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暁彦はその日、いつも大学に向かう時間よりもずっと早く家を出た。
それは、一つ実験を兼ねての行動であった。
曇り空の冬は肌寒く、この後昼を迎えても気温があがりそうな気配はまるで感じられない。
布団から抜け出して外に出るまでは相当苦労したが、出てしまえば今度は、外の冷気が暁彦の意識をより鋭敏にさせる。
「うー、やっぱ寒いな」
家の鍵がしっかり閉まっていることを確認してから、暁彦は身体を温めるようにして小走りで通りに出る。
彼が通う雨鉾市立大学と彼のアパートは、最短ルートであれば徒歩で15分程度の距離である。
しかしこの日の暁彦は、そのルートを取らず、遠回りで商店街を経由する方を選んだ。
普段であれば、大学の帰り道に店で何かの日用品を買うときにのみ使うルートであり、行きで使うことは滅多にないのだが、彼は今日、人が多くいる場所にあえて向かいたかったのだ。
(――なぁ、クロカゲ。これで聞こえてるのか?)
商店街を目指しながら歩く暁彦が、声に出さず、頭の中で言葉を紡ぐ。
「ああ、聞こえてるよ」
その声は、暁彦にしか届かない形で発せられる。
声の主は、暁彦の右肩に鎮座しているクロカゲであった。
(これで俺の声は周りに聞こえないし、お前の声はそもそも周りにはわからない、ってなるのか)
「そういうことだ。だから、独り言を心配する必要はない。何せ、俺はお前だからな。お前が思えば俺に届くのは、ごく当たり前なことだ」
(いやだから、そのお前が俺ってのがピンとこないんだって……あとこれ、慣れないと結構難しくないか)
暁彦は、時折思ったことを口に出しそうになっていた。
「人間は案外、頭で言葉を具体的には考えていないものだ。まぁ、段々と楽にできるようになるだろ」
(これって一種のテレパシー……みたいなものなのか?)
「どっちかというと、やたら鮮明な独り言だろうな」
(それはまたさっきの、お前が俺だからってことだよな?)
「その通り」
はぁ、とついた暁彦の息は、わずかに白い。
(お前ほんと、なんで急に湧いて出たんだよ)
「わからんよ」
暁彦はこの問答を、クロカゲと遭遇してから既に数回行っている。
その数回でわかったのは、クロカゲは何故自分の前に現れたのかを、知ってても知らなくても自分に示してはくれないということだ。
およそ3時間。
それは、暁彦がクロカゲと邂逅し、こうして外出するまでの間にコミュニケーションを交わした時間である。
その3時間で暁彦が得られた情報は、彼としては少ない認識だった。
彼が得られたことは――
・クロカゲは(今のところ)危険ではない
・クロカゲは意思疎通ができる(ように感じられる)
・クロカゲは特定条件下で物に触れことができる(らしい)
・クロカゲは暁彦の個人情報を大体知っている
・クロカゲは暁彦の知識をそのまま全て自分の中に所持している(らしい)
・クロカゲは何かを食べたりはしない
・クロカゲは眠りを必要としない
・クロカゲは暁彦以外に見えない(らしい)
・クロカゲは自分が何者かを知らない
・クロカゲは目的がない
暁彦は、これらの情報を聞き出すクロカゲとのやり取りで、図らずも、目的を何も持たない存在との会話が想像以上に虚無で覆われていることを思い知ることとなった。
クロカゲには、目的がない。
彼は何かを望んでいるわけではない(らしい)。
それはつまり、彼自身が「自分が何であろうかを知ろうとはしていない」ということである。
強いて彼の目的らしいものを定義するとすれば、彼曰く、暁彦の側に在ればそれでいい。
ただそれだけの存在であることを、彼自身が認識している(らしい)。
「――だから暁彦、お前は俺を無理に知ろうとする必要はない」
「お前が俺を受容し始めた段階で、お前の言う『俺の目的』も達成している」
「重要なのは、お前の中から俺が出た。ただそれだけだ」
ただそれだけなわけがあるか。
