3話
蝶が飛んでいた。
白地に黒い模様が入った、どこにでもいそうな小さな蝶は、イグニース公爵邸の庭を不規則に飛びながら、文字通り、建物の壁を通り抜ける。
なにも、なかったかのように。
蝶はイグニース公爵邸の屋敷内を飛び続け、書斎にたどり着く。
書斎の中には、派手な豪華さはないものの、素人目にも高級品だろうと思わせる、落ち着いた色調の家具が揃えられていた。
机に向かって書き物をしていた男性が手を止めて、蝶に手を差し出す。吸い寄せられるように、蝶は男性の手に止まる。
途端に、蝶の姿は一枚の紙に変化した。
「セリエのことかしら」
近くの椅子に座っていた上品そうな女性が、待ちきれない様子で男性に話しかける。
男性は、紙に書かれていた文字を目で追った。
「アルベルト殿下が、私たちの大事な娘に婚約破棄を告げたそうだよ」
男性はセイルーク王国の宰相として名を知られる、ラーゼ・イグニース公爵。女性は上流階級の華として、社交界で有名なシャロン・イグニース公爵夫人である。
なかなか子供を授からなかったイグニース公爵夫妻の、セリエに対する溺愛ぶりは過剰だといっても良いだろう。
シャロン・イグニース公爵夫人は、片手を口元に当てて、声を立てずに笑う。
「婚約者がいるのに他の女性と親しくなっておいて、婚約破棄とか、良く言えましたねって感じですが。これでようやく、セリエは自由になれるわ」
ラーゼ・イグニース公爵は、目元に微かなしわが見える優しそうな顔に、穏やかな笑みを浮かべた。
「そうだね。私とて、セリエをアルベルト殿下の花嫁にする気なんてなかったけれど。一方的に婚約破棄をされるのは、ちょっと違う気がしないかい?」
思い出したように、ラーゼ・イグニース公爵は言葉を付け足す。
「準備はしておこうか。アルベルト殿下にも、不幸な事故が必要かも知れないからね」
人当たりの良さそうな、一見、優しいだけの男性に見えるラーゼ・イグニース公爵の脳内では、第一王子アルベルトの死亡事故に不自然ではない場所を選んでいる。
それが分かっていて、シャロン・イグニース公爵夫人は笑みを深めた。
「イグニース公爵家の権力と財力を最大限に利用しましょう。二度目ですもの、段取りには困らないわ」
ラーゼ・イグニース公爵も、シャロン・イグニース公爵夫人に釣られて微笑む。
「シャロン、君は本当に素晴らしいよ。では、情報の操作は私が引き受けよう。慣れているからね」
同じ頃。
王城の大広間では、エリュシオンの視線に負けそうになりながらも、アルベルトが声を絞り出した。
「国王陛下がそのような呪いを受けているとは、俺は考えもしませんでした。両親になにがあったのかも、俺は知りません」
「当然だ。知られないようにしていたからな」
答えたのは、エリュシオン。
「ですが、そのことと、セリエの罪とは関係がないはずです。セリエがリリアーナに陰湿な嫌がらせをしたことは、決して許されるものではありません!」
「セリエの罪?」
呆れた様子で、エリュシオンはアルベルトに言葉を投げる。
「それがおかしいのだ。なぜ、セリエが、リリアーナとやらに、陰湿な嫌がらせなどをしなくてはならないのだ?」
アルベルトは間の抜けた顔をした。
改まって理由を聞かれるとは思っていなかったせいか、視線をさまよわせ、どことなく、口調もぎこちないものに変わる。
「なぜ、と言われましても。俺を奪われたくないセリエが、リリアーナを俺から遠ざけようとしたのでしょう」
エリュシオンは瞳を細めた。
かわいそうなものを見るかのように。
「愛してもいない相手に恋人ができたからといって、遠ざけようとはしないものだ。陰湿な嫌がらせも、もちろんしないだろう」
アルベルトはエリュシオンの言葉が理解できない。無意識に、アルベルトは反論する声を強めた。
「俺とセリエは婚約者同士です。セリエは俺を愛しているはずです!」
「おまえはセリエを愛しているのか?婚約者同士なのだろう?」
アルベルトは言葉に詰まった。
言い返さないアルベルトに、エリュシオンは肩でため息をつく。
「セイルーク王国の第一王子というだけで、愛されるとでも思ったか?」
「そんなつもりは……」
「形式だけとはいえ、婚約者を名乗るのだったら、おまえはセリエにもっと興味を持ち、人としての敬意を向けるべきだったのだ」
「形式……だけ?」
エリュシオンの言葉が、アルベルトの耳に残る。
「そういうことだ。おまえとセリエとの婚約は、あくまでも形式だけのものにすぎない」
アルベルトは食い下がった。
「それなら、リリアーナに嫌がらせをしていたのは誰なのですか!」
「………愚かだ。こんなに愚かな者を、形式だけとはいえ、セリエの婚約者にしていたとは」
エリュシオンは言葉を切った。
不愉快という感情を隠すことなく顔に出し、口調を荒らげる。
「形式だけでなければ、誰がおまえなどと。俺が、おまえとセリエの婚約を認めたりなどするものか!」
