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恋が落ちる時  作者: 八月一日
あと一歩の距離
2/6

久保田由紀の場合





「ミナミを甲子園へ連れてって」





昔大流行したアニメの台詞である。

当時、高校野球部でマネージャーをしていた女子なら、1度は自分の名前を当てはめてみたに違いない。

高校に入って最初にできた友達がその某野球漫画の大ファンだった。

この台詞に彼女も自分の名前を入れて球児に言うのだと、絶対野球部の女マネになるから由紀も着いてきて、と仮入部に連行された。


4月のグラウンドは空気こそまだ涼しいが、照りつける太陽はもう夏のようだ。

ほぼ一年中そこで練習に励む彼らの肌は、眼下に広がる砂よりもよっぽど濃い色をしている。

高校球児志望の男子の横に並び、仮入部勢が順番に軽く挨拶をしていった。


「1年2組の久保田由紀です。中学ではバトミントンをしてました。マネの仕事は初めてです。よろしくお願いします」


先輩方は、隣に並ぶ20余名の1年生にはパラパラとしか拍手を贈らなかったのに、マネージャー候補の挨拶には荘厳なクラシックを一曲聴いた後のような、そんな盛大な拍手を贈った。


後でマネージャーの先輩が、「かわいい女の子は大歓迎だけど、男子は全員仲間でありライバルだからね」と笑っていたのが印象に残っている。


マネージャーの仕事は、思った以上に体力勝負だった。


家からの登校距離と制服で選んだ学校は、いわゆる「夏の甲子園」の常連校だったらしい。

そんな強豪校とだけあって、部員数は約100人にも登る。

その人数の面倒を見るマネージャーは普通の部活よりは多いものの、仮入部を合わせて5人ほどだ。足りない分は1年生がカバーするらしい。


ノック用に大量の球を用意し、その後打たれた球を集め、その間に部員がガンガン飲むお茶を補充する。洗濯したり掃除したり洗い物したりお湯沸かしたり、その隙間にスコアボードのつけ方を習ったりと、仮入部中でも容赦しない仕事量だった。


仮入部の一週間がちょうど終わる頃、私はお茶のタンクを洗うべく部室棟脇の炊事場へと向かっていた。

空になったタンクは当たり前だが軽い。

練習前はその3リットル入るタンクにお茶とスポーツドリンクがパンパンに入ったものを数個用意してグラウンドに運ぶので荷台に乗せて行くのだが、洗う時は両腕で持って行ける。

