5
――ふと、時計の長針が大きく響いたような気がして、暁彦が視線を上げる。
映像研究部の小さな部室にかけられた壁掛け時計が、20時を指し示していた。
今日の講義が一通り終わってから、かれこれ三時間近くは部室に入り浸っていたことに気づくと、暁彦は急激に空腹感を覚え始めた。
映像研究部の部室には、今現在、暁彦しかいない。
室内にあるのは、薄汚れたソファと、年期の入った四角いテーブル。
それほど大きくない薄型のテレビと、それに並んで鎮座する絶滅危惧種のブラウン管テレビ。
この二つのテレビが並ぶキャビネットには、ブルーレイプレイヤーと一緒にVHSデッキが置かれており、コードがやや混沌としている。
棚には、DVDやブルーレイと一緒にビデオテープがぎっしりと並んでおり、出入り口のドア以外の壁面はそのような棚で埋め尽くされている。
一見すると映像作品が並んでいるように見て取れるが、時折、ゲームソフトやよくわからない雑誌、漫画が紛れていたりする。
暁彦は今日、この埃っぽい部室で、自分の買ったジャンプと共に、部室に定期的に補充される週刊誌を読み漁っていた。
普段から暁彦は、大学で何となく暇をもてあましたり、週刊誌の更新があるときには、大抵この部室に来る。
自分が買った雑誌も、ある程度経ったらこの部室に寄付したりしている。
わざわざそうして雑誌を寄付しているのは、一応は暁彦がこの映像研究部において部員――きわめて幽霊に近い存在――であり、部室に自分が出入りする権利を得るための行為であった。
暁彦が座ったまま帰り支度を整え始めると、部室のドアが開かれる。
「おや、阿形君だ」
そう言って部室に入ってきたのは、この映像研究部の数少ないアクティブな部員であり、暁彦より二学年先輩の香月郁枝であった。
カウチンニットコートとジーンズのワイドパンツに身を包み、明るい茶色のショートボブが印象的な郁枝は、どこか自信満々というべきか、堂々とした振る舞いを常にしている。
加えて誰に対してもフランクに、適切な距離感で接するコミュニケーション強者であり、暁彦は部室に入ってきたのがこの郁枝で助かったと内心思っていた。というのも、彼女であれば帰り際であっても何となく気まずい思いをしなくて済むからだ。
「ジャンプ寄付、ごくろうさん」
そう言って郁枝は、テーブルの上に置かれたテレビのリモコンを取り、暁彦の隣に遠慮無く座る。
ソファは部室の規模の割には大きいため、暁彦と郁枝が座っても、まだ一人分はぎりぎり入るぐらいの余裕が存在していた。
プレイヤーには既にお目当ての作品が入っているのか、郁枝は新たにビデオを取ること無く、リモコンでの操作を続ける。
――その郁枝が見つめるテレビには、クロカゲが鎮座している。
「今から見るんすか?」
暁彦がそう問うと、郁枝がテレビを見ながら頷く。
「まぁね。今見てる奴の先が気になっちゃってて、帰るにもなーって。あれ――これ、頭に戻っちゃってるわ……」
「家に持って帰って見ればいいじゃないですか」
「家は風情がないのよ。ここで電気消して見るのがいいわけ」
「はぁ、そういうもんですか」
「そういうもんだよ」
郁枝が、鞄から鑑賞のお供用に買ったのであろうコーラとお菓子を取り出して机に広げる。
「阿形君も一緒に見る?」
「いや、俺はいいです」
郁枝が見たがる映画は、大抵が凄まじいスプラッター映画か、一般的にはウケない癖のある映画ばかりだ。
「女子と二人、密室で映画」などと言うと、シチュエーションとしては良いものなのかもしれない。が、この郁枝に限っては、視聴中のテンションの奇妙な上がり方も含めて、相当な上級者でない限りは一緒に映画を見ようとは思わないタイプの人間であった。
暁彦も、そんな郁恵の性質を知らずに、興味本位で一緒に映画を見て強烈なものにぶち当たり胃液が逆流しそうな目にあったことがあり、郁枝は郁恵で熱が入って、暁彦の状態も知らず映画の感想を求め続けてくるので逃げられずに苦しまされた経験がある。
