5話
無言で、エリュシオンが席から立ち上がる。
シグルドは上品に体を屈め、座っているセリエに話しかけた。
「セリエお嬢様、大変申し訳ないのですが、少しのお時間、目を閉じ、耳を塞いでいて頂けませんでしょうか?羽音のうるさい虫が、部屋に入り込んだようです」
セリエの返事を待たず、シグルドは背筋を伸ばし、リリアーナに顔を向ける。
シグルドは営業スマイルを顔に張りつけた。
「馬鹿は死んでも直らないと聞きますが、本当かどうか、あなたで試させて貰いますね」
「待って」
セリエが勢い良く立ち上がる。セリエはエリュシオンとシグルドを順番に見た。
「エリュシオン様もシグルドも落ち着いて。私はリリアーナさんと話がしたいの。話し合わないといけないことがあるのよ」
エリュシオンとシグルドは、お互いに顔を見合わせた。
不本意。と、書いてあるような顔で、エリュシオンは再び椅子に座る。
シグルドはセリエに軽く一礼をして、後ろに下がり、セリエに道を譲った。
セリエはテーブルから離れた。
リリアーナに近づきながら、セリエは慎重に言葉を選ぶ。
「フラグなんて、私はなにも折っていないわ。本当になにもしていないの。この世界が乙女ゲームに似ていることだって、少し前に思い出したばかりだもの」
リリアーナが口を歪め、馬鹿にしたように笑う。
「転生者だとは認めるのね。あなた以外に、誰が私の邪魔をしたというの。悪役令嬢のあなた以外に!」
セリエは意識して、気品を込めた微笑みを顔に浮かべた。
公爵令嬢の呼び名は飾りではないのだと、セリエは自分の姿で表す。
「私は公爵令嬢セリエ・イグニースであって、悪役令嬢セリエ・イグニースではないわ」
リリアーナは腰に手を当てた。胸を張り、セリエに向けている目つきをきつくする。
アルベルトがセリエに婚約破棄を告げた時の、アルベルトの後ろに、すがるように寄り添っていた、儚げな乙女の姿は、もはやどこにも存在しなかった。
「乙女ゲームの悪役令嬢に転生したと気がついて、わざと、私に陰湿な嫌がらせをしてこなかったんでしょう?分かっているのよ。この世界はヒロインである、私の世界なの!返して貰うわッ!」
セリエはにっこりと微笑んだ。
「あなたの口から、私が陰湿な嫌がらせをしていないと、はっきり言ってくれてありがとう」
セリエとリリアーナの間に、人影が割り込む。現れたのは、人形のように、ずっと動かなかったアルベルトだった。
アルベルトはリリアーナをかばうように、セリエの前に立つ。
「セリエ、頼むから。リリアーナを責めないでくれないか。俺が言える立場でないのは分かっているけれど、リリアーナは悪くないんだ。きっと、なにかを勘違いしているだけだから」
「……………え?」
リリアーナの口から、戸惑った声がこぼれる。驚いた顔で、リリアーナはアルベルトの背中を見ている。
アルベルトは真剣な顔だった。
セリエはどう反応して良いのか悩む。悩んで、困って、呆れ果てて、最後に笑った。
「そこまで、リリアーナさんのことが好きなの?」
アルベルトは深く頷いた。
「乙女ゲームがどうとか、会話の意味は良く分からなかったけれど。そんなことは俺にはどうだって良い。リリアーナが俺を救ってくれて、俺の心を癒してくれたことは、ずっと変わらないから」
アルベルトは体を反転させて、全身をリリアーナに向ける。
両手を広げて、優しい微笑みをリリアーナに見せた。
「愛してるよ、リリアーナ」
「……アルベルト…様」
アルベルトの両手が、リリアーナに伸ばされた。両手でそっと、アルベルトはリリアーナの頬にふれる。
そして。
アルベルトの瞳孔が開く。
「だから、一緒に死んでくれるよね」
リリアーナの顔から、一気に血の気が引いた。
アルベルトの両手がリリアーナの細い首をつかみ、力が込められる。
動いたのはセリエだった。
セリエはとっさに靴を片方だけ脱いで、力の限り、アルベルトの後頭部を靴で殴りつける。
「やめなさいッ!」
殴られた衝撃で、アルベルトはリリアーナから両手を離した。
だが、女性であるセリエの力では、アルベルトの体をよろめかせただけで、アルベルトはすぐに体勢を立て直し、セリエに座った目を向ける。