正直球拾いより楽な仕事に、私の足取りは軽かった。


「久保田さん?」


だっけ、と自信無げに小さく付け加えた声の主を、首を左右に振って探す。


「こっち」


笑いを含んだ言葉と共に、軽く右の肩が叩かれた。そちらに振り返れば、最近ようやく見なれてはきたが、見分けは付かない坊主頭の男子が1人で立って居た。


「どうかしました?」


まだ全体でアップを取っている時間だ。トイレならもっと近いところがあるし、もし練習を抜けたのだとしたらこの人はなかなか度胸がある。

強豪とだけあって、コーチも顧問も鬼のように怖いのだ。今日はたまたま不在だったが、ノックが始まる前には必ずどちらかが現れる。

彼がそれに間に合う可能性は、正直低いだろう。


「ちょっとテーピング取れちゃって。巻いてくれない?」

「…いいですよ」

「ありがと。助かる」


とりあえず手に持っていたタンクは邪魔にならないよう隅の方へ置き、彼が持っていたテーピングを受け取った。

端を見つけて、ビッと引き出す。


「何処ですか?」


準備万端にして待っていても、彼はなかなかその部位を差し出してこない。ゆっくりしてたら確実にどやされるぞ、とその顔を見上げると、その瞳が見開かれていた。


「いや、ちょっと吃驚した。ごめん」


いや、こっちがびっくりなのだが。

そう思っても口に出さなかったのだが、きっと雰囲気で察したのだろう。しどろもどろに言葉を繋げてきた。


「ほんとごめん。やる気満々というか、テーピングなんかしたことなさそうなのに、何も聞かずにやってくれようとしてるし」


どうやらこの人は言い訳が苦手なようだ。

慌てて言い募るが、上手いことは言えていない。その様子が可笑しくって、思わずあははと声を上げて笑ってしまった。


「ふふ。こっちこそ笑ってごめんなさい。中学の時にバド部だったんで、ちょっとだけですけど知識はあるんです。でもどうやるのか教えてください」


私が笑ってしまったのが悪かったのだろうか。

その後何故か、先程よりもしどろもどろになった彼---改め、三浦先輩の人差し指に私はどうにかこうにかテープを貼り付けることが出来た。


私の悪戦苦闘後、固辞したのに三浦先輩はタンクを運ぶのを手伝ってくれた。

テーピングの途中、ボールを打つ音が聞こえてきたから、もうコーチか顧問が来てしまったはずなのに。


「いいですって。もう、すぐそこなのに。グラウンドの方がよっぽど遠いですよ?」


いいからいいからと、先輩はさっさと歩き出してしまう。


「もう遅れてるんだから、ついでに5分や10分遅れたところでそう変わらないよ」


テーピング巻いてもらったから洗うのは手伝えないけど、と炊事場へ向かうことはもう決定事項で変えようがないらしい。

まぁ、いいか。

頑固な先輩だな、と思いながら、私は彼の半歩後ろに駆け寄った。


「部活、楽しい?」


不意に聞かれると、なんと返すか戸惑う。

楽しくない訳では無いが、今はまだ慣れていなくて毎日楽しむ余裕なんてないのが本音である。

私が言い淀んでいると、彼はははっと笑った。

さっきの仕返しか、と少しムッとしていると、ごめんごめんと軽く謝られる。


「いや、久保田さんは顔に出やすいね」


その言葉にびっくりして顔を上げると、彼はしたり顔でニヤリと笑った。


「普段はそんなこと言われない?」


図星である。

むしろ無表情で何を考えているか分からないと言われることの方が多い。




「そんなことないよ」




その声は優しい音をはらんでいた。





私がタンクを洗って帰った時には、三浦先輩はもう練習に参加していたので知らないが、きっと相当怒られたのだろう。

顧問からいつもより鋭い激が飛んでいるのが見えた。


こうして1週間は終わった。

やっとゆっくり出来ると思っていると、私をそれに無理矢理引っ張って行った可奈江が、由紀の分の入部届けも出しといたから!と事も無げに言い放った。

私のお小遣いが制汗剤と日焼け止めに消えていくことが決まった瞬間である。


思わず惚けてしまった私に可奈江は慌てて謝ってくれた。


「ごめん!由紀部活中ずっと楽しそうだったし、一緒に入ってくれるんだって勘違いして…!」


出会って2週間足らずで迎えてしまった友情の危機に、彼女は涙目になって謝ってくれた。

それに私も慌ててしまう。


「違うの、嫌だった訳じゃなくて、ただちょっとビックリしただけ!」


本当?と少し安心した彼女は、でもちゃんと確認はするべきだったよねとちゃんと反省してくれた。



とはいえ、断っても良かったのにそのまま甘んじて受け入れたのは私だ。

それは彼女との友情を危惧したわけではない。







カキーン



地区予選が始まる前、可奈江を含め野球部のマネージャー全員が「甲子園へ連れてって」と言いながら部員に手作りのお守りを渡すという儀式が、粛々と執り行われた。

今思い返せばなかなか恐ろしい光景である。



そんな過去や、熱い戦いを繰り広げた仲間に託された想い背負って迎えた9回裏。


ツーアウト、ランナー一塁二塁。一点を追われる場面。敵も見方も、たまたま居合わせただけの人も、固唾を飲んで見守る、そんな場面。


ピッチャーから放たれた豪速球は、キャッチャーのミットではなくバッターの振るったバットに押し返され、ピッチャーの後ろに広がる夏の青空へと勢い良く消えて行った。


アルプススタンドからは吹奏楽部が鳴らすファンファーレが響き、歓声と解説者の興奮がそれに呼応して、テレビ前の観客を賑わせているのだろう。

本塁打を放ったランナーが溢れんばかりの笑顔でホームベースに戻る姿をカメラが追う。

片手を高らかに挙げた本日のヒーローがそこに帰還した時、ベンチから選手がわっと駆けて来て、喜びを分かちあった。


それを、ベンチの中からぼんやりと眺めた。


記録係はベンチに入ることが出来る。


「皆その席に入りたいに決まっているから、全員に回るまで勝ってね」


地区予選を勝ち抜き、甲子園へと駒を進めた部員たちに、マネージャーでまた手分けして、新たなお守りを渡すことにした。友達にも手伝ってもらって、何日も夜なべしたり内職したりしてどうにか全員分作ったそれと共に贈った激励の言葉通り、彼らは約束を守ってくれた。



