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恋が落ちる時  作者: 八月一日
ぷにぷにほっぺと21時のココア
3/6

麻野ひかりの場合


接待と残業続きでろくに休ませれていない足をパンプスにねじ込んで、ひかりは玄関を開けた。



駅まで徒歩10分。大学を卒業して、新卒で入社が叶った憧れの出版社に入社するまでの短い期間で慌てて決めた部屋は、あまり好立地では無い。この家賃を出せば地元ならかなりいい家に住めるだろうな、と思うと都会に来てしまったことを少し恨めしく思うこともある。

ブルブルっと鞄の中の携帯が震えた。朝から誰だよとポップアップを確認すると、同じチームの同期からだった。


今日使う資料できてる?どこ入ってんだっけ


確かに朝イチからの会議に使う資料の取りまとめを任されていたのだが、まだ確認してなかったのかと乗車率120%の電車内で頭を抱えたくなった。



「あのさぁ、この予算でそんな大掛かりなこと、本当に出来ると思ってるの?」


ひかりが所属されたのは、北西社が抱える中では一二を争う人気女性向け情報誌「kokokara」の編集部だった。

来年はちょうど創刊20周年を迎えるアニバーサリーイヤーで、紙面内外で様々な企画を用意する。しかし、その用意されたものは枠組みの草案であって、中に何を詰めれば収まり良いかは上ではなく下が考える。社歴5年目までの若い層を育てるため、試練として使うのだそうだ。


何がしたいか、何なら出来るか、その中で何をしたら読者に楽しんでもらえるのか。


そんなことを夜となく昼となく考え続け、チームで練にねったプレゼンを、上座でふんぞりかえる上司は気持ちがいいくらいバッサリと切り捨てた。


「そりゃ出来たらすごいけど、金に物言わせないと作れないなんて、そんな企画を求めてるんじゃない。やることは幻想的に、予算は現実的に、だ」


その一言を最後に、第三回目の会議が終わった。

三回目にして初めて全てのチームが没とは言われなかった。が、ダメ出しは山のようにくらい、結局は全面的な見直しを求められる結果となった。


「麻野ぉ、疲れたぁ」


隣のデスクで顔を突っ伏しているのは、同じチームでひとつ先輩の苑田遥だ。オネェ言葉と異国の血が混じる綺麗な顔立ちのせいで女性かと戸惑われることもあるが、正真正銘、男性である。


「苑田パイセン元気だして行きましょ。このくらいでいちいち凹んでたら、先輩の低反発ハートもすぐにペシャンコになっちゃいますよ」

「麻野ちゃんは強いわねぇ」

「女は往々にして強くならざるを得ないですからね」


適当なペンに巻き付けていた、色気もへったくれもない黒ゴムで髪を縛り、ひかりはパソコンに向き直った。





ブルーライトを浴び続けていたら、日が落ちたことに気が付かなかった。

…というか、寝てしまっていたらしい。


オフィスを去っていく人にその都度適当な返事を返していたが、ふと周りを見渡すともう全て空席になっている。最後に出てった人、せめて起こしてくれよ。

しかしそんなことを思ったところで仕方がない。

誰もこちらを見ていないのをいいことに大きく伸びをする。あくびで開いた大口を隠しもせずに凝り固まった肩と背中を伸ばしていると、コトっと軽い音を立てて紙コップが目の前に置かれた。


「お疲れ様。ちょっとは目を休めてやらないと近いうちに後悔するわよ~」

「!?」


完全に気配に気づかなかった。


伸ばしていた腕を電光石火でおろし、両手で口を塞ぐ。音が出るくらいの勢いで声がした方を見れば、苑田先輩が居た。


「やーね、そんなに驚いちゃって。こっちが吃驚したでしょう」


本当に驚いたのかと思うくらい苑田先輩は表情を乱さず悠然と自分の席に腰を下ろす。


「ずーっと怖い顔して画面睨んで。自分こそ楽しまないと、他の誰かを楽しませられるものなんて作れないわよ」

「…そんなに、酷い顔してましたか」


私の質問を遮るるように、開いたままだったノートパソコンの画面を先輩が閉じた。もちろん閉じる前に上書き保存をするのは忘れない。

煌々と輝いていたパソコンの白い画面が消えて、休憩を強制された。


「とりあえず飲みなさい。珍しく奢りよ」


仕事を奪われては仕方がない。

ありがとうございます、と勧められるまま素直に白いカップの蓋を開けると、甘いカカオの香りが鼻先を掠める。


「これ、」

「あなたお気に入りのココアよ。疲れた時は甘いものに限るわよね」


そっと口をつけたココアの甘い温かさに、お腹の中が暖かく満たされていく気持ちがする。


ほうっと息をついて、隣のイケメンオネェを見ると猫舌の彼は自分のココアにふぅふぅと息をふきかけて冷ましていた。


「…先輩、熱々は熱々だからこそ美味しいんですよ」

「火傷したら痛いから嫌よ」

「ならなんでアイスにしなかったんですか」

「この寒いのに冷たいのは嫌」


文句が多い。


しかしそんなやり取りすら楽しくって、先輩と一緒に笑いあった。


「うん。なんかいつもの麻野ちゃんに戻ったみたい」


そう言われて初めて、自覚していなかった心の強ばりを感じる。

ああ、そうか。


「なんか、私疲れてたのかもしれないです」



「自分のことは意外と分からないものよね」


心をふわっと軽くするような優しい物言いに、なぜか頬に涙が滑り落ちた。


鼻がつんとするような前触れもなく、つぅっと流れた涙は、さながら主演女優のようで。思わず触れた頬の冷たさに驚いた。



しかし私以上にこの涙にギョッとした人がいる。




「え?!いや、なんで泣いてるの!」



え、なんで、と漫画ならその背後にあたふたと擬音が入りそうなほど分かりやすく先輩があたふたしている。

なにか涙を拭うものはないかと、お世辞にも綺麗とは言えない机の上を手と視線が右往左往し、埋もれていたボックスティッシュを発掘した。ちょっとほっとしたのか表情が緩み、そのままこちらにティッシュを差し出してくる。


