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阿形暁彦はその日、妙な――聞き慣れない男の――声を耳にしたような気がして、眠りから目を覚ました。
季節は冬、時刻は朝7時、場所は彼の自宅。
よくある賃貸アパートの、ありふれたワンルーム。
薄暗さと比例するかのように、部屋はやや肌寒い。
マイペースで遅刻上等、必須単位ギリギリを生きる大学生の暁彦にとって、講義もバイトもなく寒いだけの朝7時に起きることは、異常事態の一つであった。
……宅配便でも来たのか?
その割にはやたら鮮明な声だったような、と思いつつ暁彦はベッドから身体を起こす。
部屋には、昨夜遅くまで映画のDVDを見ながら一人酒をしていた名残がある。
それは、暁彦にとっては日常の光景だった。
窓の外はまだ薄暗く、重苦しい灰色の空が広がっている。
布団を剥がした上体が、肌寒さを改めて認識する。
それと同時に、暁彦の内に湧き出たのは、圧倒的な眠気であった。
壁にかけられたカレンダーを見て、今日は講義が午後にしかない曜日であることを確認し、暁彦は二度寝に洒落込もうとし――
「いや、寝るなって」
暁彦の眠気は、完璧に吹き飛んだ。
今し方響いた男の声が、同じ部屋から発せられていることを確信したからだ。
慌てて彼は声のした方――暁彦の娯楽のほぼ全てを支えている45インチ薄型テレビ――に振り向く。
そして。
「――うわぁっ!?」
暁彦の叫びが室内に響く。
彼は、テレビの上に鎮座するそれを直視してしまったのだ。
「良いリアクションだな」
それが、暁彦に向けて音を発する。
それは――暁彦には最初、漆黒の……竜のように、何故か見えた。
だが、竜ではないとすぐにわかった。
そこにあるのかないのか、闇と溶け合っているかのような、不自然なコラージュのように見えてしまう、圧倒的な黒。
その闇がぼんやりと描くシルエットは、四つ足で、長い尾のある姿。
だが。
翼はない。
角もない。
何なら、目鼻口すらない。
凡そ世にある『竜』から特徴的なパーツを、尻尾以外全て引っぺがして真っ黒にすればこうなるかもしれない。
――いや、要は真っ黒で顔の無い蜥蜴では?
そう直感的に思考した暁彦。
直後――
「お、まえ何?」
やや上ずった声で、ほぼ無意識に、暁彦の口から問いが出ていた。
思考だけが早回りして、体が置いていかれたかのような反応だった。
「俺はお前だよ。暁彦」
それは、落ち着いた声で、暁彦にそう返してきた。
それの尻尾が、中空に円を描くかのようにぐるりと動く。
「俺はお前で、お前を要因の一つとして、お前から生まれた」
「お前のことをよく知る、お前の歪であり、お前そのものだ」
暁彦は、問うておいてから自分の正気を確かめるのように頬をつねった。
何度も瞬きをして、深呼吸をして、自分が正常かどうかを念入りに確かめた。
それで本当に確かめられるかなんてわからないが――やりたくなった。
だが、何も変わらなかった。
それは、暁彦の前に存り続けた。
それは、暁彦が事実をもう一度認識するのを待つかのように、沈黙している。
暁彦は、頭が回っているようで回っていなかった。
訳がわからず、ただそれを見つめていた。
やがて、暁彦は、じょじょに気づくことがあった。
最初こそ目の前のそれにひどく驚きはしたが――いつの間にか、既にそれに対しての恐怖がなくなっているということを。
いや、もしかしたら――最初から恐怖なんてなかったのかもしれない。
いきなり声をかけられたから、いきなりいたから、驚いた。
そこに在ったから、驚いた。
ただそれだけ。
暁彦の内に走るものは、不思議な感覚だった。
それはまるで、欠けていたものがわかったかのような、探していたものが見つかったかのような――
「こんなところにあったのか」という驚きに近かった。
ただし、何故それに対しそのような感情を抱くかだけは、全くわからなかった。
強いて言うならば――自身のその意味不明な感情の動きに対しては、恐怖していたかもしれない。
暁彦がそれと遭遇してからのここまでは、実際の時間で3分にも満たない。
だが暁彦は、凄まじく長い時間、混乱する感情に振り回されていたかのような気分だった。
「――安心しろよ、暁彦」
見つめ続けていたそれが、言葉を発する。
その言葉は音ではなく、暁彦の頭に直接響いているものであることを、暁彦はまだこの時点では認識できていない。
「俺はお前の味方だよ。この世界の誰よりもな」
暁彦には、それが『笑った』ような気がした。
表情なんてものが無い存在だが、その言葉にはそう感じさせるものがあった。
それで暁彦は吹っ切れた。
「――――わけわかんねぇ」
おびえるでもなく、発狂するでもなく、逃げるでもなく。
とにかく、自分は異常事態に陥ったということを、暁彦は素直に認めた。
暁彦は、自分が頭が良い人間だとは思っていない。
だから諦めた。
考えて答えが見つからないという結論に至ったのだ。
冬の朝が見せる幻覚かもしれないが、もうそれに乗っかることにした。
それ自体が異常である可能性を全く意識せずに。
「俺、頭おかしくなった? お前もしかして、幻覚みたいなもん?」
