思い出語り 1話
「セリエ、君の血をくれないか?」
声が頭上から落ちてくる。
幼いセリエは言葉の意味を理解できず、声の主を不思議そうに見上げた。
王城の奥に、人目を避けて休めるように造られた、大輪の薔薇が咲き誇る中庭で。
夕日に染まった赤い空の下。
優しいはずの国王陛下は、七歳の少女に言葉を繰り返した。
「君の血を。古の竜の血を、私にくれないか?」
セリエは息を飲み込んだ。
長い睫毛に縁取られた、紫色の瞳を大きく見開く。
イグニース公爵家の令嬢として、溺愛されて育てられているセリエが。
人でないことは。
古の竜の末裔であることは、限られた者しか知らない秘密であったから。
国王陛下が、知っているはずはないのに。
「君を殺し、君の血を浴びれば、永遠の命が手に入る」
幼馴染みの父親でもある国王陛下の声に、普段の親しみは少しも感じられなかった。
夕日が放つ、赤い光がまぶしくて、セリエは瞳を細めた。国王陛下の背後から差し込む夕日が逆光となり、国王陛下の表情が見えない。
金属の輝きが、セリエの視界に入る。
国王陛下の右手には、鞘から取り出され、抜き身となった剣が握られていた。
言い知れぬ恐怖が、セリエの心を這い上がる。
逃げなくてはいけないと分かっているのに、体が固まり、足が動かない。
中庭に置かれている石造りのベンチも、競うように咲き誇る大輪の薔薇の花も。
全てが、夕日に染められて。
赤に染まった世界の中。
悲鳴を上げることすらできずに。
自分に向けて振りおろされる剣の刃先を、セリエは立ち尽くしたまま見つめていた。
赤い液体が、空中に散る。
セリエは痛みを感じなかった。
痛みは体のどこにもなくて、包み込むような温かい体温が、セリエの小さな体を抱きしめていた。
癖のある跳ねた茶色い髪が見える。
セリエの頬に、エリュシオンの血が、滴となって落ちてくる。
国王陛下の剣の前に飛び込んだエリュシオンが、セリエをかばうように覆い被さり、体を屈めてセリエを抱きしめていた。
「………無事だな?」
背中から血を流しながら、エリュシオンはセリエに優しい微笑みを向けた。まるで、なにもなかったかのように。
セリエはエリュシオンに小さく頷いた。
頷くしかできなかった。
「それなら良い」
エリュシオンの声は穏やかだった。
抱きしめているエリュシオンの両腕に、少し強い力が込められる。
どことなく、セリエにすがりつくようなエリュシオンの両腕は、セリエの存在を確認するようで。
そのエリュシオンの温かな体は、セリエを安心させてくれる温かさだった。
だが、エリュシオンの背中から流れ続ける赤い液体が、セリエを現実に引き戻す。
「凄く、痛そう」
セリエの声が震える。
エリュシオンは明るく笑った。
「気にするな。殺されても、俺は死なない」
弾かれたように、セリエはエリュシオンの顔を見つめる。セリエは小さな手でエリュシオンの服を強くつかんだ。
「死ななくても痛いのは駄目よ!」
エリュシオンが少しだけ瞳を見開いた。
セリエの頭に、エリュシオンの右手が乗せられる。苦笑に似たため息が、エリュシオンの口からこぼれた。
「おまえは、……いや、今更か」
良く分からない独り言をエリュシオンはつぶやく。
エリュシオンはセリエから手を離して立ち上がった。体の向きを反転させる。
セリエの瞳に、エリュシオンの背中が映った。
血を流し続ける背中が。
「痛みはそんなに悪いモノでもないさ。俺を、生きているって気分にさせてくれる」
振り向きもせずに、エリュシオンはセリエに言葉を返す。
見えなくても、セリエには、エリュシオンの不敵に笑う顔が見えた気がした。
セリエに背中を向けたまま。
エリュシオンは腰に装備していた剣を引き抜いた。
夕日の赤を背景に。
剣を構えて、まっすぐに立つエリュシオンの後ろ姿を見上げながら、セリエはなぜか、美しいと思った。
一枚の、絵画のようだ。
心に自然と浮かんだ言葉に、セリエは軽い違和感を覚える。
セリエの心の奥深く。
いつだか分からないような、遥か遠い昔のなにかが。心の深海に沈んでいたなにかが目を覚まし、ゆっくりと浮上してくる。
セリエの意識は流転する。
押し寄せる記憶の波に飲み込まれ、都合良く、セリエは意識を失った。
「セリエはどうしている?」
エリュシオンは不機嫌を隠さなかった。
ラーゼ・イグニース公爵以外、誰も近づかないくらいに。
「もちろん、私の屋敷で寝ていますよ。護衛付きでね。七歳の少女にはショックが強すぎたのでしょう」
すでに何匹目になるのか分からない、たくさんの蝶たちが、ラーゼ・イグニース公爵から舞い上がって飛んで行く。
セイルーク王国の宰相であるのを口実に、不自然な早さで王城に駆けつけたラーゼ・イグニース公爵は、通常通りの穏やかな笑顔を顔に張りつけて、隠蔽工作の指示を出している。
笑顔の裏は別として。
恐らくは三十分とかからないうちに、王城の中庭で起こった出来事は、文字通り、なにもなかったことにされるのだろう。
エリュシオンは自分の血と返り血で汚れた服を着替えることもせず、ラーゼ・イグニース公爵に言葉を投げた。
「俺は出かけても構わないか?」
「御自由にどうぞ。あなたはここにいなかったのですから」
ラーゼ・イグニース公爵の筋書きでは、エリュシオンは登場すらさせて貰えないらしい。
「おまえが宰相で助かる」
エリュシオンが短く口にすると、ラーゼ・イグニース公爵は一瞬だけ固まり、エリュシオンに視線を向けた。