映画鑑賞以外では気さくで接しやすい人だが、こと映画に関わるタイミングでは、妙な熱意が発揮し少し離れた方が良いタイプであると暁彦は郁枝を認識している。
「じゃあ、俺帰るんで。腹も減ったし」
「はいよ。気をつけて帰りなね。変質者最近多いらしいし、物騒な事件もあったから、何かあっても逃げるんだよ」
「それは俺の台詞ですよ。いくちゃん先輩もあんま遅くならないようにした方がいいんじゃないっすか」
「あたしの家、大学のすぐ裏だからじょーぶじょーぶよだいじょーぶ」
それにあたし空手やってたし、と左腕で郁枝が力こぶを作るようなポーズをとる。だが、服のせいで暁彦には実際に力こぶができているのかどうかわからない。
「いやそれにしても、阿形君の顔久々に見たなぁ」
「そんな久々でしたっけ?」
「そうだよ。君はもっとうちに顔出して良いんだからね。ジャンプ担当は君なんだし」
「そっちが本音っすか」
「なはは、違うって。真面目な話、うちの部は基本的にフリーダムで、最近は二ノ宮ちゃんとかエーシ君しか真面目に映研らしい活動していないから、もう少し人数がいるアピールしておかないと目を付けられちゃうんだよ」
「アピールって言ったって、そもそもこの部室入って5人が限度でしょう。狭いし」
「部室が空なのが多いのが困るのよ。大抵あたしが今日みたいに占有するときだし。だからまぁ、頻繁にここに寄ってほしいわけだ。部室が使われてるってイメージが大事。その方が活発に見えるのよ」
「そんなもんなんですかね」
「そんなもんだよ」
暁彦はそこで再び空腹感を覚え、腹の音が出そうだったので立ち上がって部室を後にしようとする。
「じゃあお先です」
「はい、お疲れー」
暁彦が部室のドアノブに触れ、回し、開く。
「阿形君」
そこで、郁枝が暁彦を呼び止める。
暁彦が振り返ると、郁枝が人の良さそうな笑顔を浮かべていた。
「元気そうでよかったよ。今度また映画みようね」
「グロくないやつで頼みます」
「善処するよ」
その回答に暁彦は苦笑しながら部室を後にした。
部室棟の他の部屋ではまばらに明かりがついている。
どこからかギターらしき音だったり、笑い声が聞こえてくる。
いつもの、よく知る部室棟だ。
暁彦は薄暗い廊下を歩き、階段を降り、誰ともすれ違うことなく部室棟を後にする。
寒空の下、吐く息が白い。
見上げた空の星は、少ない。
「クロカゲ」
暁彦はそう声に出した。
「なんだ?」
「今日一日、普通だったな」
「そうだな。今の今までは」
なんとも言葉にできない感覚が、暁彦の中に存在していた。
大学に来ても、誰も何も全ては今までのまま。
変わったのは、自分だけ。
それに対し少しは寂しさや怖さ、そういった何かを感じるかと思っていた。
実際は違った。
暁彦が思う以上に、そういった恐怖や焦燥は無かった。
むしろ、「こんなものか」と――――受け入れてしまう自分がいた。
そして、その受容こそが、彼を逆にもどかしくさせた。
「……なんで俺、モヤモヤしてるんだろう」
誰に言ったつもりでもない問いが、暁彦から放たれる。
「俺の考えを言おうか」
しかし今の暁彦には、その空に放った言葉を拾いうる存在がいる。
「考え?」
クロカゲの言葉は暁彦の興味を引いた。
「暁彦のモヤモヤの理由だよ。俺が思うに暁彦は――――期待、していたんだろうな」
「……期待。何に?」
「何かに、だよ。『何かが起こるかも』という期待が、暁彦の中にあった。それが今まで何もなかった。だから期待が外れてモヤモヤしている。俺にはそういう風に見えるぜ」
「まぁ、事態が好転するかもっていう漠然とした物はあったかもだけど……そんなに期待していた自覚はないなぁ」
「暁彦は、自分で思う以上に、自分のことを知らないんだよ」
「ううむ」
そう唸ってから暁彦は家路に就く。
* * *
……クロカゲは今日一日、静かであった。
基本的にはただそこに在るだけで、自分から話すようなことはほとんど無く、邪魔になるようなこともなかった。
暁彦の意思に反して、先日の商店街でやったような大きな行動をすることも無く、いてもいなくても同じという状態であった。
