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暁彦は家に戻るなり、通学用の鞄を床に放り投げ、上着を脱ぐこともなく、ベッドに勢いよく俯せに倒れ込んだ。
壁にかけてある時計の秒針が動く音だけが、僅かに室内に響く。
そうして、どれほど経っただろうか。
暁彦が寝返りをうって、仰向けになる。
見慣れた天井、室内が目に入る。
ここだけ切り取れば、昨日までの日常だ。
「……クロカゲ」
暁彦が声に出して呼ぶ。
先ほどまでは室内にいなかったはずの存在、昨日までいなかったはずの非日常が、いつの間にかテレビの上に鎮座している。
暁彦は、商店街でクロカゲと最後にやり取り――その力の可能性に言及――をしてから、彼と一切口を開くことなく、行くつもりだった大学もサボることにして、家に足早に戻ってきたのだ。
「どうした、暁彦」
クロカゲは、家に戻るまで暁彦から話しかけられなかったことを気にする様子もなく、返事をする。
「いくつか、質問させてくれ」
「いいぞ。ただ、大学には行かなくていいのか?」
「いけるかよ。何もわからないままでお前を連れて行くのが怖い」
「なるほどな」
暁彦は起き上がり、クロカゲと正面から向かい合うようにしてベッドに座り直す。
「クロカゲ、お前は……俺と常に一緒にいるのか?」
「そうだ。暁彦が望むなら、暁彦に話しかけず、黙り続けて、暁彦の視界にも映らないようにすることはできる。ただし、存在を消すことはできない。いついかなる時であっても、俺は必ずお前の側に在る」
はぁ、と暁彦はため息をついた。
今更になって暁彦は、このクロカゲに対してプライバシーというものを完全に失った事実を認識した。
それもまた、彼にとっては、クロカゲの力の可能性以外で気づかないふりをしていた事象の一つである。
「さっき、商店街で歩きスマホしてた人助けたとき――」
暁彦の脳裏に、あの時のクロカゲの凄まじい速度での一挙動が蘇る。
「あの時お前、なんであの人を助けた?」
「そりゃあ、お前が望んでいたからだよ」
「俺が、望んでいた?」
「言っただろう。『危ないと思っただろ』って」
「待て、待ってくれ。確かに危ないとは思った。怪我するって、思っていたかもしれない。でも俺は、助けろとは望んじゃいない」
「だがあそこで俺が助けなければ、お前は後悔していたぜ」
「お前はそれを汲み取ったって言いたいのか?」
「俺はお前だからな」
暁彦はクロカゲの言うことを、頭から否定ができなかった。
クロカゲが言うように思っている自分がいることを、認識しているのだ。
目の前で男性が派手に転び、怪我をしたら、暁彦はそれに対して多少なりとも心を痛めて、何かしら後悔をしていたかもしれない。
だが、その「かもしれない」にこそ、暁彦が危惧するものがある。
一息ついて、暁彦は問う。
「――お前は、どうやって人を殺せる?」
「どうやってでも、だよ。刺し殺す。殴り殺す。斬り殺す。擦り殺す。絞め殺す。暁彦が望む形で、可能な限り実現する。静かに殺すことも、一瞬で殺すことも、なぶり殺すことも、望み次第だ」
「じゃあ、殺すな」
暁彦は、そう強く言い放った。
「ここで今、誓え。絶対に誰も殺すな、と。でなければ俺は、外も出歩けなくなる」
「わかった」
クロカゲは、あっさりと、変わらぬ語気で返した。
「ただ――――その理由は聞かせてくれ」
クロカゲのその返事に対し、暁彦は、自らを冷静にすることに努める。
「理由は、今さっき話した件だ。お前は俺の意思を汲み取って行動をした。それは俺にとって、無意識だったのかもしれないけど……明確に望んだわけじゃない。この先もしお前が、俺の意思を汲み取って、勝手に人を殺すことが絶対にないように、『縛り』をつけさせろ」
勿論それは、クロカゲが暁彦の提示した内容について完全に従うことが前提の話だ。
暁彦は、その前提の脆弱さを承知している。
かといって、他にクロカゲを制限する方法を知らないし、それが見つかる保証も何も無い。
