第3章37「水面に浮かぶは隠者の影14」
ファルスの中で燻る焦燥の火は、今まさに最大火力に達しようとしていた。攻撃の手を緩める程ではないが、未来の事を考えると放置できない事態が眼前で進行している。
行き場のない裏切り者のレイラと、敵国のソレイユの二人が共闘しているのは百歩譲って認める所として。瀕死に追い込まれ精神が弱りきっていたとはいえ、手駒が篭絡されたのはいただけない。
「チィ…。呪札のお陰で無尽蔵に力が振るう事はできるが、これ以上の数の不利はマズいのぅ。撤退…否、それではあの方に顔向けできぬ」
戦力を失うのは痛手だが、引き際を間違えて損失が過剰になるのは更にいただけない。撤退の文字が彼の中で浮かぶのは止む無しだった。
しかし、末端とはいえ敵に情報を引き抜かれるのは非常に拙い。よりにもよって直属の部下の離反は、他の者の士気にも関わってくる。太陽の国との大きな戦いを控えた今、それだけは決して赦してはならない。
であれば、ファルスの中で折衷案が生まれるのは道理。裏切り者の抹殺、その標的が一人増えただけの話だ。たとえ「戦巫女」を討ち取る事はできなくとも、虫の息である末端の女を殺す事など造作もない。
しかし、ファルスが焦る理由は他にもあった。長い時間“法王”を起動させているのにも関わらず、全く魔力の溜まる気配がないのだ。
「奴らの奴隷化はまだか、役立たずの呪札め…!」
先の戦闘の中、身の丈以上の金の杖を軽々と振るう得体の知れない少女に看破された通り、この“法王”の力の源は他者への魅了にある。教えを広め、崇めさせ、そして全てを搾り取る事ができるのが、”法王”がもたらす恩恵の筈だ。
魔力を過剰に消費する穀潰しだが、それ以上に魔力を回収できるのがこの”法王”の強み。時間の経過と反比例するように溜まり続ける魔力、それを以て敵兵を殲滅する為の外法の力の筈なのに、発動した恩恵を充分にもたらしてくれていない。
そろそろ瓦礫に埋まったエルフたちが自力で這い上がってきてもおかしくない筈なのに、誰も彼もが瓦礫の下で引き籠っていると言うのか。
…否、それはあり得ない。生物とは、生来から光を嫌う者でなければ自然と明るい物に惹かれる傾向にある。望んで暗い場所に留まる事はおよそ考えられない。
では、別の考え方を展開しよう。引き籠っているのではなく、自力で這い上がれない程のダメージを元から負っていたのだとしたら?
別にあり得ない話ではない。建物の倒壊によって少なからず逃げ遅れた者も存在する筈だ。若しくは、それに近いダメージを逃げる際中に負った可能性だってある。後者の方が、より現実に近い答えだろう。
…そこまで思考を巡らせた時、ふと裏切り者の存在が過ぎった。彼女は、あの瓦礫の下で何をしていたのか。
しかし、その解答を推察するのはあまりにも簡単だ。そもそも裏切り者は、誰かを犠牲にする行為を赦さない真っ直ぐな性格なのだ。自力で動く事のできない怪我人を一箇所に集め、浄化していてもおかしい話ではない。
(敵に対しても非情になりきれないその甘さ、儂の過去を思い出すようで反吐が出るわい)
推理の為とはいえ、不愉快な過程を辿る羽目になった事に怒りが募っていく。乱射する光矢たちにも感情が伝播し、一層の激しさをもって少女たちを殲滅せんと激しく攻め立てる。
影の壁の、徐々に削れていく音が心地良い。ビシリと影の壁が砕けそうになる音に、年甲斐もなく快感を覚えてしまう。
何故か魅了に対して耐性を持つ敵国の要人も、一度でもこちら側に引き摺り込めば耐性も何もあったものではない。逆に、魅了なしに生きていけない身体にしても良いだろう。
…そんな邪な未来を妄想していた時、ついに光矢は影の壁を穿ち崩した。必死に縫合していたであろう影が音を立てて砕け、努力を全て水泡に帰してやった崩壊音が耳を衝く。
影の壁を崩した光矢が、その役割を終えて残滓が溶けていく。この光矢では魅了には至らなかったが、次の光矢は絶対不可避。いずれか1人でも貫けば、ファルスの勝利が確定する。
恍惚という単語は、この一瞬の為にあるのだと理解した。想像した未来が想定外のタイミングで現実になる時、蜜のかかった甘い思考は脳の中心から蕩けさせる。ファルスの口端が吊り上がるのも、無理のない話だった。
