷車に詰め込まれた生鮮食品や樽に詰め込まれた水たちを見て、思わず苦笑が隠せなかった。
「…突然ニマニマするんじゃないわよオジサン、思わず蹴りたくなったじゃない」
「いや、ここの食事美味しかったなぁって思い返してつい。やっぱり食材は新鮮な方が良いし、もう少しここに居てもーーごぶぇッ!?」
「このオジサン、今から肉袋にしてやろうかしら」
もうなってます。鳩尾への膝の奇襲でオレの心はへし折れました。だからもう止めてくださいお願いします…。
加害者を睨みながら浄化してくれたレイラさんのおかげでどうにか鈍痛は治まってきたものの、脳に刻まれた痛みの記憶は今も気持ち悪さを訴えている。「肩をお貸しします」と言ってくれたレイラさんに甘えるしかないオレ自身の情けなさに思わず溜息が漏れてしまった。
その溜息に眉をひそめながら、レイラさんがこちらに覗き込んでくる。
「カケル様、今の言葉は私でもどうかと思います。確かにこのアクリス村の食材はフローア村と比べて鮮度が段違いに良いのは認めますが「あ゛ぁ!?」、今の月の国にほど近いこのアクリス村に留まり続けるのは、どうかお考え直しください」
「え…?」
言葉の内容からアクリス村に留まりたかった溜息と思われてしまったらしいが、それは一体どういう…。オレの表情で疑問を悟ってくれたらしいレイラさんは、一つ咳払いをすると人差し指を立てて言葉を続けていく。
「敵国の要人がいる中で自国事情を話すのは本来タブーなのですが、今は仕方ありません。私を追放した月の国の現在のトップは、私と同じ“賢者”の位を戴く者。私のような外様とは異なり、れっきとした譜代の貴族…ウルスラ様が実権を握っています」
「あー、あの白薔薇。アレが今のトップなら、アンタが眠りの森に押し込まれるのも無理ない話ね、ご愁傷様ーー」
「せいッ!!…彼女は私のような外様を、傍に置いておきたくない性格でして。逆に自分の思う通りに動く臣下たちは重宝し、要職に抜擢する事もあるようです。結果が全て、みたいな考えの方ですね」
突然背後から現れた影武者の土手っ腹に後ろ蹴りをかまし、急所を抉った足応えを確認したレイラさんによって一瞬言葉が切れてしまったが、成程まるで独裁者だ。現実の畜生上司をつい思い出してしまい、余計に気持ち悪さが込み上げてきた。
そんな権力の頂点が何故オレのようなオッサンを連れてくるよう老司祭に命じていたのか、正直知りたくもない。だが、知らなければ対策を立てようがないのも事実だ。断片ながらも情報を持ち合わせている以上、レイラさんに共有しない訳にはいくまい。
「さっきレイラさんが言っていた、ウルスラって人ですけど。確かオレが教会の地下でプリシラと話をしていた時、雇い主の名前で挙がっていたような気がーー」
その瞬間、レイラさんからあらゆる表情が掻き消えた。
貸してくれている小さな肩に添えられた手から、一歩ずつ踏みしめられる足から、冷気が漏れ出ているのが解る。ーー教会の豪華牢屋での一幕を、彼女の冷たい感情を、つい思い出した。
呼吸する事を忘れる。酸素を回すべき脳に十分量が行き渡らず痛みを覚える。それらに呼応して命の危機を身体が察知し汗が噴き出る。
一つの歯車を掛け違えた事で、オレの中の絡繰りが削れていく。まるで直接心臓を握られているような恐怖、それだけがひたすらに積もっていく。
「女教皇ちゃん、ボクに同じ事を言わせないでほしいね」
以前と同様、危機を脱する為に思考と視界が歪みかけたその時。女神様の手を叩く音が背後から響いた。
まるで緊張の糸を切る鋏のように、オレの全身から力が抜けるのを感じる。肺がようやく自分の仕事を思い出し、咳き込みながらも必死に酸素を求めて横隔膜を収縮弛緩させていく。
「それ以上は彼が死んでしまう。それともキミ、ここで彼の息の根を止めるつもりだったのかい?」
「…申し訳ありません、カケル様。心が乱れてしまいました」
唇を強く噛んでいるのか、レイラさんの声色が震えている。オレを傷つけるつもりはなかったのだと、赦しを請うように顔を俯かせていた。