やらないよりはマシ。
何も手が無いなら、クロカゲが言う「自分は暁彦の味方だ」という言葉に信を置く方がまだ良いと暁彦は判断したのだ。
「なるほど、言い分はわかった。じゃあそれを聞いた上で、俺からも提案がある」
「提案?」
「『誰も殺すな』という縛りに、例外を設けさせてほしい」
これまではこちらの話や質問に対してただ答えるだけの存在であったクロカゲから、明確な交渉が出てきたことに、暁彦は緊張を覚える。
「……どんな例外だ?」
「そう警戒しないでくれよ。至極当たり前な例外のはずだぜ。俺が設けたいのは『暁彦の命に危険を与える存在』で、且つ『明確に排除しなければならない存在』だ。暁彦が理不尽に死ぬような羽目は俺も御免だからな。何せ、暁彦が死ねば当たり前だが俺も死ぬ。自衛の意味も兼ねて、これだけは了承してくれ」
暁彦は、一瞬それを了承しそうになった。
が、躊躇する。
緊張が彼を慎重にさせた。
「……その例外の基準に則っているかどうかを判断するのがお前なら、意味がない。拡大解釈がいくらでもできるだろ」
「そうか?」
クロカゲは、淡々と続ける。
「例えばだ。暁彦が、通り魔に襲われたとする。その通り魔は、明確な殺意をもって暁彦に凶器を振りかざしたとする。暁彦はそれに対応する手段を持ち合わせておらず、何もしなければ刺されて死ぬ。この場合、俺が動き、相手を無力化し、暁彦の命を守るのは当然だ。これは暁彦にとっても、明確にプラスだろう?」
その言い分は暁彦にとっても確かに筋が通っていた。
しかし――
「確かに、そりゃプラスだ。お前がそれを実行できるってことも、マジだと思っているし疑いはしない。でも、その状況は俺とお前に明確に都合が良いケースだろ。俺が不安に思ってるのはそういうのじゃあない」
「例えば?」
「例えば、俺がなんかの拍子で誰かに対してキレたり、ムカついたときに、お前がそれを引き金にしてその誰かを傷つけたりしないかが、とにかく心配なんだ。お前が俺の意思に反して誰かを傷つける可能性がある限りは、俺は誰とも話せない。これまでの話を聞く限りじゃあ、お前は俺の……なんていうか、敵意とかそういうものをいくらでも解釈できてしまう」
クロカゲが尾を揺らす。
「――わかった。暁彦がそう不安に思うのであれば、俺は何かする前に暁彦の意思を必ず聞くようにするよ。ただし例外……すなわち、先ほど言った『暁彦の危機的状況』で、さらにそれに加えて、『暁彦が俺に対し意思を示す暇がないほど逼迫した状態』の場合は、俺はお前を守るために自らの解釈で行動する。これでどうだ?」
「……どうやってそれを保証する?」
「残念だが、保証する方法はない。暁彦が俺を信じるかどうか次第さ」
「結局そうなるのか……」
暁彦は目線を下ろして思案する。
クロカゲという存在が根本的に正体不明である限りは、何を言って聞かせたところで確たるものはない。だからといって、放置することはできない。
対話をし、口約束だけでも結ぶこと。
それが今暁彦に思いつく、精一杯の対策だった。
「どうする? 暁彦」
クロカゲが問うてくる。
「……わかった。わかったよ。とりあえずそれで行くしかないし、お前のことを信じるしかない。どうせ俺にはそれしかできない。だから頼むから、今後は俺の意思を必ず確認してくれ」
「勿論だよ」
はぁ、と一際大きいため息が暁彦から漏れた。
とりあえずはこれでいい――
そう思った瞬間に、急激に疲れが湧いてくる。
「何か飲むか? 喋り疲れただろ」
気の利いた言葉をかけてくるクロカゲ。
そこまでお見通しかと、またも新しいため息が暁彦の口から漏れる。
「ウーロン茶、頼む」
「承った」
――もし、こいつが俺なんだとしたら。
暁彦は思う。
果たしてクロカゲは、自分そのものなのだろうか。
それとも、自分の一部が切り取られたものなのか。
この世界に、自分以外にもこのような現象を目の当たりにしている存在はいるのだろうか。
