第3章35「悪魔の処方箋」
生物に備わる恒常性とは、実によく出来ている。肉体と精神の疲労はいつだってリンクしていて、どちらかが追い詰められれば、片方は維持の為に歯車の負荷を強めていく。
「人間の身体はまるで機械のようだ」。いつだったか、そんな事を考えた時期があった。…当時のオレは、精神的に病んでいたのかもしれない。
だが、脳の回路というものはとても優秀だ。病的と言えど、一度でも思考の跡があれば、ふとしたキッカケで懐古する事がある。記憶媒体がどんなに擦り切れても、何かの拍子に再び映像として再生される事だってあるのだ。
以上を踏まえ、さて問題です。キュルキュルと記憶が巻き直される不快音で、ふと現実に意識が立ち返ったら、目の前に恐怖で震えてオレの手を縋るように握り締め続ける、敵だった筈の赤ずきん少女が涙で表情を歪めて跪いていた時のオレの心境を述べよ。
「おねがい、します…。おねが、い…っ」
今のオレがこの問いに答えるのなら…悪夢の中を歩いている気分、だろうか。目の前で展開されている少女の痴態を、オレの脳が理解しようとしていない。数値上では表しきれない倦怠感と眩暈、そして頭痛が、思考潜航をさせてくれない。
正直に吐露すると、オレの記憶はこの少女に近寄り始めた所で途切れている。継ぎ接いだ跡から想像できる短期間記憶の欠損が、ただただ気持ち悪い。
ーーこの症状を、オレは一度経験している。その原因も、何となく突き止めている。
(オレの意識がない間に何しやがったあンの駄女神ィイイイ!!?)
最重要容疑者である居候女神様は相変わらず音信不通、そして厄ダネだけ残して状況放棄。あぁチクショウ、異動を命じられたその場で辞表を叩きつけていった元同僚を思い出して苛立たしい…!
しかし敵とはいえ、そんな般若面を目の前の弱った赤ずきん少女に晒す訳にはいかない。理性でどうにか心の般若を留め、作り物の笑顔を貼りつけて努めて冷静に声を作る。
「ま、まぁ協力してくれるのならオレたちも嬉しいよ。取り敢えず、あの老司祭をどうにかしないとだし」
「ふぁ、ファルスさまをおいかえせば…あたしを、すてない?」
おい畜生女神、アンタ人の心をどこにやった!?ここまで精神ゴリゴリに削れた人間を見たのは久々だぞ、しかも30過ぎのオッサンに依存させるとか正気か!?
…と、口にしたくなる気持ちも吹き飛ぶレベルで、眼前の少女の表情が暗い。暗いというより、眼に光が宿っていない。恐らく、今ここで誰かが口出ししなければ、二度と感情が這い上がれない類の心の壊れ方だ。
あぁもう、今すぐ薬師を呼んでこい!…お前が特効薬?匙加減で毒にもなるから精々頑張れ?本気で言ってるのか!?
だったら自棄だ、どうにでもなれ!こういった時の判断は、大体最初の直感が吉に転がる事が多いって言われた事があるしな!
(…っだぁあああ!良いよ、やってやる!敵だろうと何だろうと、寝覚めが悪くなるよりはずっとマシだ!)