自分に嘘がつけない性格とは難儀なものだ。それ故に、感情をコントロールできなかった彼女自身の不甲斐なさを恥じているのだろう。
「だい、じょうぶ…です。気にしないで、ください」
「ですがッ!私は、二度もカケル様に殺気を…!」
だから敢えて、オレはその様子を直視する。劣等感を広げる必要はない、だからこそ正面からレイラさんの感情を受け止める。
オレのその視線に気付いたレイラさんは、思わず声を詰まらせたらしい。ーー嘘を見抜く事ができる彼女だからこそ、オレの言葉に嘘がない事を理解したのだろう。
「誰も彼もが、完璧な人間って訳じゃ、ありません。自分だって同じ失敗は、何度もしますから。それと同じですよ」
コツン、と拳をレイラさんの額に当てる。格闘に精通しているであろうレイラさんからしたら、ダメージにもならない筈の一発に「うっ」と小さく呻きながら身体を震わせた。
「これで、おあいこって事で。ダメですか?」
「…カケル様は、ズルいです」
それ以上の感情を出すまいと口を引き結び、しかしまだ赦される訳にはいかないと暗い表情が雄弁に語っている。ならばと、オレは悪戯心で口を開いた。
「じゃあ今度、またレイラさんの作る料理、食べさせてください。それでこの件は、流すって事で」
「りょ、料理…。分かりました、ですが失敗しても怒らないでくださいね?」
思わず苦悶の声が漏れた月の国の賢者様。膨らむ頬を赤らめ拗ねた目でこちらを見つめる彼女の表情からは、つい先ほどまでの暗さが無くなっていた。
(これ、オッサンが素でやるのキッツ…)
古いアドベンチャーゲームの記憶を引っ張ってきた甲斐があったというものだ。これでレイラさんの機嫌も少しは戻ってくれたと思いたいーー。
「おい嘘だろあの男、『戦巫女』を言い包めたぞ」「オジサンやるぅ」「これがメスの顔って奴かぁ」「あ?まるでウチに女がいないみたいな事言うんじゃねぇって。実際似たようなモンだけど」「貴方たち、一度土に還ってみます?」
…外野がうるさくなってきたな。これ以上彼ら彼女らの暴言を放置しているとレイラさんの感情が公開処刑にされてしまうので、違う感情の捌け口を用意する事にした。
「レイラさん、少し言葉が聞こえにくくなったように思います」
「…分かりました。しばしお待ちを、10秒で片付けます」
その後、積み荷に数人を転がすスペースが急遽作られる事となった。マイティとソレイユの雷が団員全員に落とされる事になったのは、言うまでもないだろう。
●「鮮度が段違いに良い」
産地が消費地の最大手。美味しいものはその場で食しなさい、という事ですね。
このアクリス村近くにあるエリアス湖で獲れるチトは、月の国のお偉いさんへの献上品として選ばれる高級食材ではありますが、やはり現地で食べる味と比べて少しグレードが落ちてしまうようです。
チトより保存期間の長い果物や野菜も、産地からの移動距離が長ければ長い程に味も落ちていきます。ソレイユや、マイティたち『黎明旅団』の面々は、どうしてもこれら生鮮食品の長期保管ができない為に生に近い状態で食する機会にあまり恵まれません。
…ちなみに、1章のヒロインちゃんのように超特急で産地から取り寄せる場合は例外です。でも主人公君の評価は作中の通り。男の胃袋を掴みきれていないぞ、ヒロインちゃん…!
●ウルスラ 2
ソレイユが「白薔薇」と評していた通り、身体のあちこちに白薔薇を咲かせる白衣装を纏っています。
その実態は、現在の月の国の実権を握る「賢者」。自分の想定通りに動かない者を積極的に排除しにいく我儘なお姫様です。他人を立てるヒロインちゃんとは相性が良いようで大変悪い様子…。
…ところで。第3章05でも触れているように、ソレイユはヒロインちゃん以外の月の国の人間に興味を持っていない様子。プリシラが襲来した時のように顔すら知らない相手が多い中、どうしてピンポイントで敵国の情報を握っているのでしょうか…?




