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「――――うおっ、今日はマジで随分早いな」
座席が階段状に並ぶ、大学の講義室。
その一席に座りぼんやりと窓の外を眺めていた阿形暁彦を見つけ、講義室に入ってきたばかりの男が驚きの声をあげる。
講義室内にはまだ暁彦とその男しかいない。つまり、暁彦が一番最初に席についたことは明白であった。
暁彦は、入ってきた男が自分と同学年で友人の花園伸也であることを確認し、挨拶代わりに右手を上げた。
「もう教室にいるって連絡きたときはビビったが……先週サボった反省のつもりか?」
伸也が暁彦の隣に座り、自分の鞄からA4サイズの紙が数枚ホチキス留めされたものを暁彦の前に差し出す。
「今日の昼飯な」
伸也がにやりと笑みを浮かべると、暁彦は申し訳なさそうに苦笑する。
それは、先日暁彦が出席を諦めた講義のレジュメだった。
「悪い、助かった」
「しっかし、どうしたよ。何かあったん?」
「まぁ、ちょっとな」
ちょっとでは済まない。
自分で言ってて、暁彦はそう思っていた。
先ほど伸也から差し出されたレジュメの上には、その原因であるクロカゲが鎮座している。
だが、目の前の伸也はそれに全く気づいていない。
「――見ての通りだよ」
クロカゲはそう言いながら、わざとらしく自分の尾を振ってみせる。
暁彦は、わかっていたことだと言わんばかりに、軽くため息をつく。
そう、見ての通りだ。
暁彦とクロカゲの関係は続いており、そしてそれは、今だ誰にも認識されていない。
ただそれだけである。
* * *
暁彦がクロカゲと邂逅し、週末を挟み、今日に至るまで丸三日が経過していた。
その三日間で暁彦が新たに得られた手がかりは、ほとんどない。
インターネットという情報の海が彼にもたらしたものは、あまりにも粗雑で真偽の判別のつかないものばかりであり、結局のところ、クロカゲという圧倒的な非日常の一点以外は、極めて平凡な日常であった。
居酒屋のバイトも、週末恒例のスーパーでの物資購入も、これといった異変もなく終わり、それどころか、クロカゲと週末レンタルビデオ屋で借りた映画のDVDを一緒に見るぐらいで――強いて彼がそこから得たものと言えば、クロカゲとの距離感。その付き合い方。そして、クロカゲという存在の独立性であった。
クロカゲは、暁彦のことを知っている。
恐らくは暁彦の認識していない過去まで、彼は知り尽くしているのであろう。
だが、彼が知っているのは、彼が暁彦に出会うまでの過去だ。
暁彦が新たに体験することは、クロカゲにとっても未知なのである。
故に、暁彦が見たことない映画を見れば、クロカゲも新たに見ることになる。
それはある意味、明確な発見である。
クロカゲは、暁彦に対して「自分はお前だ」と言った。
しかしながら暁彦は――この三日間、いくつかの映画やアニメ、漫画を見ることで、クロカゲが自分なりの感想を持っていることを知る。
それが、暁彦の抱いたものとは違う内容であることも。
つまりクロカゲは、自らを暁彦と同じ存在であると称しているが――そこには明確に、暁彦から独立した感性があるのだ。
当然暁彦は、その部分をクロカゲに指摘した。
お前は、俺とは違うのではという指摘を既に行っていた。
が。
「――早い話、そういうことじゃあないんだよ」
その際のクロカゲの返答は――あっさりとしたものだった。
「そんなんありかよ」
暁彦が、缶酎ハイをだんと音を立てて卓に置く。
明日大学に行く覚悟がようやく整った暁彦には、少しばかり酒が深く入っていた。
「『俺がお前』というのは、もっと根源的な話をしているんだよ。俺のこの口調や、俺の性格とも言える部分は、さほど重要じゃあない」
「その『根源的な部分』ってのが、意味わかんねぇんだよ」
「本質だ。暁彦が違いを指摘した俺の考え云々は、その本質を包むものでしかない。後付け、または表層ってことだぜ」
「意味わかんねぇ……まーじで意味わかんね」
「まぁ、わかってくれとしか言いようがないな。何せ、俺もどうしてそういうことになってるのか、自分自身で説明ができない」
「そこだよ」
暁彦がクロカゲを指差す。
「お前は、自分が俺だってことをやたらと強調するし、やたらと自信まんまんだ。そのくせ、他はわからん知らんで全部通す。そんな話あるかよ?」
「大分酒が入ってるな」
「誰のせいだよ」
「呑んだのは暁彦の意思だろう?」
「ストレス溜めさせてるのはお前だっつーの」
「では、俺の考えを言おうか?」
それは暁彦を酔いから僅かに醒まさせる一言であった。
「前提を話そう。暁彦は、俺という存在が何であるかを知ることを望んでいる。その望みに応えようとも、俺が答えを教えることではない。何故なら、俺も答えを知らないからだ。だが、暁彦が望むのであれば俺は自分にできることを実行する。それが、考えるということだ」
