第3章38「死神の恋文1」
人間という生物は、個人差はあれども温まった思考を十分に冷却させるのに時間がかかってしまう。特に命を賭した戦場ほど、無理やり感情をくべていくものだ。正常な思考にまで戻すのに、インスタント麺を作る程度の時間ではまず足りないのは明白だろう。
さて、何やら不穏な空気を感じて怠い身体を無理やり覚醒させたオレのすぐ傍には、熱々の思考が二人分。身体を起こす事は叶わないが、視界に収めなくても爆薬庫の中で盛大に火と油を掛け合っている様が嫌でも想像できてしまう。
「どんな事情だろうと、アタシの国に損害を出した以上はこの女も敵よ。今すぐアタシが処してやるからさっさとその首出しなさい」
「プリシラ様の処遇について私も思う所はありますが、カケル様はプリシラ様を守ると決められたのです。ソレイユ様の一存で決める訳にはいきません、むしろここはソレイユ様の首を差し出すべきでは?えぇ、きっとそれがこの場を丸く収められる最善案です」
元から遺恨のあるレイラさんとソレイユに、話し合いという穏便な方法で逆心の兵の今後を決めるなんて器用な真似ができる筈もなく。お互いの火薬庫が爆発する、半歩手前にまで状況が既に進んでいる。
とはいえ、運が良いのやら悪いのやら、まだオレの介入する余地は残っているらしい。取り敢えず、現状把握に努めなければ…。
「ふ、二人とも?今度は何が原因で、取っ組み合い一歩手間まで状況が進んでしまったんです…?」
「カケル様、お休みだったのに騒がしくしてしまい申し訳ありません。ですが説明の前に2分…いえ、3分だけお時間をください。この分別のない我儘なお姫様を、今から血祭りにあげますので」
「ハァーッ!?それはこっちの台詞なんですけどー!まともに恩恵が使えない今のアンタなんか、這い蹲らせるのに脚一本で十分なんですけどー!?」
「言いましたね、ソレイユ様!?ならば私も腕一本で貴女様に地面の味を思い出させてさしあげます!影にも潜れないほど弱っているのは貴女様も同じです、どのように私に勝つおつもりなのか教えていただきましょうか!?」
急募、この格闘姫たちの取っ組み合いを仲裁できる人材。身体が動かせない現状、二人の間に決死の覚悟で割って入る手段は取れない。
拳と蹴りが一度交われば緩衝材でも止めきれない、この際“ヤツヨ”でも良いから、今すぐ二人を止めてくれ…!
「呼ばれなくとも仲裁するつもりだったが、ここは恩着せがましく『来てあげた』と言うべきだろうねぇ」
「うげ」
確かに今しがた求めた人物ではあるが、いざ声を聞くと思わず忌避する声が漏れてしまう。「相変わらずつれないねぇ」と頭上からボヤかれるその声の主は、オレの苦い心情など読み抜いている筈なのに、尚も不敵にこちらを覗き込んできた。
「安心したまえ、少なくとも隠者ちゃんの方にはボクの暗示がまだ有効だ。早々キミが危惧する事態にはならないさ。それよりキミの本当の仕事は、彼女たちがひとしきり衝突し終わった後だという事を忘れないように」
「オレの身体が動かないから代わりに仲裁してくれって注文の筈だけど!?」
注文通りに動かないどころか、オレに仕事を拵えてあげたぞと不要なお節介まで焼いてくれた畜生女神様。パーフェクトな0点対応に、ついオレも声を荒げてしまう。
しかしバッタンドッタンと地団駄の一つでも踏んでやりたかったが、残念ながらオレの身体は言う事を聞いてくれない。残念ながらここは、怨度100%の視線で遺憾砲を放つだけに留めておこうじゃないか。
「大体、アンタの暗示なんて危なっかしいモノをいつ掛けたんだよ。そんなもの、レイラさんに効く筈がーー」
「キミが死神ちゃんを庇うように立ち回り始めた頃だよ。わざわざボクもキミの方針転換に付き合ってあげたんだ、感謝してもらいたいものだね」
いやまぁ、それは…ありがとう。だが心が読まれていると解っていても、通しておきたい意地はある。こればかりは絶対に口に出してやるもんかチクショウ…。
「それに、ボクの暗示は女教皇ちゃんの恩恵の都合で無効化されてしまう。だから搦手で、キミがソレイユと呼ぶようになった彼女の方に暗示を掛けさせてもらった」
「まぁ、それも妥当だろうけども…」
女神様の言う暗示とは、該当する人物の認識の曖昧さを利用する一種の魅了なのだろう。つまる話が、老司祭の放っていた光の攻撃…その魅了攻撃の親戚だ。
老司祭の度重なる魅了攻撃で付け入る隙が顕わになってしまったのだろうが、認識の曖昧さを利用すると言えど、その人物の絶対的な認識だけは歪める事はできない。もしそれが出来たのだとしたら、ソレイユの精神には相当の負荷が掛かっている事だろう。
おぉ、暗示が解けた後が今から怖い…。ソレイユの地雷処理はマイティに任せるとしよう。
「さて、死神ちゃんは無事にキミの異常な献身によって生き長らえる事ができた訳だが…。その代償としてキミはタロットを日に二度も使い、暫くの間この場から指一本も動かせなくなった。けれども、逆心の兵を何の拘束もないまま放置する訳にはいくまい。キミが起きない間、死神ちゃんの処遇を話し合った所…結果はこの有り様だ」
この有り様だ、じゃねぇよ。というより、経緯を知っているならオレの代わりに止めろよチクショウ!現状はよく分かったけども!