それが暁彦にとっては都合がよく、そして、想定外であった。
暁彦はクロカゲの可能性に気づき、一度は抜き身の刃かそれ以上の危うい存在であると感じたりもした。
だが、今日一日大学を平穏に過ごしたことで、「考えすぎだったのかもしれない」と思うようになっていた。
クロカゲは異常だ。
しかしその異常は、共生できる異常なのだ。
その考えに、今日を経て至ることができた。
「お前の言うとおりだったかもしれない」
「なんのことだ?」
「慌てるような時間じゃないってことだ。今日一日で、それがようやくわかったよ。思ったよりなんとかなりそうだってな」
「そうか」
暁彦はそうして、今日も少し得るものがあったと実感をしつつ――
違和感。
家路に就き、思考して、会話して、無意識に歩いて――慣れきった道だからこそ、気づけなかった。
静かすぎる。
そして、暗すぎる。
暁彦が今いる場所は、キャンパスを出て少し歩いた、ちょうど家と大学の中間地点であり、アパートや一軒家が並ぶ閑静な住宅街の真ん中である。
21時前であればもっと家に明かりが灯っていて人の気配がするはずだが、どういう訳だがどこも家の灯りがついておらず、果ては街灯も消えている。
視界が悪くとも、普段の歩き慣れた道であることが暁彦にはわかる。
ただそれは、見た目だけの話であった。
今この場に纏わり付く異常な静寂は、明らかに暁彦の知らないものであった。
まるで、見た目だけ同じで、全く別の場所に入ってしまったかのような――
「停電か?」
嫌な感じがする。漠然と、ざらついた感覚。
暁彦は少し恐ろしくなり、来た道を引き返して人気のありそうな商店街を経由し、遠回りで家に向かおうとする。
が。
――振り返ってすぐ視界に人影が入る。
暁彦は心臓が跳ねるほど驚いて、思わず声が出そうになった。
人影は、暁彦の前方15メートルほどの距離の闇の中に立っており、歩くことなくその場で止まっている。
黒いつば付きのキャップ帽を目深に被り、マスクをつけて、ファーのついた黒いダウンジャケットを着ているその人物は、背格好からして暁彦と大して変わらない身長であり、その表情を覗い知ることはできない。
目が闇に慣れていなければ気づかない程度には黒い格好で、両の手はジャケットのポケットに収まっていることが辛うじて視認できた。
どくん、どくん。
暁彦は自分の心臓の音を聞く。
嫌な汗が背を伝うのがわかる。
何か、やばい。
目の前の人物は、何か、危険だ。
さっきまで背後にいたことを全く気づかなかったのと、この異常な周囲の状況。
よくないことが起きている直感。
「暁彦、気をつけろ」
クロカゲが囁く。
それはどういう意味だ。そう暁彦が問おうとした。
瞬間。
件の人影の裏側から、何か――より黒い何かがぬっと音もなく現れた。
それが薄闇を塗り潰すほどの漆黒であり。
そして。
2メートルはある巨大な、四つ足の獣のような形をしていた。
ただしそれは、あまりにも無機質で――球の頭部と、円柱状の胴体、円錐状の四肢という、出来の悪いコンピューターグラフィックスのような、生物的なシルエットをしながら非生物を思わせるよう姿であった。
「――っ」
暁彦の口から引きつった声が漏れる。
直後、黒い獣の頭部に当たる球が、突然割れて、急激に花のような形に変わり、先ほどまでなかった生物的な曲線を一気に孕む。
「――やっぱ、見えてるね」
それが目の前の人物が発した声であると暁彦が気づいた刹那――
黒。
そして、黒――
――暁彦の顔に、猛烈な勢いで何かが迫ったことによる風圧のようなものがあたり、そのまま暁彦は尻餅をつくようにして倒れ込んだ。
そして、遅れて状況を察した。
前方の、花のような頭部から、鋭利な黒い線が弾丸、あるいは槍のようにして暁彦の頭部に一瞬で伸びたのだ。
そしてそれを、黒い手のようなものが掴み抑えていた。
暁彦はその黒線の迫った勢いで倒れこんだのだ。
黒線を抑える黒い手は――暁彦の右肩にいたクロカゲが形態を変化させたものだ。
「あれ。おかしいな」
その発せられた声色から、目の前の黒キャップの人物が男性であることに暁彦は気づく。
