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26話 約束-3

「ありがとう」


 部屋に入ってツユにホットミルクを渡すと、両手で抱えて可愛らしい笑顔でツユがお礼を言った。冷たかった指がすぐに暖まる。まだ熱いそのミルクを少しずつ啜りながらドーナツを待つ。


 いつのまにかヒスイは部屋からいなくなっていた。どうせ料理場までドーナツの完成を急かしに行ったのだろうが、ツユにそんなことはわかりもしない。


「うん、あっまい」


 砂糖の味の方が強いのではないかと疑わしいほど甘いミルクをツユは嬉しそうに飲む。そうしながらツユは目線だけを扉に向けている。しっかりと見えるように目付きが悪くなるが、どうせヒスイは慣れているのだから大丈夫だろう。


 いつのまにかヒスイは部屋からいなくなった。また気付かないうちに入ってこられたら怖い。円状のマグカップの上に茶色い扉がボヤけて見える。そこが開く様子はない。


 ツユはクッとカップを上にしてミルクを飲み干す。そして、扉に目を再び向けると、そこに淡い緑色の髪を持つメイドが白い皿に蜂蜜をたっぷり染み込ませたドーナツを三つ乗せて穏やかな笑みで立っていた。


「きゃあああ!」


 ガシャンとカップが、落ちて割れた。中身が残っていなかったことが幸いだが、ツユは目を見開き、跳び跳ねた。ヒスイはその様子を楽しそうに眺めてから口を開いた。


「気付いておられたのですね。蜂蜜ドーナツ、お持ちしました」


 ヒスイはミルクを美味しそうにニコニコ飲むツユの邪魔をしないように部屋からそっと出ていた。しかし、部屋の外でツユが警戒して視線を扉に向けていることに気が付くと、いたずら心でツユが目を離した隙にまたそっと入った。


「ヒスイ嫌い! 一週間私の視界に入らないで!」


「え……あ、はい。かしこまりました。では、えっと、また一週間後の朝からお世話を担当させて、はい、いただきます」


 そんなに怖かったのか、驚いたのか、ツユは涙目でヒスイに叫ぶように言った。それも衝撃だったのか目から光を失わせてヒスイが言う。そのままヒスイは扉から出ていく。


「……ぐすん、もう」


 涙を腕で拭ってツユは言葉を漏らす。そして、ヒスイが出て行く前に置いていった蜂蜜ドーナツに手を伸ばして頬張る。さっきの涙目が嘘のように満面の笑みを浮かべた。


 コンコンコンと誰かが扉を叩いた。さっき追い出したばかりだからヒスイではないはずだが、少し言い過ぎたかもと後悔していたツユは少し期待しながらそのノックに答える。


「どうぞ」


「失礼します、お嬢様」


 ヒスイの声とは全く違う。それどころか男の声が聞こえてツユは顔に出さないように落ち込む。


 軽く頭を下げ、目を瞑ったままのその執事が静かに言う。


「お嬢様、マグカップの破片を片付けますのでお隣の部屋に移動願います」


「わかった。お願いね」


 ヒスイ以外の従者はほとんどが作業的にツユに接する。やることはやってくれるし、ツユのことを褒めてもくれるが、どうも生きている従者と話している気にならない。まるで人形か何かだ。その従者は失敗したり主を不快な気分にさせてしまえば簡単に首が飛ぶのでそんなこと出来ないだけなのだが。もちろん首が飛ぶというのは物理的にだ。


 そんなことなど知るよしもないツユは不満気に部屋から出て行く。隣にもほとんど同じ広さのツユの部屋がある。ベッドがあり、机があり、本棚があり、ツユが好きなカーペットが敷かれているが、こっちの部屋にはバルコニーがない。代わりにクローゼットがあり、いつもそこからメイドがツユに着替えを出している。


 同じようにツユはベッドに座り、本棚の方を眺めた。何を読むというわけでもないが、何となく眺めた。遠くからでも背表紙の色で何処にどんな本があるのかがわかる。


 そういえば、上から三段目、左から五冊目の黒い背表紙に白字で題名が書かれている本。いつだかケイジュが持ってきて置いて帰ったものだ。どうするかツユが尋ねたことがあったが、「気になったら読んでもいいよ、僕は読み飽きちゃったし、置いといてくれたら嬉しいな」と言っていた。ツユはその本を手に取ったことがない。ケイジュには悪いが、気味が悪くて触りたくもないというのがツユの正直な気持ちだ。


 フッと立ち上がってその本棚に吸い込まれるようにツユは寄る。近付いてその黒い本の背表紙をじっと見てみるが、よく見たら題名が読めない。この国の言葉ではないし、学校で習う帝国『アジサイ』の言葉でも古くにこの国で使っていた言葉でもない。中が何語で書かれているのかはわからないが、ツユは本当にこんな本をケイジュが読んだのか不安になる。


「………………ゃん…………か?」


 部屋の外から聞きなれた少年の声が微かに聞こえた。


「……………………」


 誰の声か何を言っているのか全く判別できない更に小さな声が少年の声に答える。ツユはそれが何なのかわかっているが、本棚から目を話さずに声の主が扉を叩くのを待つ。


「どうぞ」


 コンコンコンという木を叩く軽い音が耳に入り、ツユがその音に答えた。


「もう体調良さそうだね、ツユちゃん。あれ? 読書中?」


「もう平気だよ。何となくこれが気になってね……。まあ、私には読めたいんだけど」


 扉からピョコッと顔を出してケイジュがツユをニコリと見て言った。それに答えてツユは黒い本を指差してみる。


「あー、それね。まあ置いておくだけでもいいんじゃない? ……って、僕があげたんだけどさ」


 軽い様子でニカッと笑ってケイジュは冗談を言うようにツユに言った。


「邪魔にもなってないし、本棚なんて増やせばいいし。ここに置いておけばケイジュも読めるし、置いといてあげる。……で、もう行くの?」


 天井を見上げ、本棚の隣にある何もない空間をボンヤリと見てツユは言う。邪魔だとは思っていなかったけれど、もしそうだったとしても捨てることはないなと思った。


 ツユは、ケイジュの格好を見て約束を思い出す。忘れていたわけではないが、少し頭から抜けていた。自分の来ている服を指差してツユは尋ねてみた。


「まだ時間はあるけど……そうだね、着替えてきちゃいなよ」


「うん、そこのクローゼットに服なら入ってるからその中で着替えちゃうよ」


 大きな引き戸のウォークインクローゼットを指差してツユが言う。広いわけではないが、中で大の字になって寝れるくらいのスペースはあるので余裕で着替えるくらいはできる。


「じゃあ僕は本でも眺めてよっかな」


「ご自由に~」


 本棚まで歩いてきてケイジュは言う。ツユはどうでも良さそうにケイジュの顔を見もせずにそれに答え、クローゼットを勢い良く開けて中に入っていった。


 それを見届けると、ケイジュは君の悪い黒い本に手を伸ばした。

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