しかし、ファルスが想像した未来はそこには無く。壊れた影の壁の向こう側にある筈の、魅了に苛まれる少女たちの代わりにあったのは。
枯れ井戸となっていた筈のプリシラの、水の武装によって光矢を叩き落とされる光景だった。
「は…?」
驕った思考の中、目先の標的を捉えんが為に放たれた光矢は、確定した筈の勝利を射抜けなかった。
一体、何を見落としたというのか。影の向こう側にある裏切り者の恩恵は、とうに尽きた筈なのに。何故未だに恩恵が使える命があるのか。
(お、落ち着くのだ。水の盾で光矢が防がれた所で、魅了までは防げない。それに視ろ、あ奴の身体ーー)
そう、よく視るべきだ。ファルスの放った光矢は、しっかりプリシラの身体を穿っていた。
心臓こそ外れているものの、腿に刺さった光矢はそれだけで仕事をする。魅了の条件はこれで整っているーー。
「お、前…いや。貴様は、誰だ」
その腿に着目した時、ファルスの身体中の汗腺が一斉に開いた音がする。不自然に乱れる心音が、ファルスの呼吸を荒くする。
プリシラの纏う衣装は、特徴的な光の紋様が刺繍された赤いフードとミニスカート、そして白いブラウスをコルセットで巻いた少女らしいものだ。断じて、ロングコートを纏った男のような衣装ではない。
遠目では衣装の違いに気付けなかったが、気がついてしまったらもう同じ人物だとは思えない。ましてや、二度も男と女を見間違う事はない。最早これは、トリックだった。
影の壁の向こう側で、あの4人は一体何をしていた?その疑問に今更ながら立ち返るファルスは、唐突に思いついた一つの可能性を真っ先に口にする。
「まさか、呪札…」
何故、相手が呪札を使わないと思い上がっていたのか。ファルスの最大の見落としは、ようやく真実を捉えた。
では誰がこの呪札を起動した。前線に立つ裏切り者、敵国の女が除外できる。プリシラも同様だ、戦闘職たちの行動は一挙手一投足に眼を光らせていた。呪札なんて大技を起動するなら、ファルスが挙動を見逃す筈がない。
ならば、ファルスの眼を掻い潜れた上に満足に動く事ができたであろう他の人物はーー1人しか思い当たらない。
「おの、れ…。おのれ、おのれェッ!!」
「決して傷つけるな」という新しい主の意向に沿った結果が、この致命的な見落としだ。
あろう事か、プリシラは外法の力によって消えかけた命の灯を吹き返した。死者蘇生という奇蹟を起こしたのが、何の力も持たない筈の男ーー裏切り者によって手厚く護られている、謎の男だった。
たった一手で有利状況を崩され、負債ばかりが積み上がっていく。呪札にまで手を染めたというのに、何の成果も得られなかったという体たらく。割に合う合わないの次元では、最早留まらない。
勝ち筋は絶大な力による押し切りのみ。しかし相手側も呪札で対抗している現状、放出する力の差が最後にモノを言う。相手の性能を検証する時間はない、ならば呪札の起動し始めである今の内に叩き潰すしかない。
故に、呪札に自らの命を薪にしてくべていく。ファルスが最後の理性の楔を解き放つのに、躊躇はなかった。
「ならばもう出し惜しみはせん!何もかも、法王の光に呑まれよォッ!!」
たとえこの場は逃げおおせても、主がこの惨状を知ればファルスの首は長くこの世界には繋ぎ止められないだろう。であれば、最期くらいは爪痕を遺してやろうと、自棄になるのも無理はない。
自身が矢となり、それを番える弓となる。ただし、その規模はファルスが携えていた形状と異なっており、身長以上にまで膨れ上がった砲身の照準がブレないよう、地面に脚を固定させる。
ーー現代で言う所の大型弩砲。それが今の、人間である事を棄てたファルスの容姿だった。
『は、はは。ははははははははァッ!断罪の光焔弩砲ァッ!!』
これほど力を解放し、晴れ晴れとした気分になる事はもう無いだろう。眼前の敵対者を滅ぼす聖なる裁きは、もう間もなく下される。
プリシラに仮装した男は、その姿を前に青褪めている。裏切り者は、咄嗟に男を庇おうと躰を滑らせる。そのどちらも、ファルスの裁きから逃れる事はできないだろう。
…敵国の女?影を使って懐まで潜り込んできている事などお見通しよ!
