第8話
とりあえず一区切りついたところです。
恐怖を味わったその真夜中、ナナシはベッドから体を半分起きだしていた。あれほど苦しく死をも覚悟した経験のはずなのに彼は眠れずにいたのだ。魔女スロッガルが弟子の二人を連れて国へ戻った後、ナナシ達もアンニンの家へと戻っていった。帰りの道中は全員が疲れており言葉も交わさずにただ歩くだけであった。道はすでに月明かりが目立つほど暗くなっており、早朝に出たはずなのにこれほど長くの時間が立っていることにナナシは驚いていた。
帰ってからはベッドやソファに倒れこみ死んだように眠ったが、ナナシだけは妙に眼が冴えて眠れなかった。一度は眠ることはできたのだが、魔女たちに拷問された時の光景が夢に出るのだ。それは逆さづりや水攻めではなくあの奇妙な頭痛の際に見えた薄暗い光景だ。見える景色はろくに色のついていないモノクロにもかかわらず、彼はなぜかそれが夜であることを理解していた。さらに周囲にあるベンチや街頭はこっちでは見たことのないような物であった。おそらく自分が元の世界に見たことのある記憶がフラッシュバックされたのだろう。はっきりしない記憶なのはいささか不自然に感じるが。
特に疑問なのはこれを思い出したときに抱いた感情が恐怖というものであったのだ。なぜ自分はこんな当たり障りのなさそうな景色に恐怖を感じるのだろうか。その一点だけは彼を安心させなかった。
もっとも彼の疑問はその記憶の光景だけでなかった。マスター・Mについてである。アンニンや魔女の会話から彼は自分に何かを隠していることにナナシは確信を持った。しかしそれを明かさない理由がわからない。初めて会った時から彼は別の世界から来た人間については詳しくないというスタンスを取っていた。しかし魔女の言い方からすれば異世界人…おそらく別の世界から来た人間のことだろう。これについてマスターはなにかを知っているのは間違いない。ただそれを当の本人になぜ隠すのだろうか。
横を向けばぐっすりと眠り込んでいるマスターが見える。いずれにせよ、今日にでもその真相について追及する必要があると思った。そのためにも少しでも頭は冴えさせたほうが良いと思い、頭から布団をかけるようにして再び眠りにつこうとした。
「お若いの、あまり眠れていなかったのでは」
「わかります?」
朝食時に心配そうなアンニンの声にナナシはどこかぼんやり気味に反応する。結局あの後に何度も目が覚めてしまって起きているのか寝ているのかはっきりしない状態が続いたまま朝を迎えたのだ。今ですらどこまで起きているのかが怪しいものに見えた。
「あれだけいろいろあって眠れないとは。どこか具合でも悪いのか?」
「いやちょっと考えごとしていまして…」
「まったく休めるときに休め。また危険な目にあった時にそんなフラフラではたまったものじゃないからな」
元をたどれば問題の原因であるマスターに言われるのは悪気が無いのがわかっていても腹が立つ。
しかしどう話を切り出すべきであろうか。決心こそしたもののいざ話そうと思えば口が動かなかった。まあいざとなったら旅に出て二人になった際に聞けばいいとも思うのだが、少しでも早く知りたいという気持ちもある。
するとまたもやアンニンから援護が入った。
「マスター。お若いのはあなたに話があるのではないでしょうか」
「私に?」
「そうです。昨日魔女にも言われたではありませんか。おそらくそれが原因で彼は悩んでおられるのではないでしょうか?」
「…アンニンさんの言う通りです。僕はマスターにいろいろ訊きたいんですよ」
困った表情を見せつけるマスターであったが、ナナシもここで退くわけにはいかない。
「私は畑仕事もあるので席を外しましょう」
「いや私たちは今日にでも出る予定なのだが…」
「午後からでも問題ないでしょう。なんだったら今晩まで泊まっていっても構いません。お二人で話をつけてくださいな」
アンニンは早々に自分の食器を片付けると扉付近にあった道具と帽子を持って外に出る。彼なりに気を利かせてくれたのだろう。ただナナシもマスターもこの状況で話すには第三者が欲しい気持ちであった。
気まずい沈黙が流れる中、最初に口を開いたのはマスターの方であった。
「お前、アンニンを味方につけることはないだろう。訊きたいことがあるなら自分で言えばいいじゃないか」
「僕が頼んだわけじゃないですよ。アンニンさんが勝手にやってくれたんです」
「あいつは妙なところで気が回る…」
「僕としてはありがたいですけど。それよりも質問に答えてくれますよね?」
「ああ…答えられる範囲でな」
何となくはぐらかされるような前置きが言われた気がしたがここは素直に訊いていこうと思った。
「しかし今さら何を訊きたいんだか…」
「僕としては重要なことです。まず異世界人ってなんですか?それにマスターは僕が元の世界に戻ることについて詳しく知っているでしょう」