「国王陛下、本音がもれておりますよ」
エリュシオンの後方から、冷静な声がさらりと響く。
影のように、存在を消していたイグニース公爵家の執事、シグルドの声だ。
エリュシオンが瞬時に顔の向きを変え、シグルドを睨みつけても、シグルドの表情はなにひとつ変わらない。
シグルドはセリエの側に形良く立ったまま、綺麗な顔に涼しい笑みを浮かべている。
セリエの声を聞くまでは。
「シグルド」
振り返ったセリエに名を呼ばれただけで、シグルドの顔から涼しい笑みが消える。
シグルドは眉をわずかに寄せて、心配そうな顔をセリエに見せた。
「セリエお嬢様、お疲れではございませんか?後は国王陛下にお任せして、私たちは屋敷に帰りましょう」
礼儀正しく、シグルドは丸投げを提案する。
セリエは笑いそうになった。少しだけ、笑ったかもしれない。
「ありがとう。でも、大丈夫よ。婚約破棄のついでに、打ち明け話をするのも悪くないかもしれないわ」
気持ちを切り替えて、セリエは体の向きを直し、アルベルトを向かい合った。
「アルベルト、私たちの婚約が形式だけなのには理由があるの」
できることなら、ずっと、内緒にしておきたかった理由だけど。
ここまで舞台が揃ってしまったら、セリエの気持ちに関係なく、後に引くことはできなかった。セリエを見つめるアルベルトの、問いかける視線が痛い。
「私ね、十年近く前の幼い頃、あなたのお父様に殺されかけたのよ」
内容に反して、セリエの声は落ち着いていた。
アルベルトが大きく息を吸う。セリエを凝視しながら、信じられないと言わんばかりに、か細い声を紡ぎ出す。
「そんなこと、………あるはずがない」
「あったのだ」
聞こえたのは、怒りを抑えたエリュシオンの声。
「呪いを受けてからも、俺はセイルーク王国が助けを求めた時には力を貸してきた。わずかだが、俺にもセイルーク王家の血が混ざっているからな」
エリュシオンの顔に苦笑が浮かぶ。
「十年近く前のあの日、ラーゼの情報網が俺を探し出した。セリエが王城に連れていかれたが、迎えの様子がおかしかったと」
セリエは少し、視線を下に落とした。アルベルトのまっすぐな視線を避ける。
エリュシオンが放つ言葉が、大広間に重く響いた。
「俺が王城で見たものを語ろうか。おまえの父親は、幼いセリエの胸に剣を向けていた。後少しでも俺が遅ければ、セリエはその時に殺されていただろう」
「あり得ない!」
アルベルトが叫ぶ。
「本当なのよ、アルベルト。あなたのお父様は、私の血が欲しかったの」
セリエの声に、アルベルトが反応する。一瞬だけ動きを止めてから、アルベルトはセリエに顔を向ける。
「血?セリエの?」
ゆっくりと、セリエは頷いた。
「私は、古の竜の末裔なの」
アルベルトは目を見開き、呆然と立ち尽くす。
「セリエ、なにを言っているんだ」
「幼体が人間の姿だったから、イグニース公爵家の娘として育てられたけれど、私は人ではないの」
「セリエ!悪ふざけをするなっ!そんな嘘をついてまで、リリアーナを陥れたいのか」
「アルベルト、あなたのお父様は私に言ったわ。私を殺し、私の血を浴びれば、永遠の命が手に入ると」
「だから、俺がおまえの父親を殺した」
アルベルトに告げるエリュシオンの声に、後悔の色は欠片もない。
「その直後、騒ぎを聞きつけた王妃が駆けつけて、ことの次第を知った。おまえの母親は、俺の前で迷わず頭を下げたよ」
エリュシオンは、記憶にわずかに残るアルベルトの母親を思い出す。アルベルトの母親は、覚悟を決めた顔だった。
「自分の命も差し出すので、まだ幼いアルベルトの命は助けて欲しいと、王妃は俺に懇願してきた」
幼い息子を護るための、王妃の駆け引き。
「アルベルトとセリエに形式だけの婚約をさせて、アルベルトがセリエに敬意を払っている間だけは、アルベルトを殺さないで欲しいと言ってな」
王妃とて、アルベルトとセリエが本当に結ばれるとは思っていなかっただろう。
時間が、セリエの心の傷を癒すまで。
セリエがアルベルトに、死なれたら悲しい程度の憐れみを持ってくれるまで。
エリュシオンに、アルベルトを殺さないで欲しいと、同情でも良いからセリエが頼んでくれるまで。
アルベルトがエリュシオンに殺されない方法を、王妃は考えたにすぎない。
「アルベルト、おまえとセリエの婚約はなかったこととしよう。その代わり、おまえに残された道はないと思え」
エリュシオンの言葉が、その場に沈み込んだアルベルトを突き放す。
「理解したか?」
エリュシオンが話しかけたのは、アルベルトではなかった。
「聞いての通りだ。セリエがおまえに、陰湿な嫌がらせをする必要などはどこにもない」
一歩、前に出て、距離を詰める。エリュシオンはリリアーナまでの間合いをはかる。
エリュシオンの手が、ためらうことなく剣へと伸ばされた。