「心にもないことを。あなたに頭脳労働を頼るほど、人手には困っておりません。出かけるのでしたら早めにお願い致します。その服でうろつかれては、私の筋書きが狂いますからね」
エリュシオンは首をすくめた。
セリエを人として育てたいと願った時、託する相手をイグニース公爵夫妻しか考えられなかったのは、正解だったかもしれない。
「あとは任せた。数日後には戻る」
エリュシオンはすでに歩きかけている。
思い出したように、ラーゼ・イグニース公爵は問いかけた。
「一応、聞いておきますが、どちらに行かれる予定ですか?」
エリュシオンは足を止めない。
「実はまだ決めていない。簡単に死なれすぎて、怒りがおさまらない」
ぱちり、と。
音を立てそうな長い睫毛に縁取られた、紫の瞳が姿を現す。
セリエの小さな体には大きすぎる、見慣れたベッドに転がりながら、長い銀糸の髪が乱れることも気にせずに、だらだらと、セリエはふて腐れていた。
イグニース公爵邸にある自分の部屋で意識を取り戻してから、すでに三日間、セリエは屋敷から出して貰えなかった。
後悔とは、済んでしまってから気がつくもので。
エリュシオンに助けて貰ったお礼を言っていないと、セリエが気がついた時には、エリュシオンは行方不明になっていた。
数日後には戻るとか言っていたそうだが、エリュシオンの数日はあてにならない。エリュシオンの自由すぎるマイペースな行動を、セリエは良く知っている。
エリュシオンだもの。
その一言で納得できる自分に、セリエは少し遠い目になった。
セリエが屋敷に閉じ込められている間にも、世の中は動いているらしい。
気がついたら、幼馴染みの第一王子アルベルトとの婚約が決定しておりました。
大人の事情って恐ろしい。
実感がなさすぎて、セリエにはなんの感情も起こらない。
そんなことより。
セリエは勢い良く、ベッドの上で上半身を起こした。拳を軽く握りしめる。
誰かに言いたいけれど、口にしたら、そんなにショックが強かったのねと涙ぐまれそうな気がして言えない事情。
公爵令嬢セリエ・イグニース。
七歳。
殺されかけて、前世の記憶っぽいものを思い出しました。
前世を思い出しました。と、いまいち言い切れないのには、セリエなりの理由がある。
セリエは頬に両手を当てた。顔に熱が集まるのが自分でも分かる。
どうしようもなく恥ずかしい!
じたばた悶えて転がりまわりたいっ!
ああ、だって。
思い出した記憶のほとんどが。
普通の生活をしていたのに、なぜか魔法の力に目覚めた女の子と、素敵な男性との愛の物語だったりとか。
仕事帰りに道を歩いていたら異世界に召喚されて、大人の女性なのに少女と間違われ、訳分からないまま、素敵な男性との愛の物語だったりとか。
本人も知らなかったけれど、実は異世界にある国のお姫様で、世界の滅亡をかけた戦いに巻き込まれつつ、素敵な男性との愛の物語だったりとか。
そんな、どきどきする物語の詰め合わせ。
前世の言葉を借りるなら、心わくわく胸きゅんきゅんな乙女ゲームとライトノベルの物語ばかり、セリエは思い出していた。
七歳のセリエには、ちょっとばかり刺激が強い。
が。
それでもやっぱり女の子。
素敵な恋愛物語には、美味しいお菓子を口にいっぱい入れたような幸福感がある。
そんなに乙女ゲームとライトノベルが好きだったのね、前世の私!
気持ちが高まりすぎて、数秒間、セリエは息を止めた。
そして、息を長く出す。
あー、うん。
なんだか、殺されかけるくらい、普通に思えてきた。自分が知らないだけで、本当はありふれた、良くあることなのかも知れない。
乙女ゲームやライトノベルと比べたら、殺されかけることの一回や二回、別に大したことないわ。
そんな気が、セリエはしてきた。
セリエの思考が一周まわって、更にずれる。
それにしても、異世界転移とかしちゃうと、言葉も文字も食べ物も違って、生活の習慣も違うし、なんだか凄く大変そうよね。
転移した人に出会ったら、私も助けてあげなくちゃ。
常識の基準が斜め上にずれてしまった七歳の少女の決心は、無駄にタイミングが良すぎた。
ベッドの上の更に上。
天井近くの空間に、ぽつりと、小さな黒い点が現れた。黒い点は渦を巻いて一気に広がり、人が通れるほどの大きさまで成長する。
空中に浮かぶ黒い円の中心から、子供が姿を見せた。
真っ黒な服を着た、真っ黒な髪の子供は、セリエが座っているベッドの上に、頭から崩れるように落ちてくる。
セリエは口を開けて固まった。
ベッドの上に、セリエより二歳くらい年上に見える少年が落ちてきたのだ。
うめき声なのか、呪詛なのか。セリエの前にうつ伏せに倒れ込んだ少年は、ブツブツとなにかをつぶやいている。
少年は、腕の力で上半身を起こした。
艶のある黒い髪がゆれて、少年の顔がセリエの瞳に映る。
誰もが目を止めそうなほどに、美しく整った顔立ちだった。
将来はさぞかしと。
どれほど美しくなるだろうかと。
見る者が、未来を心に思い浮かべそうなほどの、黄金比とも言える完璧な配置で創造された芸術品。
しかし。
セリエを驚かせたのは、そこではなかった。
落ちてきた少年の瞳がとても珍しい色であったから。
数少ない黒目であったから。
うっかり、セリエは感動を声にしてしまった。
「あなた、異世界転移して来たのねっ!」
感謝を込めて。
読んでくださって、ありがとうございます。
もう少し、続けさせて頂きますね。