いや、順番がおかしい。そうじゃない。
花頭の黒獣が、再び頭部から線を二、三と暁彦に伸ばす。
それを、クロカゲが手を増やし、全て掴んで受け止める。
何が起きている。
何が――
「――暁彦」
クロカゲの声が混乱する暁彦をはっとさせる。
「守るぞ、いいな」
そうだ――
暁彦は気づいた。
一番に理解しなければならないことを、ようやく把握した。
自分は、今、死にかけた。
命を狙われている。
恐らく自分と同じ存在に――
もう来たのだ。来てしまった。
本当の、異常が。
「クロカゲ俺を――」
「守るさ。俺は暁彦の味方だ」
そうクロカゲ応えた瞬間、クロカゲの全ての手が、掴んでいた線を無理矢理折り曲げる。
腰が抜けてまた立てない暁彦を尻目に、クロカゲが右肩からふわりと浮き、頭部を複数の腕として形態変化させたまま、小さい身体の方を膨張させる。
そして、音も無く形を変え、次の瞬間には――
長い尾を持つ、黒い、大きな人型に変化していた。
黒線を握っていた手は背中の方に移っている。
まるで阿修羅だ。
暁彦は、その変形の瞬間を見なければ、目の前の黒い存在がクロカゲであることを信じられなかった。
それほどに今のクロカゲの姿は、普段の蜥蜴のような姿とはかけ離れて力強く、雄々しい。
体長も2メートルに迫るほどであり、そのシルエットは非常に逞しく、暁彦はどこか洋画に出てくる筋肉質なアクションスターの姿を重ねてしまっていた。
「なんだ。君、童貞じゃなかったのか」
黒キャップの男がわざとらしく右手で頭を押さえてみせると、花頭から伸びていた線が突然霧散し、その頭部が元の球形に変化する。
「どれぐらい殺してるのか知らんけど、騙されたなぁ。しかも結構どんぱち向けっぽいし。手間かかりそうだなぁ。でも食いがいはありそうだ」
「あんた、一体なんなんだ!」
男の言葉を遮り、様々な謎と共に暁彦が問う。
クロカゲと黒い獣は、互いに突っ立ったままである。
「いやそれはこっちの台詞だよ。君、素人なのそうじゃないのどっちなの」
わけがわからない。男の言葉は返答になっていないことはわかる。
さきほど死にかけた事実に、身体が未だ震えている。
それでも暁彦は、なんとか立ち上がって男を睨み、再び問う。
「教えてくれ。あんた、何で俺を殺そうとした。あんた一体何なんだ。それは、一体何なんだ。俺のこいつと、あんたのそれは同じなのか。答えてくれ!」
抑圧されていたものが叫びとなって出る。
しかし男は、それに答えることなく間を置いて――
「うるせぇなぁ」
男の近くにいた獣が、音も無く滑るように暁彦に接近し――
異音。
それは、暁彦がこれまでの人生で聞いたことのない、高くもあり低くもあるような、激突音であることは直感的にわかる、とにかく形容しがたい音であった。
暁彦はいつの間にかクロカゲに抱えられており、男と更に距離を取る形になっていた。
あまりにもことが速すぎて、暁彦には何が何だかわからなかったが、第三者が見れば、黒い獣が音も無く接近し暁彦に対して何かを振りかざし、それをクロカゲが尾で防ぎ――その際に異常な音が発生し――クロカゲが暁彦を抱えて、男と距離を取ったことがわかったかもしれない。
「大丈夫か暁彦」
「っ、な、何が起きたんだよ今」
「攻撃されたのを防いだ。あいつは暁彦を殺そうとしている」
「何故!」
「わからん。一つ言えるのは、俺はあれと戦えるということだけだな」
「戦うって、お前」
――マジシャンズレッド。
異常になった俺に対し、異常が現れた。
それは漫画でよくある――因果だ。
そう、まるで――
思い出した言葉を暁彦は飲み込む。
「――逃げよう」
「質問はいいのか」
「殺されそうなんだぞ! 逃げるに決まってるだろ!」
「暁彦が望むなら、俺が殺し返すぞ」
「おまっ――」
「いや、君が死ねよ」
声が上空から響く。
いつの間にか、先ほどまで前方にいた男が中空にいた。
否、跳躍した黒い獣の尾に身体を固定され、上空に共に飛んだのだ。
暁彦は自分の身体がぐんと引っ張られる感覚を覚え、そして直後にまたあの異音を聞く。