要は、オレがプリシラを助けてしまったが為に起こった喧嘩という訳だ。レイラさんから後でお小言をもらう予定だったが、それが盛大な爆弾になってしまっただけの話。…胃薬と頭痛薬が切実に欲しい。
「それよりも、本当にあの二人は放っておいて大丈夫なのか?ソレイユはアンタの暗示とやらで足止めできたとして、暗示が効かなかったレイラさんがいつまでも我慢できるとは思えないんだけど?」
「安心するといい。法王クンの本気の魅了とは違って、ボクの暗示は出力を抑えている。下手に感情を刺激するような、事さえ…なければ。勝手に暗示は、解けないさ…」
「その感情を刺激する事が今アンタの目の前で起こっているんじゃないのかよ駄女神ィッ!?」
流石に自分で説明しておいて不安が強くなったのだろう、徐々に言葉に力が無くなっていく。…こちらから視線を逸らす様も容易に想像できるってものだ、特大の爆弾を置いて逃げるんじゃねぇよチクショウがァ!!
「非常に不本意だが仕方ない。ボクの暗示がこんな短時間で解けるとは思わないけども、もう少し隠者ちゃんに掛けた暗示を強めてこようーー」
いつになく逃げ腰な駄女神の足を縫い留めるように、まるで現実から目を逸らすなと言わんばかりに。耳を衝く音と風圧が、オレたちの意識をまとめて一本釣りにした。
およそ、細身の少女二人が放った拳と脚が衝突した音と想像するのも難しい衝撃音。更に恐ろしい事に、二人の衝突は一度だけでは終わらなかった。
一合、後に風圧。威圧だけで意識を吹き飛ばす妙技がマンガにあった筈だが、どうやら意識を飛ばす業はその世界だけの話ではないらしい。これから始まる暴力の予感に、オレの意識は朦朧となった。
二合、「ぜぇいッ!」と気合を入れながら叩き込んだと思われるソレイユの一撃。しかし渾身の一蹴りはレイラさんに阻まれていたのだろう、小さく舌打ちが聞こえた気がした。
三合、返す手でレイラさんの一撃がソレイユに叩き込まれた音。くぐもった音にたたらを踏む音が続き、どうやら初撃を打ち込んだのがレイラさんであったのだろうと見当をつけてみる。
首を動かす事ができないので今の描写はオレの想像でしかないのだが、その後も続く轟音たちに思わず溜息が漏れた。ソレイユに掛けたという暗示は、もう無力化されていると見て良いだろう。
「…オイ、“ヤツヨ”」
「あー、聞こえない聞こえない」
「オイこの肝心な時に役に立たない駄女神、アンタがソレイユに掛けた暗示が今どうなったのか解りやすく教えてもらおうか」
「キミ自身、ついさっき察していた筈だけど?」
言葉にしないと解らない事って、世の中どれだけあると思っているんですかね。なのでアンタの嘘をここでバラしてしまえ、ついでにレイラさんに制裁されやがれ。…オレとの痛覚リンクがあるから止めておけ?くっ、命拾いしたな。
「あ、の…」
女神様との三文芝居が完結した所で、聞き馴染みのある少女の声が割り込んでくる。その一拍後、プリシラの困惑した表情がこちらを覗き込んできた。
彼女の気配は近くに感じてはいたが、話に割り込むタイミングを逃していたのだろう。おずおずとした態度が、より少女らしさを醸し出していた。…醸し出し過ぎているような気もしなくはないが。というより拘束していないのかよ、大丈夫かこの夢世界の危機管理。
「からだは、まだ…うごかないの?」
「あぁ、お陰様で絶対安静らしい」
こうして話ができるのも、今更ながらレイラさんの浄化の恩恵のお陰だろうと想像を巡らせてみる。ソレイユが口を滑らせた通り、恐らくレイラさんの持っていた力全てを使って浄化させてくれたのだ。
