雪那の悩み
未熟児で産まれた雪那を父である匡は心配し過ぎていた。
春だというのに、珍しく遅雪の降った日。
森口雪那は、田舎の総合病院の中にある産婦人科で産声を上げた。
予定日より一カ月以上も早く破水したために二千キログラムにも満たない未熟児だった。
初音:『せめてもう一日早く産まれてくれていたら』
それが初音の口癖になった。
雪那の誕生日は四月二日なのだ。
一日前なら、小学校の入学が約一年延ばせたと初音は考えたのだった。
体が小さい分、雪那には辛い体験が待ち構えている。
授業には付いていけるのか?
運動会は? 遠足は?
悩みの尽きない初音を余所目に、雪那は成長した。三人兄弟の長女として。健康的な女子高生として。
そう何時の間にか普通の少女に育っていたのだ。
匡:「雪那、もっと食べなきゃ駄目だ。はっちゃんも言ってやって」
匡はあの日の失態を今も引き摺って、雪那を大きく育てることに余念がなかった。
初音もそれに合わせる。相変わらずのバカップルぶりを雪那は微笑ましく見ていた。
雪那には悩みがあった。
高校三年の三学期に入っても、就職先が決まらなかったのだ。
就職難民やワークシェアの問題など、遠い過去の出来事でもなかったのだ。
企業それぞれに今尚影を落としていたのだった。
派遣保護法が三年から五年に延期された。
雇って三年経った派遣社員は簡単にはクビに出来ない。
その期間が五年に延びたのだ。
つまりその間には何時でもクビに出来る。と言うことだった。
その派遣法が三年と決まった時に大規模な派遣切りがあったのだ。
だから雪那は派遣での就職はしたくないと思っていた。
高卒予定女子は厳しい現実に苛まれていたのだった。
三者面談。入社試験。
面接。何度も繰り返す不合格。
その度に落ち込む。
その度に受かったクラスメートを羨ましがる。
でも何時かはと、望みを棄てずに貼り出される就職募集用紙を眺めていた。
高校の就職情報が解禁されるのは七月一日。
就職試験が始まるのが九月十六日だった。
雪那も積極的に試験会場に足を運んでいたのだったのだが……
雪那:「御社のクリーンエンジン。御社のクリーンエンジン……」
呪文のように何度も唱える雪那。
最後のチャンスかも知れない正社員募集の貼り紙。
雪那は一途な願いを託して見つめていた。
地元の有力企業の自動車工場。
それも女子正社員募集のお知らせだったのだ。
雪那:「此処しかない!」
雪那は呪文を又繰り返した。
そして……
初の内定確定。
雪那は小躍りして喜んだ。
やっと就職地獄の呪縛から解き放された雪那。
先に進路の決まっていた仲間と卒業旅行へ出発した。
羽目を外した雪那に待ち受けたていたのは……
雪那:『御社のクリーンエンジンを作るお手伝いをしたいと思いまして』
就職指導員の特訓を受けて、精一杯頑張った就活。
健康体であることもアピールした。
確かに産まれて来た時は未熟児だった。
だから時々両親に心配をかけた。
ただの風邪なのにインフルエンザを疑い、手洗いマスクを徹底する。ちょっと閉口。
初音だけではない。匡も又心配性だったのだ。
匡:『雪那、もっと食べなきゃ。はっちゃんからも言ってやって』
もう充分に標準体重は越えている。それどころか太ってる。それなのに……
本人も有難いことだと理解している。
でもついお節介だと思ってしまう。
そんな苦い思い出も今となっては懐かしい。
雪那は父の応援の元に健康美を手に入れることが出来たのだ。
そして、今はただただ面接の結果を考慮しての本当の合格通知を待っていた。
ようやく掴んだ、不況の自動車産業へ就職。
人一倍喜んだのには訳があった。
制服が可愛い、と言うだけで女子高を選んでしまった雪那。
そのため、異性との出会いが全く無く交際をしたことなどなかったのだ。
そこで、何とかして彼氏のいない歴に終止符を打とうと考えたのだ。
そして、一分の望みを掛けて選んだのがこの職場だった。
雪那だって女の子。
交際相手の一人や二人……
ううん……
どうしても恋人と呼べる存在が欲しかったのだ。
そう……
御社のクリーンエンジンの呪文は、そのためでもあったのだ。
(地元の有力産業の工場ならきっと……。私の恋人も見つかるかも知れない……)
そう思い込んだ。
だから尚更気合いが入っていたのだった。
そのために努力もした。女性の疎い車の構造を徹底的に調べ上げたのだ。
どういう訳か、メカニックに興味があったのだ。
それは長女として育つために必要だったから。
弟の遊び相手になることで身に付けた好奇心の一貫だったのだ。
弟がオモチャを解体してしまうのだ。そして
部品を余らせたままそれを放置する。
仕方ないので雪那がもう一度組み立てる羽目になる。そんなこんなで構造はある程度は理解していたのだ。
本物の自動車に通じるかどうかは解らないけど。
初めてのお化粧にもチャレンジした。でも馴れないアイラインに苦労する。
やっと完成したら、目が痒くなった。雪那はその時目をこすってしまった。
そして……
パンダ目になった。
慌ててクレンジングクリームを塗った。
でも、今度は其処だけお化粧が落ちた。
そして又ファンデーションを塗った。余計にひどくなる。
高校生のような健康美だけでは済まない日常が、嫌でも雪那を待ち構えていた。
(だってしょうがないよ。いいなーみんな彼氏がいて)
雪那は全く化粧をして来なかった理由を、恋人が出来なかったせいにした。
(女子校だから仕方ない)
そう……
全てそれで片付けていたのだった。
それでも父のお陰で健康的な体を手に入れることが出来た雪那だった。