自分がまたクロカゲに抱えられて移動したことだけはわかり、そして――
先ほどまで自分がいた位置に、男と黒い獣が立っており。
その周りが、道路から街頭、電線まで八つ裂きにされていた。
切れた電線から、ばちりと火花が散る。
あの黒線がそれを為したことを察し、暁彦は、自分がその黒線に触れたら同じように骨ごとすっぱり斬られてしまうことを想像してしまい震えた。
「ああもう何なんだよ、演技なのか? 面倒くせえなぁ。早くくたばれよ、何なんだよお前はぁ」
意味不明なことをぶつぶつと男が言い出して、それに合わせるように黒い獣の頭部がざわざわと蠢き始め、暁彦はさらに寒気を感じる。
加えて、こんなにも派手な事が起きているのに、誰も何も反応せず、辺りは相変わらず静寂に包まれたままなのも暁彦を恐怖させた。
「クロカゲ早く――」
「いや無理だ」
逃げようと言おうとした暁彦を遮りクロカゲが返す。
「恐らく向こうの方が早い。追いつかれる」
「そんな――」
黒い獣が頭部を再び開花させる。
そこから飛び出てきた黒線は、先ほどの比では無いほどに細かく多い。
それらは全て、暁彦を貫かんと伸びてくる。
視界を覆う無数の黒点。
暁彦は、一瞬で「無理だ」と悟った。
こんなもの、防げない――
と、暁彦の視界が別の黒で覆われる。
クロカゲだ。
暁彦の目の前に立ったクロカゲが、その左手を一瞬で無数に枝分かれさせて伸ばし――
連続する異音。
思わず耳を塞ぎ、目を瞑る暁彦。
だが状況を思い出し慌てて目を開けると――
そこには、左手振り抜いたままの姿勢で立つクロカゲがいた。
そしてその前方は、どのようにしてそうなったか、無数の線で切り刻まれており、砂に近いような状態にまでなっていた。
黒い獣から伸びていた凶器の線は、すべて失われており、それどころか、黒い獣の花の頭部がそこには存在していなかった。
まるで、何かに無理やり抉られ引きちぎられたかのように。
一方の男は――
黒い獣を壁にするようにして、その背後に立っていた。
「――お前、覚えたからな」
男から漏れた声は、激しい怒りのようなものを宿している。
と、次の瞬間、黒い獣の尾が男の全身を包み、漆黒の繭のように変化させる。
そして、黒い獣が音も無く跳躍し、尾に繭を宿したまま、一瞬で闇夜に消えた。
……それが余りにも早すぎる状況の変化であったために、暁彦はしばらく立ち尽くしてしまっていた。
やがてどれぐらい時間が経っただろうか。
暁彦はようやく、自分が命を狙われ襲われたことと、それをどうにか退けることができたことに気づき、大きく深く息をついてその場に座り込んだ。
クロカゲは、それに合わせていつもの姿にすっと戻り、暁彦の眼前の地面に座る。
「助かったんだよな」
「恐らくな。気配はなくなった」
「……わけわかんねぇよ、何なんだよ一体」
理解不能な目にあったその恐怖が、安心とともに再びこみ上げてくる。
さっきまで普通だとかいっていたはずの日常が、前触れなく一瞬で崩れた。
本当に――突然の来訪だった。
「俺にもわからん。とりあえず暁彦を守れてよかった」
「ああ、助かったよ……マジで、それだけは……マジで今言える」
ばくばくとまだ跳ねる心臓の音を聴きながら暁彦は思う。
心を落ち着けて、何が起きたのか、もう一度整理しなければいけない。
でないと、これから――
「いやー、派手にやったみたいっすね」
突然その場に、女性の声が響いた。
暁彦は慌てて声が飛んできた方向、自分の左斜め上に視線をあげる。
そこには、2階建ての一軒家が存在し――
「お兄さん、これやった人?」
その屋根の上に声の主はいた。
セーラー服の上にコートを羽織って立つ、亜麻色の紙を二つ結びにした少女が、先ほどまでそこになかったはずの月を背にして暁彦を見下ろしている。
見覚えはない、誰かはわからない。
だが――
今この場に現れたことはつまり、彼女もまた――来訪者であることを、暁彦は直感した。
「とりあえず、お話聞かせてほしいなって」
少女は、この状況に似合わない朗らかな笑顔を暁彦に見せた。