アニメや漫画とかだと、こういう時、すぐに似たような現象に遭遇している存在が出てきたりするものだが――
「このままだと、能力バトルものだよなぁ」
現実にそんなことがあるとしたら、たまったものではない。
人を殺す力を持つものが引かれ合うなんてことは、それこそ漫画の中だけにしてほしいものだ。
暁彦は本棚に並ぶ漫画の背表紙を見つめる。
そのいずれも暁彦が好んで読む少年漫画で、特別な能力を持つ者達が戦うバトル漫画ばかりであった。
「この場合俺はすぐ死ぬ脇役か、それとも主人公か?」
「――この世界に、主人公も脇役もないだろ」
それは、ウーロン茶をコップに入れ終えて、再びテレビの上という定位置に鎮座したクロカゲから発せられた言葉であった。
「生きているか死んでいるしかない。暁彦の見ているものは、全て、暁彦の世界だ」
「……そういう台詞は普通、クライマックスで言うものだろ?」
ウーロン茶を飲み、完全に大学に行く気を失った暁彦は、ようやく上着を脱ぎ始め、そのままいつもの部屋着に着替えることにした。
そうして、家に帰った直後より、心が落ち着いてきたことを実感する。
「暁彦は、仲間が欲しいのか?」
「仲間……っつーよりは、相談する相手がほしいよ。お前と俺じゃ、第三者がいない。状況を外から教えてくれる人がほしい」
それは、第三者なら誰でも良いというわけでは、当然無い。
この状況に対し理解を示し、自分を危険視したり、利用しようとしたりしない存在でなければならない。
今の生活が根底から壊れることは、望みではない。
――そうだ。
暁彦は認識した。自分は一先ず、この状況を隠せるなら隠したいのだと。
その上で、相談できる相手が欲しいのだと。
「……いや、まぁ仲間か」
結局、暁彦は自分で自分の言葉を訂正した。
「なら、方針が増えたみたいだな」
「ん?」
「俺について調べることと、自分と同じ仲間を探すこと。それらが当面のやることだ。違うか?」
「まぁ、そうだな」
そう整理されると簡単に聞こえるが、実際は雲をつかむような話である。
何はともあれ、行動しなければ不可解のストレスでいずれ頭がどうにかなってしまうかもしれない。
生活が壊されるのも嫌だが、ストレスを抱え続けるのも嫌だ。
それならば、対処しようと行動しているほうが前に進んでいる気がして、よっぽど楽だ。
「とりあえず……文明の利器、使ってみるか」
暁彦は部屋の隅に無造作に置かれていたノートパソコンを手に取った。
今日はとりあえずこいつで悪あがきして、大学は明日からにしよう。そう決め込んだ。
パソコンの電源を入れてから――
ふと、暁彦は思いついた文言を口にする。
「オーケークロカゲ、なんか音楽流して」
それは、何となしに浮かんだジョークであり、クロカゲが乗るかどうかのテストであった。
対してクロカゲは――
「バンプオブチキンでいいか」
「流せるのかよ」
「俺が歌うんだよ」
「歌えるのかよ」
「でれれれーでれれれーでれれー」
「イントロからかよ!」
しかも音程がばっちりであり、クロカゲが自分より音感があることが暁彦にとって妙なツボに入ってしまって思わず噴き出した。
この後暁彦は、思いつく限りの検索ワードで、電子の海から自分の目の当たりにしている現状を探し当てようとした。
もしかしたら少しはヒントになるものがあるかもという淡い期待があったが、結局彼は、その日何の成果も得られずに終わった。
強いて言うなら、日中あれだけ冷や汗をかかされたクロカゲという存在が、案外奇妙なユーモアを持ち合わせていると判明したことが、唯一の収穫ではあった。
明日からは色々大変なことになる。
きっと、『こいつ』は長い話になる。
暁彦は、邂逅の初日をかけて、その覚悟を少しずつ、なんとか決めていった。
――だが。
事は彼の想像するよりも密かに、それでいて恐ろしく素早く進行しつつあった。
そしてそれが、彼のこれまでの日常と決別を促すことを――
この時点の暁彦は知る由がなかった。