そのレイラさんだが、本当に1ラウンド以内に決着をつける腹積もりでいるらしい。凄まじい速度でソレイユ相手に一方的に打撃を見舞っているらしい音が、更に加速したような気がする。激しい呼吸の隙間から漏れるソレイユの嗚咽は、彼女の逆転の目が最早潰えていると視覚情報のないオレにも理解できた。
「じゃあ、いまのうちに」
改めてレイラさんの格闘無双っぷりに心中で乾いた笑いを浮かべる中、プリシラの小さな手がそっとオレの胸に添えられる。かと思ったら深く被った赤ずきんを上げ、耳元の髪をかき上げながら可憐な彼女の顔が近づいてくるではないか。
…流石にこれは、避けられない。男子の邪な心が少女の唇を避ける事を拒んでいる、という訳ではない。単純に、オレは超越物質の使い過ぎで身体が動かせないのだ。
潤った少女の瞳、身体を包む甘い香りが迫ってくる。男の欲を掻き立て、乱す要因が整い過ぎている。
キスシーンを戦闘直後で感情が昂っているレイラさんが見ようものなら、オレの安全が脅かされていると更にレイラさんの感情が暴れかねない。助かった命をドブに捨てるようなプリシラの強行に、思わずオレの表情が強張ってしまう。
「あたしを、たすけてくれた…おれいを」
嫌がるオレの心中を読んでいる筈の“ヤツヨ”は、先ほどの仕返しだと言わんばかりに無視を決め込んでいるらしい。おのれ朴念神、いつか来るレイラさんの制裁に震えやがれチクショウがァ!
(おい、おい…本気かこの女!?)
いざ唇が重ならんとしたその瞬間、オレの口から何かが零れ出た。粘性のある、しかし固形物の水が突然オレの顔を守るように覆われる。
この事態はプリシラも想定外だったらしく、異変に気付き距離を取ろうとした時には、その水仮面は自らプリシラの唇を奪っていた。
「…?…っ!?」
「フウ…。吾輩が居なかったら、悪い虫に主の珠の唇が奪われてしまう所だった」
ゴシゴシと唇を本気でこするプリシラは、視線をオレの顔…そのすぐ横に向けている。そこにあるモノを、認めたくないと目が語っている。
そんな忌避の視線を受けても尚、怯まない声の主がオレの顔を躊躇なく覗き込んできた。
「よぅ、おヌシ。美少女からのご褒美を掻っ攫われた気分はどうだい?」
その容姿はゲームでもお馴染みの、下級の魔物の代表格である軟体生物。ただし、軟体生物が発したとは思えない美声は、卑下た表情を浮かべていた事で台無しになっていた。
●「死神の恋文」読了後の皆様に、作者より
あまりにも内容と不釣り合いなこのサブタイトル、不審に思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
これは、プリシラが生存している為の齟齬です。「Choose One(Level 3)」以降で改めてプリシラが寝返っていない場合、すこーしばかり鬱展開で進行していきます。サブタイトルはどちらのルートであっても変更する予定はありません。
もし寝返りに失敗しファルスと共に討伐されていた場合は、プリシラの立ち位置は戦後処理の報告に来たマイティとなります。勿論、終始シリアスです。キスシーンなんてありません。あってたまるか。
最後に登場した新キャラの軟体生物君の立ち位置も、この話で決定付けられると言っても良いでしょう。何せ寝返り失敗ルートの場合は、唯一のプリシラの恩恵が残る形見のような存在になるのですからね…。
忘れはいけません、ここは主人公君の夢世界の中であるという事を。
●ところでこの女神様、一体いつから合流していたのさ?
ファルスとの戦闘が終了した頃に、しれっと合流しています。何故か途中で戦線離脱するし、一体何がしたかったのやら…。