少女の身体を力任せに引き寄せ、力の限り抱きしめる。ビクリと一瞬だけ少女の身体が強張るも、抵抗する気力はないらしい。
驚くほど素直に身を任せられ、実際に身体に触れて…初めて解った事がある。少女の怪我は、ソレイユに蹴られ続けたであろう少女の白い脚、それに張り付いていた青黒い痣だけではない。白いブラウスを、口の中を切った血で汚しただけではない。
少女の肉体的なダメージの蓄積量は…限界を迎えていたのだ。黒のフリルがついた真っ赤な童話世界の衣装が巧妙に傷を隠していただけで、いつ気を失ってもおかしくない。
最早この少女は、気力だけで立っているのだ。ここまで口が回っているのが、奇跡に等しい。
そして、この抱擁が少女の心にトドメを刺したのは明白だった。少女の身体から、力がどんどん抜けていくのが解る。 少女の身体を慌てて支えようとした時に触れた箇所で、瞬時に意識が仕事のソレへと切り替わった。
(確認できるだけでも二の腕、背中に打撲痕。この調子じゃ、骨も折れているだろう。こんな中で、精神をやられたらーー)
成程、肉体的にも精神的にも疲弊しきっていた状態で格闘姫を相手に戦うのは厳しい訳だ。それでも彼女は最後の力を振り絞って抵抗し続け、その結果ーー。
「あ、な…た?」
「…あぁ。あぁ、そうだ!誰が命なんか棄てさせるかよ!人生なんて一度きりだし、初期化も巻き戻しも、現実じゃできやしない」
走り出した口は止まらない。慣れない口上で途中上擦った声も聞かなかった事にして、脳内に浮かんだ言葉を咀嚼せず、必死に吐き出していく。
恐らく、状況を動かす一手になっているとは思うが、どう展開が転ぶのかまではオレには解らない。…釣り合わないオレなんかの言葉で、少女の心が動くとは思えない。
「ましてや、アンタみたいな年齢がオレより半分も行っていないような子が、自分の命を棄てるとか…。二度と!絶対に!オレの目の前で言うんじゃねぇッ!!」
だからこそ、オレの言いたい事は全部言わさせてもらう。この瞬間だけは、腕力差がどうとか、男女の差がどうとか言わせない。ーー命を投げ棄てようとしている強者を引き留める、一人の弱者としての責務を果たさせてもらう。
「安心しろ、アンタの命はオレが助ける。生き残ったエルフたちも、救える方法を探してみせる」
「ほ、ん…と?」
「本当だ、こんな時に嘘なんかつくもんかよ。だから協力してくれ、今のオレには、アンタの恩恵が必要だ」
「ぅれ、し…ぃな。こころ、から…ぃって、くれた…の」
「だから…今はオレに全部委ねろ」
光る呪札が、「これが欲しいんだろう?」とでも言いたげな悪意に満ちたタイミングで、これ見よがしにオレの眼前に据えられる。
“ヤツヨ”から教えられていた、時間制限やら力が吸い取られるやらのウンチクを今になって思い出す。まるで、本能が悪魔の甘い誘いを拒んでいるかのようだ。
だから何だ、ヒトが死のうとしているんだぞ。飾った言い訳なんて、今は何の意味も為さない。
言い訳をするくらいなら、今助かる方法をオレは取らせてもらう。その言葉一つを吐く間にも、思考を割く事はできる筈なのだから。
だから…悪魔よ。今度こそ、ちゃんとオレの願いを聞いてくれ。
「願いよ届けーー!」
まだ少女の命が在る内に、彼女へ救いの手を。それが、今オレの中に在る望みだった。
ヒロインちゃんを差し置いて、最初に抱いた女が…ぽっと出のサブヒロインだと…
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●「人間の身体はまるで機械のようだ」
この章の最初のサブタイトルは「人間失格」です。覚えていますか…?
機械であれば最適解を求める事ができるし、恥をかく必要もない。要らない感情を拾う必要もない。
そんな機械を求める社会なら、人間でいる必要はないよネ!…という一種の思考が、この主人公君には掛かっています。うーんこのヒトデナシ…。
しかしそれは理想の話。現実でもしっかり感情が残っている主人公君は、まだ人間です。やったね!
●プリシラ、死にかけてるの…?
元より最初のソレイユ戦でかなり消耗しており、その中で更に無理をして仲間を潰さないよう恩恵で支えている状態です。ヒロインちゃんが投げ飛ばしていた水は、文字通り命の水だった訳ですね。
ところが、それを拒んでしまったので恩恵を消耗するばかり。結果、気力だけで今話まで命を燃やし続けていました。
前話の主人公君との後半会話パートは、ほぼ命が尽きかけている中で見た彼女なりの希望をようやく見つけた描写です。しかしこの時点で何も主人公君が手を打たなければ、彼女の命はここで…。
ところで、死神のタロットには、こんな意味が込められているそうです。
正位置:切り替え(終わり、決着、新たな挑戦)
逆位置:未練(諦められない、中途半端)
…現在のプリシラの状態がどちらなのか、ここで解説するまでもないですね。
●ところで、タロットってこんなにポンポン起動して良いものなの?
勿論良くありません。ヒロインちゃんだけでなく、女神様もこれには激おこです。
しかし、戦況を変える為には必要な起動なので二人とも文句は言いません。後でお小言が多くなるだけです。…将来の主人公君の胃に特大ダメージが!