「でもお前、自分のことに興味がないって」
「そうだな。興味はないよ。だが、暁彦が望むとなると、俺自身の興味の有無は関係がなくなる」
暁彦は、ぱんぱんと自分の頬を両手で張る。
話をちゃんと聞かなければという気がそうさせたのだ。
「俺は根源的に暁彦と同じではあるが、暁彦の指摘通り『クロカゲ』という……性格ともいうべきものが存在している。そのことも含めて話すと――」
クロカゲの尾が、動きを止める。
「俺は、暁彦から生まれた、歪みなんだよ。そして、それで完結しているんだ」
「……ゆがみ?」
最初にクロカゲに会ったとき、そういえば彼は確かにそう言っていた。
(――俺はお前で、お前を要因の一つとして、お前から生まれた――)
(――お前のことをよく知る、お前の歪であり、お前そのものだ――)
「初めて出てきたときもそんなこと言ってたな」
「ああ、そうだな。あの時は特に考えもせず言っていたが、改めて考えてから述べると、俺は暁彦という人間の枠から外れて、何らかの原因で生じた、歪み。本来はあるはずのない、この世界のエラーなんだろう」
「そりゃあ、また――どういう意味だよ」
「一つに、暁彦という人間が本来ならできないことを俺がいることで可能にしてしている。その部分では、俺は明確に異質であり、この世界にとっての異常だ。だからエラーだよ。それでとりあえずは説明ができる。できてしまう。それは、逃れようのない明確な事実だ。そして、完結している事実でもある」
「……もうちょい、わかりやすく言ってくれ。言いたいことが、マジでわからん」
「暁彦はスタープラチナの正体が何であるか知りたいと思うか?」
急に漫画の話をされて、暁彦はますます困惑する。
「『スタープラチナは空条承太郎のスタンド能力』という一文で完結している。それに近いんだよ。『クロカゲは阿形暁彦の歪み』ということ、それで完結している。歪みを能力と言い換えてもいい。暁彦は自分で言っただろう?」
――「このままだと能力バトルものだ」と。
暁彦は、そのクロカゲの一言が、部屋にやけに響いたような感覚を覚える。
「つまり、『クロカゲは阿形暁彦』という事実を、『クロカゲは阿形暁彦の力、才能、歪み』として置き換えればいい。遠くの物に触れ、干渉し、時に誰かを守り、望むのならば殺すのが可能なこと。他の人間には見えないこと。クロカゲという人格と議論ができること。全てをひっくるめて俺は阿形暁彦の力だ。そういう意味では、クロカゲという力が何なのかは完結している。暁彦が考えるべきなのはそこではない。今はそれ以上が必要ないし、完結しているからだ。スタープラチナが何なのか、ではなく何故スタープラチナが生まれたかで考えを絞ってみるのが良いんじゃないか」
「……お前は、これ以上、『お前が何なのかについて考えるのをやめろ』って言ってるのか?」
「やめろとは言わないが、効率が良いのはそっちだとは思っているぜ。いい加減暁彦も、俺が何も知らないことと、仮に何かを知ってても話せない、話す気もないことを理解しているだろう?」
「まぁ、な」
「それに、気づいていないようだから言うが……暁彦は結局似たようなことを、言葉を変えてぐるぐる考え続けているだけだ。言い換えれば、何かが起きるかしない限り、俺やお前がいくら考えても、それが正解かどうかわからんさ」
「何かって……例えば俺が、マジシャンズレッドに会うとかか?」
「そういうことだ」
暁彦の冗談混じりの言葉を、クロカゲは肯定した。
「俺が生まれたことが、暁彦以外の誰かにとって意味があり、暁彦以外の何かによって齎されたならば、いつか必ず、それはどこかで姿を現すさ」
「誰にも意味がなく、何にも原因がかったらどうなんだよ」
「末永く仲良くやるしかないな」
「マジか……」
「まぁ、以上を踏まえて言うと、俺の考えは『まだあわてるような時間じゃない』だな」
「ちょっとでも期待した俺が馬鹿だった……」
だが暁彦は、この会話が意味のないものだったとは、決して思っていない。
このやり取りも含めて、これまでの時間で、クロカゲが意思疎通できるだけではなく、対話と議論ができる存在であることが明確になった。
それは言い換えると、クロカゲという存在の独自性と共に、『自分の一部』としてクロカゲを認識するためのヒントを得たということでもあった。
慌てるような時間ではない。
確かにそうだ。
非日常が一度発生した時点で、何が起きてもおかしくない状態に突入しているのだ。
だから、やれることを模索しつつ、事が起きるを待つのも手だ。
そう思うと暁彦は、少しばかり気が楽になるのがわかった。
停滞ではなく前身をしているような気がして、自分の行為が無駄ではないと感じられるようになったのだ。
……もしかしてクロカゲは、それに気づいていたのではないか?