幻覚かもしれないものに尋ねるのもどうかしていると思いつつ、暁彦は問う。
「いいや、お前は正常だ。頭はな。そんでもって、俺という存在は現実だ。虚構ではない。大抵の人間には見えないと思うがね」
暁彦は、それが律儀に回答してきたことに少し驚き、同時に、意思疎通がはかれることに安心もしてしまった。
だからこそ暁彦は、思ったことを続けて口にすることにした。
「世間ではそれ、幻覚って言うんじゃね?」
「幻覚はものに触れると思うか?」
「いや、疑問に疑問で返されても」
「まぁいいじゃないか。とにかく、俺はお前に害を為すつもりは無いぜ。それでとりあえずいいだろう?」
「いや、よくなくないか?」
「やれやれ、ダメか。ま、お前が混乱しているのも、一方で思考放棄して楽になろうとしてるのも、手に取るようにわかるからな。仕方ない。だからどうだろう。俺をもっと理解してみるっていうのは。わからないは混乱の素だ。だからまずはわかってみる……理解するのが良い」
そうすればもっと安心できるかもな。
と、それは言う。
「理解って言われても……」
「よし。ならまずは、冷蔵庫にあるウーロン茶を持ってきてやるよ」
「は?」
流れがわからず、暁彦が呆けた声をあげる。
「起き抜けの水分は大事だぜ。頭が少しは回るようになるし、落ち着くだろ。どうだ、いるか?」
「あ、うん」
「望みは得た」
それが、テレビからふわりと飛び降りる。
蜥蜴や竜を思わせる体躯であるのに、その動きはやたらと柔らかく、まるで猫のようだった。
音も無く着地するそれが、ふっと消えたかと思うと――
次の瞬間、暁彦の家の冷蔵庫が、ぱたりと開かれた。
庫内灯が、暁彦の部屋にわずかに明るみをもたらす。
――――暁彦はそこで、鳥肌がたった。
彼は、自分がベッドから微塵も動いていない事実に気づいたのだ。
そしてそれが意味することも何か、理解してしまった。
それが、小さな頭に1リットル分のウーロン茶が入るペットボトルを乗せて、冷蔵庫から姿を現す。
そして、頭を一切動かすことなく――よく見たら全身も全く動かず――すーっと音も無く滑るように暁彦の元に接近する。
次に、頭に乗せていたウーロン茶のペットボトルを、ベッドの近くの丸いローテーブルの上に置く。
若干の間。
暁彦がペットボトルを掴む。
ペットボトルに6割ほど入っているウーロン茶の冷たさと、ペットボトルそのものの感触が伝ってくる。
蓋を開け、直接口を付けて、飲む。
液体が流れる音、ペットボトルがややへこむ音。
自分がウーロン茶を飲む音。喉を潤す、心地よい水気。
ウーロン茶の味。
暁彦が蓋を閉めてペットボトルをテーブルに戻す頃には、それは再びテレビの上に鎮座していた。
「――――お前、俺のスタンド能力かなんかなの?」
暁彦の口から出たのは、精一杯のたとえだった。
「フィクションで例えるのは良い線だな。理解の取っ掛かりにちょうどいい。しかし、残念ながら俺は時は止められないぜ」
「誰もそこまで言ってねぇよ。とりあえず、お前マジで物触れるのな……」
今し方、暁彦が直接感じた全てのものが、彼に『現実』を突きつけてくる。
彼の受容は、その時点でまた深まった。
「ああそうさ。お前が望むのなら、もっと色々できる。望まなければできない。俺はお前だからそうなっている」
「……でも時は?」
「止められない。できることにも限度はある」
「そっか」
それは少し残念だと思ってしまう暁彦。
直後、彼は天井を見上げる。
そして、もう一度それへと視線を戻す。
それは変わらずそこに在る。
「……色々、聞きたいことがありすぎて」
「だろうな」
「聞いたら、答えてくれるのか?」
「知っていることは答えるぜ」
「取って食ったりは、しないんだよな?」
「むしろ、唯一無二の味方だと思ってほしいね。仲良くしようぜ、兄弟」
「え、お前俺の兄弟なの?!」
「物のたとえだよ、相棒」
「あ、そう……」
「ともかくだ、暁彦。物事はシンプルにしていこうぜ」
「シンプル?」
「ああそうさ。頭がぐっちゃぐちゃな時は、一つ一つ、単純にするのが良い」
それの尻尾が、再び円を描く。
「お前さんが理解しておけばいいのは、唯一つ」
「それは?」
「俺が、お前の味方だってことだ」
だから安心しろよ、と。
それは、暁彦に告げた。
暁彦は、しばらくそれを見つめてから俯く。
そして、またしばらくしてから、顔を上げて、それを見つめなおす。
それは、変わらずそこに在った。
「――お前、名前はあるの?」
暁彦が問う。
「無い」
それが、端的に答える。
「話すとき面倒だから、つけていい?」
それの尻尾が、円を描く。
「願っても無い申し出だ」
だったら――
と、暁彦はしばらく思案する。
そして――
「――クロカゲ、はどうだ?」
黒い蜥蜴っぽいもの、略して『クロカゲ』。
沈黙。
もしかして気に入らなかったか、と暁彦がやや不安に思った瞬間――
「気に入った」
悪くないネーミングだ、と、クロカゲが返す。
暁彦は、どういうわけかその瞬間、この不思議な黒い存在と何か繋がるような感覚を得た。
そして――――
ここからまた、話が長くなりそうだとも予感した。