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恋が落ちる時  作者: 八月一日
鼻歌と雨音
5/6

福間栄吉の場合



ぴっちぴっちちゃっぷちゃぷらんらんらん



洋傘をさして楽しそうに雨の中を歩くお下げの少女。

雨のせいで薄暗い景色に映える赤色の傘が、柔らかな歌声に合わせて上下する。


幼女のようとも言えるその姿に見惚れたのは、何故か。


彼女の横顔が頭から離れないのだ。




『北上する梅雨前線の影響で、明日は一日中雨が降るでしょう』


ラヂオがあすの天気を報じている。

今日の昼頃から曇り始めていたから、明日辺りには崩れるのではないかと思っていた永吉は、そうだろうと一人#得心__とくしん__#する。


黒の角張った学生鞄に教科書やノートなどを詰め込んで、今日は早く布団に入ることにした。




翌朝、激しく地面を叩く雨粒の音で目が覚めた。

今と違って舗装も何もされていないむき出しの地面が#泥濘__ぬかるみ__#に変わっている。


前が見えないのでは無いかというような豪雨に、多分国鉄は動いていないだろうなと思った。

そうすると先生がこられない。ということは折角学校へ行ってもあまり意味がない。


それなのに制服に手が伸びたのは、彼女がバス停にいる姿を想像してしまったから。

頭上に黒い大きなこうもり傘を差してバス停を目指す。


そこまであと数歩という距離で、彼女がいるのがようやく見えた。


小さな手で、スカートの裾を絞っている。

その様子に、知らず笑みがこぼれた。


あぁ。やっぱり来てよかった。


バス停について、2人で並んで空を見上げる。

どう話しかけていいのかが、分からない。


ちらりと彼女の横顔を盗み見るが、彼女がこちらを気にしている素振りはもちろんない。

…いきなり話しかけたら、怖がられるだろうか。


でも、ここで手をこまねいていては何も始まらない


俺は意を決して声をかけた。


「学校、みんな来ていますかね」


緊張に喉が閉まって、独り言のようになってしまった。気恥しさにんんっと親父のような咳払いをしてしまう。

今度はちゃんと、彼女の方を向いて言ってみる。


「汽車は動いてるんでしょうか」


自分に向けられているのかと、戸惑う彼女と目が合った。しかし、結局何も返してはくれずに目を伏せてしまう。


しまった。


緊張しすぎて、話題選びをしくじってししまった。

変なやつだと思われてしまっただろうか。


どうしよう。

内心に焦りが募っていく。


へくちゅっ


破裂音に、ハッとする。

見れば彼女が小さく震えた。


彼女が全身ずぶ濡れになっていることに気が付き、鞄の中の手ぬぐいを思い出した。


それを彼女に渡してあげようと鞄を開けたが、奥に入り込んでしまったようでなかなか見つからない。


「あぁ、あった。良かった」


最後は座り込んで、ようやくそれを見つけた。

手に掴んだそれを彼女に差し出す。


「良かったら使ってください。そのままでは風邪をひいてしまう」


彼女は戸惑って、こちらの顔と手ぬぐいを視線がいったりきたりするばかりでなかなか手を出してはこない。

まさか男の鞄からでてきたこのクシャクシャの布が清潔かを疑われているのかと思い、慌ててこれは今朝入れたものだと説明する。いや、さもありなんだが自分はそこまでずぼらではない。