私が、最後の記録係だった。




鼻の奥が、ツンと痛む。


彼らの夏は、こうして終わった




でも彼らの夏が終わっても、本当の夏はまだもう少しだけ終わらない。



この悔しさを次に繋げるために、気合いを入れ直した丸坊主がグラウンドに大きな声を響かせている。


大量のビブスやタオルが入ったカゴを、うんしょと持ち直して前を向くと、三浦先輩がヒラヒラ手を振りながらこちらに歩いてきていた。


「先輩、また来たんですか」


「なんか習慣がね~」


ドキンと跳ねた心臓を、彼に気取られないように、何気なく言い放つ。


「そんなんだと浪人どころか留年しますよ」


意識しすぎて冷ややかになった声の温度に、思わず表情が強ばった。


「久保田に心配されるほど、俺頭悪くねーよ」


そんな私の態度に、彼は気にした様子を見せない。強ばったものが一気に解ける。

そしてまた有無を言わさず私の手からかごを取り上げ、洗濯場の方へ歩いていった。


慌てて追いかけなくても、すぐに並べる速さだ。

昔、初めて一緒に歩いた時はコンパスが違いすぎて隣を歩くことも難しかった。

けど今は、私の歩幅に合わせるように歩いてくれている。こんなの、誰だって己惚れる。


部活を引退してからも、塾に行く前の少しだけ空いた時間にこうして顔を出してくれるのが嬉しい。

彼を思えば、さっさと洗濯場について、塾へ送り出した方がいいのだけど、少しでも一緒にいたくて最近はむしろゆっくり歩いてしまっていた。


「三浦先輩?どこまで行くんですか」


特に会話もなく歩いていたからだろうか。

考え事をしていたふうの彼は、洗濯場を行き過ぎてしまった。


「え?」


振り向いた彼を見て、頬が緩む。


「何やってるんですか」


最近髪が伸びてきて、先輩はイケメン度が増したと思う。

そんな先輩の形のいい耳が、ほんのり赤く染っているように見えた。


「あー…ぼんやりしてた」


少し歪んだ顔を隠くそうとして、洗濯カゴが両手を奪っていたのに気づいて不機嫌が加速している。

その様子すら可愛くって、盲目とはこの事かと思わず苦笑した。


数歩ほど行き過ぎていたのに、先輩は大きな一歩でこちらにたどり着いて、口を開けていた洗濯機にポイポイと洗い物を入れていく。


「先輩?時間大丈夫なんですか?」


いつもはここでお別れなのに、何故か今日は帰ろうとしない。

塾の時間は大丈夫なのだろうか。

私のそんな心配を他所に、彼は黙々と洗濯機の操作を進めていく。きっと受験のことで沢山ストレスを抱え込んでいるに違いない。


「先輩?」

「あ、ごめん。何?」


背中をパシパシと叩くと、ようやくこちらを向いてくれた。


「あの、ですね。」


これから言わんとすることに、恥ずかしさからむむむと口がへの字に曲がる。


「どうしたの」


何をそんなに言いずらい事があるのかと、先輩が身構えてしまった。良くない。良くないぞ。

何気なく、さり気なくと心の中で呪文のように唱えながら、私はずっと言いたかった一言をようやく声にした。


「先輩の受験が無事終わったら、遊びに行きませんか。」


念じすぎて重々しく神妙になった私の言葉に、先輩の目が丸くなっていく。


「行く」


ゆっくりと噛み締めるように言われた了承の言葉に、私は言いかけていた撤回の言葉を飲み込んだ。




三浦先輩は、もう第一志望に合格したかのような、晴れやかな顔で笑った。


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