「セリエ、お願いしただろう?リリアーナは悪くないんだ。全部、俺が悪いから。邪魔をせずに俺たちを死なせてくれ」
「冗談じゃないわ!死にたかったら、私の知らないところでして。恋人だろうと、家族だろうと、自分以外を巻き込むものでもないわ」
「本当にな」
重い音がして、アルベルトの体が床に沈む。
いつの間に移動したのか、アルベルトの背後に、エリュシオンが立っていた。エリュシオンは剣を抜かず、アルベルトを素手で殴り倒したらしい。
エリュシオンはセリエに苦笑を見せた。
「おまえは竜なのに、人が良すぎる。危ないことに自分から関わるな。ああいう時は、俺のところに逃げて来い」
「えっと、ごめんなさい?」
セリエはあごを引いて、上目遣いでエリュシオンを見上げた。
エリュシオンから深いため息がもれる。
「………どうして、私を助けたの?」
リリアーナは体の力が抜けたのか、床に座り込んでいた。セリエを見上げて、小さな声で、リリアーナは問いかけた。
セリエは首を傾げた。
「どうして、って。どうしてかしらね。良く分からないわ。目の前で誰かが死ぬのを見たくない。それだけなのよ」
リリアーナはうつむいた。
「もう、なによこれ。悪役令嬢がヒロインの命を救うなんて、乙女ゲームのどのシナリオにもなかったわ」
「そのことで、言っておきたいことがあるの」
セリエは申し訳なさそうに、声のトーンを落とす。
「リリアーナさん、落ち着いて良く考えてみて。乙女ゲームに転生者なんて出てこないでしょう?」
「それがどうかしたの」
「私たちは、乙女ゲームの世界に転生なんかしていないと思うの」
リリアーナは顔を上げた。
「なにを言っているの。私は乙女ゲームをプレイしたことも、乙女ゲームの内容も、ちゃんと正確に覚えているわ」
セリエは言葉に困りながらも、口を開く。
「凄く言いにくいんだけど。私たちは、乙女ゲームを題材にしたライトノベルの世界に転生したんじゃないかしら」
「そんなこと!」
「人気がある乙女ゲームだったなら、ノベル化していたり、二次小説があってもおかしくないでしょう?」
「そんなはずはないわ。だって、私はヒロインなのよっ!」
「そうよ。あなたはヒロイン。でも、主役ではないの。乙女ゲームの悪役令嬢に転生したけど頑張って生きるライトノベルは、あなたも知っているのではなくて?フラグを折ったり、自分磨きをしたりとかね」
リリアーナは無意識につばを飲み込んだ。
「悪役令嬢が、この世界の主役だと言うの?」
「いいえ、そんなことは言わないわ。私に分かるのは、数あるライトノベルの中でも、悪役令嬢に甘いライトノベルの世界に転生したということだけ」
セリエは過去を振り返る。
殺されかけたりもしたけれど、生まれてきたことを後悔したことはなかった。
愛してくれる親がいて、暮らしていけるお金があって、自分を心配してくれる相手がいる。
贅沢なほどに、自分は幸せだ。
「私はフラグを折ったりしなかった。古の竜の末裔だったから、普通に生きるのに精一杯だったせいもあるけれど。私がしたことといえば、私の大切な存在が幸せであれば良いと、いつも心から願っていたくらいよ」
大広間の外がにぎやかくなってきた。
護衛の騎士の声だろうか。誰かを引き止めようとする複数の声が聞こえた後、大広間の扉がノックされる。
取り次ぎを求めるメイドの声が、大広間の外から響いた。
「国王陛下、ラーゼ・イグニース公爵様ならびにシャロン・イグニース公爵夫人様が面会を希望なされておられます」
エリュシオンは迷わなかった。
許可の言葉をエリュシオンが放った数秒後には、大広間の両開きの扉が、少しずつ開いていく。
ラーゼ・イグニース公爵とシャロン・イグニース公爵夫人は、エリュシオンに頭を下げて優雅に挨拶をすると、大広間の中を一瞥した。
シャロン・イグニース公爵夫人がリリアーナに目を止めて、乾いた笑いをこぼす。
「お久しぶりね、リリアーナさん。ローランベリー男爵家と顔合わせをした時以来かしら」
リリアーナは目を見開く。
「まさか、あなたは、私に親切にしてくださった貴族の方」
「正解よ。リリアーナさんをローランベリー男爵家に紹介して、王立学園への転入を手配させたのも私ですわ」
ラーゼ・イグニース公爵が、平然と言葉を添える。