「…ありがとうございます」


必死の否定を、彼女はちゃんと信じてくれたらしい。白くちいさな指先でそれを受け取り、肩の辺りから拭いていってくれる。


どうにか、このまま会話を。


「それにしても、よく降りますね」

「そうですね」


ただ彼女が反応を示してくれたことが嬉しい。


「僕は、この先にある高等学校に通っている、福間栄吉と言います。お名前を聞いても?」


嬉しくて、自己紹介して名前まで聞いてしまった。

しかし彼女は、驚いたようなちょっと不思議なものを見るような顔でこちらを見上げてくるばかりで、問いかけには応えてくれない。

浮かれすぎただろうか。

女性と話すことがこんなに難しいだなんて、学校ではそんなこと教わらない。また戻ってきた沈黙に耐えられず、手持ち無沙汰に頬を掻いてみるが、妙案は思い浮かばない。


「や、矢内千代と言います!」


しかし彼女は、矢内さんはその仕草に自分に聞かれたのだと思い至ったのか、とりあえず名前を教えてくれた。


「矢内さん」


嬉しくて、特に用事もないのに名前を読んでしまう。


「はいぃ!」


小動物のような彼女は、どうも自分のことが怖いらしい。確かに最近身長がぐんと伸びた。そりゃぁ、こんなのに横に立たれれば萎縮もするだろう。


「そんなに、怯えんでください。何も取って食ったりなんかしないですから」

「ごめんなさい。福間さんが怖いのではなくって、その、なんというか…緊張してしまって」


怖くない、と言ってもらえたことが嬉しい。

言葉が難しいと、眉を寄せる姿も可愛い。


「そうですか」


安堵のあまりそう呟くと、矢内さんはまた目を真ん丸くしてこちらを見つめた。あんまり見られるのも恥ずかしいので、視線を外しながらまだもう少し会話を試みる。


「普段は自転車で学校まで通っているのですが、雨の日は流石に億劫でバスを使うんです」


彼女はどうでもいい自分の一人語りに「そうなんですね」と優しく相槌を打ってくれた。


「どうもバスに乗っていると気持ち悪くなってしまって。矢内さんはそんなことありませんか」

「私は、大丈夫です。いつも車内では本を読んだりしていて」


たしかに、なにか読んでいるのは目に入っていた。

でもずっと見ていたと分かるとまた怖がられるかもしれないと、ちょっと大袈裟かもしれないがほぉ、なんて声を出してしまった。


「何を読んでおられるのですか」

「げ、ゲーテです…」


ゲーテ。

詩人、だったような気はするが正直よく知らない。

いや、なんか有名な小説もあったような


「詩集、ですか」

「は、はい」


当たった。が、墓穴は掘りたくない。


「僕は宮沢賢治が好きなのですが…少々子供っぽいでしょうか」


最近読んだ本、と捻り出したのが宮沢賢治だった。

しかし彼は童話作家である。この歳になって幼子が読む話が好きというのは、どうだったろう。


「いえ、私も賢治は大好きです!」

「そう言って貰えると、なんだか嬉しいですね」


情けなくつけ加えた言葉を、彼女は力強く否定してくれて、嬉しくてにやけてしまう。

そんな自分を見る彼女の頬が燃えるように赤くなっていることに気が付いた。


「矢内さん、顔が赤くなっていますよ」


慌ててそう言うと、矢内さんも慌てて両頬をその小さな手で覆った。

もう初夏とはいえ、雨に濡れた体でこんな吹きさらしの小屋にいれば体が冷えて当然である。先程から全く勢いが衰えない雨に、帰宅を促すことにした。


「バスも来ないようですし、このままでは本当に風邪をひく。矢内さん、良ければ送っていきましょう」

「え?そんな、」


やはり学校は気になるだろうが、風邪をひいて数日休むよりは今日1日になる方がいいだろう。


「こんなところに女性を1人残して、自分だけ帰るなんて出来ません。さぁ、早く」


そういって、少しでも風よけになるべく彼女の少し前を歩いた。


彼女の家は、思ったより直ぐに着いた。

激しく傘と地面にに振りつける雨水でその時間はろくに会話もできなかったことが少し悲しくて、でもこうして知り合えたことがそれ以上に嬉しくて、彼女が家の門を閉めようとこちらへ向いた時に「ではまた」と残して、自分も家路を急いだ。


何とか家に着き、母が慌てて風呂の支度をしてくれたが遅かったらしくそこから2日風邪をひいた。


風邪は治ったが、今度は雨が降らない。

級友に聞くと、てるてる坊主を頭を下にして吊るすといいという眉唾の呪いをさずけられた。



朝起きると、窓の外からさーさーという音が聞こえた。

雨でこんなに気分が上がる日が来るだなんて、今までは想像もしたことが無かった。


小さなバス停の前に着くと、彼女は既にその中に立っていた。

黒く艶のある長い髪をお下げにまとめて、両手で学生鞄を握っている。その視線に矢内さんが気がついたようで、黒い瞳が自分を捉えた。

ぺこりと下げられた頭につられて、自分も会釈を返す。


「おはようございますっ」


まだ慣れてはいないのだろう、この大男に向かって彼女が挨拶をしてくれた。

傘のバンドを止めながら、自分もおはようございますと挨拶を返すと、矢内さんはカバンの中からあの日自分が差し出した手ぬぐいを取り出した。

もちろん、折り目正しいままである。


「あの、これ。借りたままで、ありがとうございました!」

「いえいえ。矢内さんはあの後風邪は引きませんでしたか?」

「私はぜんぜん。体の丈夫さだけが取り柄なので…福間さんは大丈夫でしたか?」


ここで自分だけ風邪をひいたと言えば彼女はまた恐縮するだろう。


「それは良かった。僕も大丈夫でしたよ」


嘘も方便という。

彼女がその返事にほっとした表情を浮かべてくれたので、それが正解だったのだ。


「矢内さん」

「はい?」

「あの、良かったら今度映画を見に行きませんか」


彼女は目を真ん丸くした後、花のように笑って「はい」と小さく頷いた。


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