その動きがなんともコミカルで思わず笑いが込み上げてきた。



「ぷっ、はは…あはは!」


苑田先輩は、普段の言動こそオネェさんだが、其の実誰よりも男らしい。今まで見たことの無い、そのオロオロした動きに笑いが止まらなかった。


泣いたかと思えば今度はお腹を抱えて笑いだした私を、気味悪がるように先輩は身を引いている。いや、気持ちはわかるがちょっと傷つくぞ。

それでも気が済むまで笑いこけ、最後にはぁーとひとつ大きく息を吐いた。


「ごめんなさい。そんな、笑うつもりじゃなかったんですけど」


落ち着いたと思ったが、謝罪をする間もまだ私の横隔膜は震えている。

そんな私に呆れたのだろう、先輩はデスクに肘を着き、片手で顔を覆って長ーい溜息をこぼした。それさえも絵になるなんて、世界は明らかに不公平だ。

形のいい唇がほんのり弧を描いて、長い腕が私に向かって伸びてくる。


「なんか知らないけど、元気になったなら良かった」


反射的にぎゅっと目をつむると、暖かい大きな掌が私の頭をポンポンと撫でた。


「よしよし。浅野はいつも良く頑張ってるよ。だからストレスで可笑しくなる前に発散しような」


頭を撫でられる心地良さと、その言い知れぬ恥ずかしさで頬に熱が集まってくるのを感じた。

さっきまでちょっとカッコ悪かった彼はもうどこにもいない。まるで小さな子供に言含めるように優しく諭された。いいパパになりそうだなこんにゃろうなんて、心の中だけで悪態をつく。


なんで今日はこんなに感情がジェットコースターなんだ。


「これからは少しくらい俺を頼ってよ。後輩ってだけじゃなくて、憎からず思ってる女の子に頼られて悪い気のする男は居ないんだからさ」




ん?



軽く言い放った彼の目尻がほんのり赤く見える。

処理が追いつかなくて、ぱしぱしと二度瞬きをする。


これはあれだ、夢だ。



だって何を言われたか分からない。いや、意味が分かるからこそ、解らない。


固まる私に、少し小首を傾げてこちらを覗き込んでくる先輩の瞳は、今までに見たことのないくらい優しい色をしている。



目の前で起きているこの映像が脳に駆け巡った瞬間、私の顔に集まる熱がさらに増した。


頬に入り切らなかった分が耳や首にまで伝っていくのがわかる。大気圏を突破して、太陽の前まで放り出された気分だ。

熱射病のようにクラクラしてくる頭を、目の前の彼はまだ撫でている。その瞳が、面白そうに、意地悪げなものに変わっていることに気がついて、私は脊椎反射で立ち上がった。

ついでに満足気に私の頭に乗っかり続けていた手も払い除ける。



「人の頭でドリブルするのやめてください!てか、憎からず、って!どういう、!」



いきなり立ち上がった私に、先輩はまだ余裕の表情を崩さない。私の痴態を、ただ楽しそうに笑っている。


「憎からず。好ましく思ってること、また慕っていることを表した婉曲的表現だよ。出版社勤務なんだから、そういう表現も覚えような」


そのくらい知っている。知っているが知らなかったのだ。


私の中で限界まで押し込められていた熱は、ついに臨界点を突破したらしい。


もう肌という肌が全部真っ赤に染っているだろう。戦況は最悪だ。

負け戦と分かっていても、果敢に挑む姿は格好いい。しかしそれは良い判断とは言えない。

体制を崩して戦局が悪化したのなら、一度逃げて立直すのがセオリーだ。




逃げよう。


この狐のような男から。この場はとりあえず逃げるが勝ちだ。





そう思い慌てて踏み出した私の足は、しかし味方だと思っていたパンプスに裏切られた。



────やばい転ける



ぎゅっ閉じたまぶたの裏に浮かんだのは、いつかの自分の姿だ。これが走馬灯と言うやつか。




少しだけ大きいけど、でも浮腫んでくる夕方はもうそんなに気にならないし、なんなら最近は午前中も浮腫んでるから。

一目惚れした靴がどうしても欲しくて、沢山言い訳を重ねて買った過去の自分を呪った。



つまりはそう、ちょっと踵が緩いのだ。




突然の味方の謀反に、私は為す術なく床に倒れ込---



「へ?」




反射的に痛っと言いそうになっていた唇は、気の抜けた音を出した。



身構えた衝撃は、膝ではなく肩に来た。


私の肩を、先輩の長い腕が抱きとめたのだ。




呆然とその腕を辿る。



「え、」



先輩の美しい顔が視界いっぱいに広がる。







もう逃げられない







その言葉はどちらが放ったものだったのか。

私には分からなかった。


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