と、少し前に深くため息をつきながらクロカゲにそう返したことを暁彦は思い出した。
(クロカゲ。さっきも言ったけど、俺は二つ確かめたいことがある)
「一つは、俺が本当に存在するかどうか。二つ目は、俺が何故現れたか」
(……先に言うなよ)
「同じ話を、家でしたからな」
(本当にお前は、興味ないんだな)
「俺自身には興味はない。暁彦が俺について調べたいなら好きにすればいいし、望むのなら、その手伝いもするさ。俺はお前の味方だからな」
(それなら、お前自身が全部話してくれれば一番早いんだけど)
「やれやれ、わかってくれよ暁彦。俺は本当に何も知らないんだ。俺が知っているのは、お前が知っていることまでだ。それ以上は何も知らん。例えば、来週の少年ジャンプであの漫画がどんな展開をするか、誰が坂本龍馬を暗殺したか、お前が宝くじを未来にあてるかどうか、もし先週の麻雀で暁彦が全ツのままだったらラスを免れたか。それらは全てわからない。お前が知らないように、俺も知らないんだよ」
(ああ、もういい加減わかった。だから俺がやりたいことに付き合ってもらう)
「犯罪はおすすめしない。俺は全能じゃないから、誤魔化し切れんぞ」
(馬鹿言うな、悪いことするつもりはないっつうの)
「だよな。そうだと思ったよ」
クロカゲに害はない。少なくとも今、自分に対しては。
その事実については、暁彦はとても実感している。
だが、この語り口というか――やり取りの仕方にだけは、暁彦はどうにもまだ慣れることができていなかった。
彼が言うように、彼が自分の中から現れた存在であれば――もっと普通に話すことはできないのだろうか。
そんな感情が、少しばかり暁彦の中で燻っている。
早い話、どうしてもこいつに裏があるように、勘ぐってしまうのだ。
暁彦の知るフィクションでは、こういう奴が一番怪しいのが相場だったから、というのもあった。
そうこうしている内に、暁彦は目的の商店街にたどり着いた。
寒空の下ではあるが、結構な数の人が歩いており、買い物客と混じって恐らくは同じ大学に通っているのだろう人物も見える。
駅と隣接するようにして存在するこの商店街は、寂れてはいないが、適度に活気がありそれでいて騒がしくない。暁彦はこの商店街が結構気に入っている。
「よし、行くぞ」
そう声に出してから、暁彦は、クロカゲを右肩に乗せた状態で、商店街を端から端まで歩いた。
道中、誰も暁彦の右肩に存在するクロカゲに、目もくれない。
途中、いくつかの店に入ったり、コンビニでは炭酸飲料も買ったりしてみたが、そこでも誰も何も、クロカゲのことを気にしない。
あまりにも、平穏だった。
(クロカゲーーーーーーっ)
「別に勢いつけても、デカく聞こえるわけじゃないぞ」
心の中で叫び、クロカゲがそれに返事をしても、誰も周囲の人間は反応しない。
やはり、聞こえていない。
(……とりあえず、マジでクロカゲは誰にも見えていないことはわかった)
暁彦は、通りに点々と存在するアーチ形の車止めの一つに腰掛け、先程購入した炭酸飲料に口をつけ、温かい飲み物を買えば良かったと後悔しながら、事実を反芻する。
「次はどうするつもりだ?」
(……うーん。お前が存在するかどうかを確かめたい。確かめたいんだが……)
暁彦は正直、その方法をまだ考えついていなかった。
一番手っ取り早いのは、クロカゲが家で冷蔵庫の扉を開けて見せたように、物に干渉している所を暁彦ではない別の人間に見せればいい。
それだけで、暁彦が観測している事象が、他の者にとっても等しく在る事象だとわかる。
ただ、暁彦としては、それを試すことは少し躊躇われた。
もし本当に実行して、成功して、誰かに対しクロカゲの存在が明るみになったとき、自分がどうなってしまうのか――
それを知るのが、正直言って怖かったのだ。
(とはいえ他に良い方法が……)
そういって、暁彦は通行人をぼおっと眺める。
もういっそ、適当にそこら辺の物を壊して、人を驚かせてみるか?