「最初の質問だがこれは聞く必要あるかねぇ。まあ異世界人というのはこのイクセリア以外の世界から来た人間のことだ。それ以上の意味はないがこの前の魔女たちみたいに変な噂を信じる輩はいるな。それも昔の話だが。後者については初めて会ったときに言っただろう。ハ―ファーに行く以外は詳しく知らんよ」
「それが信用できないんですよ。だって昨日の魔女たちの行動を見ればマスターが異世界人を連れて歩いているのを知っていたみたいじゃないですか。これだけじゃないですよ。僕があなたを不信に思う理由は。どこまで僕に嘘をつくんですか」
気になっていたことをナナシは淡々としかし非難するように吐き出す。本当ならばほかに訊きたいこともあるのだがまず自分が彼を信用できないことを訴えたかった。この世界に来てから彼には感謝することばかりだがそれに劣らず不信感を抱いていることを彼に知ってほしかったのだ。少なくともそれでナナシの気持ちが少し晴れることにもつながっていた。
ナナシの非難めいた言い方にもマスターは顔色を変えずに顎を撫でる。
「…要するにお前はこれまでのことから私が信用できないということか。いや無理もないか」
「答えてくださいよ」
「ああ、そうだな。じゃあ順を追って説明しよう。まず確かに私は異世界人については少しは詳しい。これまでも十数人、助けたこともあればお前みたいに共に旅をしたこともある。だがな本当に知らないんだよ。ハ―ファーまで行けばわかるだろうがあそこは途中で一人になる必要があるから正確にどのように帰っているのかまでは知らないんだ」
「で、でも…じゃあこの世界について訊いたときにはぐらかしたのは…」
「はぐらかしていないさ。私は他の人よりも異世界人と交流があるから思わせぶりな発言に取られることがあるがね」
マスターの口ぶりはさも当たり前の常識を説明するような雰囲気であった。ただしいつもより幾分か丁寧にも聞こえ、もっと言えば申し訳なさすら伝わってくる。
「あとは何が訊きたい?」
「えっと昨日の魔女のこととか…どうしてマスターが異世界人を連れているのか知っていたとか」
「そこは推測になるが彼女らはスロッガルの武勇伝を真に受けたんじゃないか。あいつはもともと私とは犬猿の仲でな。何度か殺しかけたこともあったくらいだ」
「なんでそうだと思うのです?」
「そりゃ彼女たちがマスター・Mと聞いて面食らったからだな。私はいくつか名前があってね。ドロケットではマクヴェスの名で通っているのさ。長生きしていろんな場所に行っていると自由にできる名前がいくつもある方が便利でね」
この対応でナナシの疑問は次々と解消されていった。どこまで本当かもわからないがここで嘘をつく理由もない。ただどうしても腑に落ちない一点だけがこれまでのマスターの態度と応答を信じるのを妨害していた。
「こんなものか?」
「ま、まだもうひとつだけあります。どうして隠していたんですか?もっとこう…話してくれてもよかったじゃないですか。今のを聞く限り隠し立てるようなことがあったとは思えないのですが」
「…それに答える前にひとつだけ訊きたいのだがお前は今日までで前の世界について何か思い出したか?」
「自信はありませんがそれらしいものを思い出しました。魔女に拷問されていた時に急にどこかの景色が浮かびました。何もなさすぎましたけど」
「そうか…ちょっと安心したよ」
「何がです?」
「全部最初に話したらお前が感動することをおろそかにすると思ったんだ。生の感情よりも前に戻ることを考えるはずだ。それでは記憶が戻るか怪しいものだ。私としてはできるだけ記憶を戻して元の世界に戻ってほしいのだ。その方が困らないからな」
ナナシは彼の発言の意図がなんとなくわかった。もし最初に自分がマスターのことを知っていればどんな経験をしてもまずこれで記憶を思い出すかを意識していただろう。実際、道中ではそうなっていたことも多々あった。マスターが異世界人に詳しいと知っていれば彼の言う通りのことだけをして自分で感動を抱くことをおろそかにしただろう。だからマスターは必要以上のことは言わずにどことなくそっけない態度になっていたのかもしれない。
「ただそれがお前の不安をあおる結果になってしまったことは私の責任だ。それについては謝ろう。申し訳なかった」
テーブルを挟んで向かい合わせの状態でマスター・Mはナナシに頭をグイっと下げる。さっきまで不信的な態度が和らいで今では正直な面もある人物に見え始めた。おそらくだが彼はまだ話していないこともあるだろう。たとえそれでもこの人は信用に足る人物だとナナシが確信を持った瞬間であった。
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