自分の焦燥感を紛らわそうとしてクロカゲはこんな話をしたのではないかと暁彦は感じたが――
彼はそれを確かめようとは思わなかった。
* * *
「うぉーい阿形、聞いてるか?」
伸也に話しかけられて、暁彦はハッとする。
二人は講義棟から第一食堂に伸びるキャンパス内の道路を歩いていたところであった。
時刻が昼時であるためか、学生が建物の外に出て賑わっている。
冬の肌寒さが、頬に痛い。
道路の脇に植えられた木々はすっかり葉を落としている。
「……悪い、何の話だっけ?」
「だから、今週のジャンプはもう買ったのかって話だよ。最近搬入少なくしてんのか生協だと売り切れることあるらしいぜ?」
「マジか。それってみんなジャンプ買ってるから売り切れてるとかじゃないのか」
「律儀に買って読んでる奴、意外と少ないぞ。俺もお前に借りて読ませてもらってるし」
「じゃあ今までのジャンプ読ませてやった分をこの前のレジュメに充ててくれ」
「それはそれ、これはこれ。その分、普段物貸してやってんだろ」
「うーむ、言い返せない」
昼飯を伸也に奢った後に、どこかで早めにジャンプを買わないと。
そう暁彦がぼんやり空を眺めながら考えて――
「――――阿形君」
時間が、止まったような感覚がした。
暁彦は、自分が何者かに背後から呼び止められたことに気づくのに、
嫌に時間がかかったような、
周囲の物体が全て停止したような、
気温が更に下がったような、
奇妙な――これまで覚えたことのないような――
とにかく、形容しがたい停滞を覚えた。
――ようやく暁彦が振り向くと、一人の女性が立っていた。
肩までの、長く艶やかな黒髪。
白と黒を基調とした、色数の少ない冬の装い。
少し大きめのキャスケット帽。
そして――かけているフルリムフレームの眼鏡の奥から覗く、「澄み切った」という言葉では表しきれないほどの静謐な輝きを宿す瞳。
空間から切り取られたような雰囲気を纏うその女性に、暁彦は圧倒される。
「忘れ物」
そういって差し出された手に、暁彦はまたも反応が遅れる。
その手には、先ほど暁彦が伸也からもらった先週末の講義のレジュメがあった。
そこで暁彦は、あっと声を出して気づく。
自分が後で鞄に入れるつもりでレジュメを教室の机の下にある収納部分に入れてしまっていたことを。
「あ、りがとう。えっ、ていうか何で――」
「さっきの講義に私もいたんです。貴方の席にあったので、多分、貴方のだろうと思って」
「あ、はい。そうなんだ」
「そうなんです」
くすりと女性が微笑むと、暁彦は心臓がどくりと跳ねたことを自覚する。
この世にこんな……恐ろしい女がいたのか、と――
「では、これで」
そういって女性は、軽く右手を上げて挨拶をしてから、暁彦達に背を向けて歩き始める。
振り返る際、長い髪からわずかに香った良い匂いに対して、暁彦は一周回ってずるさしか感じられなかった。
そうして去る女性を眺めていると――
「――おい阿形、お前、織原さんと知り合いなの!?」
肩を揺らされながら伸也に言われ、徐々に思考が回りだす。
「……織原さん?」
「は!? 今の娘だよ!」
そういえば――
ようやく冷静さを取り戻した暁彦は、自分が今の女性について何も知らないことと、それなのに自分の名前が呼ばれたことに気づく。
つまり、こちらは相手を知らないのに、相手はこちらを知っている事実がそこにある。
「今の、織原さんって言うのか」
そう言って暁彦は、織原と呼ばれた女性が去った方向を再び見て、彼女が既に視界から消えていることに気づく。
「マジ? お前織原さん知らないの? 嘘でしょ? 織原唯花さん。俺らとタメであの通りめちゃ可愛いからミスコン推薦枠で最多投票らしいぜ」
ものすごい早口である。
「え、ミスコン出てんの?」
「いやあくまで推薦投票ってだけで本人はエントリーしてないんだけど……ってそういうことじゃなくて、いやマジかお前。めっちゃしょっちゅう色んな奴が話してるだろ」
「そう……だっけか」
「お前は知らないのに織原さんはお前知ってるってどういうことだよお前何かしたのかずるいぞ紹介しろ飲み会セッティングしろ」
「んなこと言われても、俺だってわかんねーって!」
尚も早口でまくし立てる伸也から、逃げるように食堂へと向かい始める暁彦。
伸也はぎゃあぎゃあと言いながら、しつこく食い下がっている。
そんな中、暁彦は自分の左肩にクロカゲが現れたことに気づく。
「確かに凄まじいレベルの美人だが、あの女は止めておけよ」
「ばっ」
暁彦は思わず口で返答しそうになる。
(――お前まで何言ってんだよ!)
「でも見惚れていただろう?」
(っ、まぁ可愛いとは思ったよ確かに)
「だろうな。だがあの女は止めておくべきだ。次元が違う」
(おい、そこまで言わなくてもいいだろ。そりゃ釣り合わないだろうけど俺だってお前――)
そう応えてから暁彦は、またクロカゲが姿を消していることに気づいた。
「――阿形! 今日の飯、大盛りでおごってもらうからな!」
「何でそうなるんだよ!」
……可愛いとは思った。
だが、それ以上に――
織原唯花に呼び止められた瞬間の不思議な感覚が、その後も暁彦の身体に残り続けていた。
「織原唯花、か」
暁彦は、その名前を誰にも聞かれないように反芻した。