「自分はアルベルト殿下と結ばれる運命なのだと、堂々と公言している、頭のおかしい聖なる乙女がいる。そういう情報が、私に伝わりましてね。ささやかな手助けをできればと思ったのですよ」
「ええ、そうね。慈善事業ですわ。アルベルト殿下とセリエの婚約に、波風がたったのは偶然ですことよ」
「あなたたちも、私を殺そうとするの?」
リリアーナが絶望に近い目を向ける。疲れきった顔だ。
答えたのは、シャロン・イグニース公爵夫人だった。扇を取り出して片手で綺麗に広げ、扇で口元を隠す。
「あら、私はリリアーナさんに感謝していましてよ。アルベルト殿下と上手に踊ってくださいましたもの。可愛い娘と、可愛い娘を殺そうとした男の息子が婚約をしているなんて。平気な母親がいるとしたら、ぜひ、会ってみたいものですわ」
ラーゼ・イグニース公爵は、穏やかな笑みを浮かべている。
「リリアーナさんは聖なる乙女ですからね。自主的に、教会にでも入られたらいかがでしょうか。清掃などの奉仕から生け贄まで、仕事は幅広いですよ」
言葉を切り、ラーゼ・イグニース公爵は視線を床に落とした。
ラーゼ・イグニース公爵は、倒れているアルベルトを見つめ、初めて気がついたような顔をする。
「公爵令嬢との婚約を破棄してまで結ばれたかった愛しいリリアーナさんを失い、アルベルト殿下は自ら命を断たれた」
棒読みの言葉を口にして、ラーゼ・イグニース公爵はエリュシオンに笑いかけた。
「なんて筋書きも用意致しましたが、いかがでしょうか?事故ばかり続くのもどうかと思いましてね。とりあえずは、離宮に軟禁が無難でしょうが」
エリュシオンは顔の向きを変えず、目線だけを傾けて、ラーゼ・イグニース公爵を見た。
煮ても焼いても食えない男だと思いながら。
「筋書きが現実となるかどうかは、今後のリリアーナとアルベルト次第。と、いう訳か」
ラーゼ・イグニース公爵はエリュシオンの言葉になにも答えず、ただ、深く頭を下げただけだった。
「ところで、セリエに話があるの」
シャロン・イグニース公爵夫人は、ゆっくりと体の向きを変えた。
「お母様、なんでしょうか?」
セリエは条件反射的に姿勢を正す。
シャロン・イグニース公爵夫人は、大輪の花が咲いたような華やかな笑顔を、セリエに見せる。
「私ね。娘の新しい婚約者には、一途で、それでいて、ちょっぴり単純な相手が良いかなって思うのよ。手のひらで転がせそうですし」
エリュシオンの肩がぴくりと動いた。
聞き捨てならないと、ラーゼ・イグニース公爵が会話に混ざる。
「おや、妻と意見が別れるのは、結婚以来、初めてのことだね。私は虎視眈々(こしたんたん)と、チャンスをうかがっているような相手を薦めるよ。策謀をつまみに、うまい酒が一緒に飲めそうじゃないか」
シグルドの口元がにやりと笑う。
「セリエはどうなの?」
シャロン・イグニース公爵夫人の言葉に、全員の視線がセリエに集まった。
「私?」
セリエは、本日最大の危機を迎えた。
緊張した視線と面白がっている視線に囲まれて、セリエは左右をうろたえて見渡すが、助けは現れそうにない。
セーブもロードもできない環境で、セリエが選んだのは、敵前逃亡だった。
「婚約者はお断りです!今はまだ、そっとしておいてください」
「どのくらい待てば良い?」
待てができないエリュシオンが問いかける。
「おまえは永遠に待っていろ」
シグルドが、冷たい声で言い放つ。
シャロン・イグニース公爵夫人は、楽しそうに笑っていた。
「そうね、慌てて決める必要はないわ。セリエは自由ですもの。セリエが選んだ相手なら、どんな相手でも大歓迎よ」
無言で頷くラーゼ・イグニース公爵の姿もある。
心の底から、セリエは思う。
悪役令嬢に転生したけど、こんなに幸せで良いのかしら?
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
ブックマークしてくださった方、評価をしてくださった方、心から感謝をしております。
婚約破棄の話はここで区切りとなりますが、番外編とか、もしかしたら書くかもしれません。
なろうを初めて一ヶ月なので、読みにくいところがたくさんあったと思いますが、少しずつ良くなるように頑張りますので、また、読んで頂けると嬉しいです。