「影壁ーー」
『遅いわァ!』
足元を隆起させようと影を展開していたソレイユごと、触れるだけで真っ黒焦げに焼き尽くす光焔の衝撃波で吹き飛ばす。ーー当然、これでソレイユの命を刈り取ったとは思わない。
これまでの戦闘経験と長年の勘が告げている、まだ彼女は影の中に潜っていると。ファルスの足元を掬わんと、虎視眈々と機会を狙っていると。その為に、衝撃波で仕込んであったであろう周囲の影苦無を吹き飛ばしたのだ。
では、ジュワリと何かが蒸発する音がしたのは何故だ。こんな場所に水なんてある筈がーー。
「みずなら、ある」
今にも消え入りそうな声が、何故かファルスの耳によく響いた。レイラの全力の恩恵をもって防いだ光焔の衝撃波、そのすぐ後ろに控える男の存在から目が離せない。
思わず照射していた光を止めてしまう程の衝撃が、ファルスに漠然とした不安を植え付けていく。「バカな、有り得ない」と一蹴できない致命的な見落としの可能性の塊が、ファルスの精神を蝕んでいく。
プリシラに扮したあの男が、こちらに水を飛ばしてきていたのなら知覚できない筈がない。そんな素振りも見せなかった。
ならば、どこかに仕込んでいたとでも言うのか。一体、いつそんな事をーー。
「うらぎ…いくさみこがなげた、みず。たしかにあたしは、うけとらなかったけど…。あのみずは、まだいきている」
水が生きている、聞こえた通りの言葉を反芻してもファルスはまだ意味を理解しきれなかった。裏切り者が投げた水…瓦礫の下で何かコソコソ動いていたとは思っていたが、その水を受け取る筈だったプリシラは拒否した筈。
更に言えば、今この瞬間口を開いているのはプリシラに扮した男だ。プリシラの恩恵を使える筈が、ないーー。
『は、ずが…ない?』
待て。だとしたら何故、この男はまるで自分がプリシラであるかのように話をしている?
その疑問を自覚した時、ファルスの中で情報の点が結ばれた。呪札の存在を、何故切り離して考えてしまったのか。
つまり敵の呪札は、二者の生魂を入れ替える外法。生魂が入れ替わった所で、その人物の中にある魔力を借りれば魔術そのものは行使できる。
恐らく、護られていた男は偶然プリシラと同じ系統の適正を持っていたのだ。それが原因で、水の恩恵が使えるように見えていた。
『まさ、か…。そこまで計算していたのか、あの男は…ッ!!』
「なにをかんちがいしているのかはしりたくないけど、あたしがいいたいこともふくめてこうかえしてあげる」
思考の大半を男に集中させてしまった事で、背後からザバリと音を立てる影に気付くのが遅れる。今や巨大な的となっているファルスの躰は、音の正体を捉えるのに更に一拍かかった。
それは、影から飛び出た音ではない。裏切り者が投げ飛ばした水が独りでに浮かび上がり、踏み台を利用して高度を稼いだ忍者のような御業。
「じごくにおちろ、くそじじいッ!!」
「影閃脚ッ!!」
太陽を背にし、鋭い影の魔力を彼女の脚に乗せて振るう様は、さながら天より降り注ぐ断頭の刃。細脚から繰り出されたとは思えない剛力が、ファルスの躰の中心からへし折り…両断してみせた。
●最後の戦闘シーン、実際はどう動いていたの?
ファルスが最後まで“悪魔”のタロットの効果を勘違いしてしまった為、解りにくかったと思いますのでこちらで捕捉を…。全体の流れはこんな感じです。
1:瀕死だったプリシラを助ける為、主人公君が“悪魔”を無意識に起動。これにより主人公君の身体は一時的にプリシラのものになります。
2:説得に応じたものと判断したヒロインちゃんとソレイユが合流。目くらましの影の壁を展開して光矢を防ぎつつ、元のプリシラの身体をヒロインちゃんが浄化し始めます。
(この段階までファルスは、現段階の主人公君の事をプリシラと認識。“悪魔”による衣装替え効果と、彼自身の焦燥感による観察力の低下が勘違いの原因です)
3:影の壁が崩壊、同時に襲ってきた光焔の衝撃波を主人公君とヒロインちゃんが必死にカバー。この間、主人公君はヒロインちゃんを被弾させないよう、多少なりともファルスの光矢を受ける事になります。
(前回の後書きでお伝えした、ハードモードに移行するか否かはココが分水嶺。ヒロインちゃんにダメージが入るとプリシラの生存に関わります)
4:壊れた影の壁の破片を渡って、ファルスに接近。ただしこの段階ではどうしても十分に近づけない為、もう一度影の壁を展開する必要がありました。
(この時、ファルスが“法王”の逆位置と命をくべる事で膨大な魔力を手にします)
5:影の壁を、ファルスが光焔の衝撃波で焼き払います。この時、主人公君が地面に叩き落とした水の一つ(第3章28の最後で回避していた水)を使って影を僅かに作り、ソレイユを逃がす道を作ります。
6:糸のように細い影の道を辿り、ようやくソレイユがファルスの懐へ。そこで主人公君がもう一つ水(第3章32の受け取り拒否した水)を使って、小さいながらも水のジャンプ台を生成。なお使い切りの為、ソレイユの行動が失敗すれば全員即死の模様。
7:ソレイユがジャンプ台を使って空中へ。影を脚に纏わせて思いっきり変わり果てたファルスの脳天を叩き割って戦闘終了。