「いやそれだと器物損壊だな。悪いことをしている」などと思いながら、ふと、暁彦は一つ思いついた。
そういえば――
このクロカゲという存在は、いったい、どこまでできるのだ?
何ができて、何ができないのか。
否。
何ができてしまうんだ?
どういう訳か、暁彦は、自分の背に冷や汗が垂れるのを感じた。
ぼんやりとしていた思考が――心のどこかで気づいていて、あえて考えないようにしていた部分が、明るみになっていく。
さっき自分であんな――悪いことはしないと、わざわざ口にしたのは――
と、その瞬間であった。
歩きながらスマートフォンの画面を注視していた男性が、暁彦の視界にちょうど入り――
そう暁彦が認識したところで、男性が、ぐらりと揺れた。
冬の気温で滑りやすくなった道路に、足を取られたのだ。
遠すぎて、暁彦が手を出しても間に合わない。
このままでは男性が派手に転ぶ、そう暁彦が思考した瞬間――
ぎゅん、と。
クロカゲの首から先が、暁彦の右肩から、男性の方に伸びた。
そして、伸びた頭がばかりと開いたかと思うと、巨大な掌のように変形・膨張し、男性を中空で受け止める。
クロカゲによって受け止められ、転倒の勢いが止まった男は、慌てて大きく前に一歩踏み出して転ばずに済んだ。
そして、派手な動作をしたことで気恥ずかしそうにして、スマートフォンをポケットにしまい、そそくさと暁彦の前を通り過ぎていった。
男は恥ずかしさで気づいていないだろうが、端から見れば彼の動きは明らかに――中空で見えない壁に止まったかのように、一度静止していた。
一部始終を見ていた通行人は皆、男性のその奇妙な動きに驚いていた。
しかしながら、各々で何かしらの解釈を済ませたのか、やがて通りは、元の空気に戻る。
ただ一人、その男性の奇怪な動きの理由を把握している暁彦を除いて。
「――危ないって、思っただろう?」
クロカゲは、もう既に元の形状に戻っている。
クロカゲの尾が、中空に円を描く。
「転ばずに済んで良かったし、暁彦が確認したいことも確認できた。ラッキーだったな」
暁彦は、自分のつばを飲み込む音を、鮮明に認識した。
(なぁ、クロカゲ)
「何だ」
(お前は……一体、どこまでできるんだ?)
暁彦は、直感する。
クロカゲは――――全能では、ない。
だが、自分が想像している以上に、色々なことができてしまうのかもしれない。と。
あの速度と、正確さは、その可能性の一端を感じさせるのに、あまりにも十分すぎた。
つい先刻覚えた気づきが、暁彦の脳内で結びつこうとしている感覚――
「そうだな。暁彦の望み次第ではあるが――」
若干の間。
「この商店街の人間全員を、5秒で皆殺しにできるぞ」
血の気が失せ、思わず視界がぼやけた。
直後。
「――冗談でも言うな馬鹿野郎」
暁彦は思わず声に出してしまっていた。
だが幸い、その声を聞く者は暁彦の周囲にはいなかった。
ただ一匹を除いて。
「すまない。怒らせたかったわけではない」
「暁彦はそんなことを望みはしないって知っているよ。ただ――」
これでまた、俺のことをより理解してくれたんじゃないか。
と。
クロカゲは言った。
暁彦は、自分が抱えたものがまだ片鱗すら見せていなかったことを、思い知った。
――それは、邂逅から半日足らずで至る部分としては、上出来だったのかもしれない。