7
……暁彦は最初、自分が走っていることに気づかなかった。
気づかない程度には周囲は闇で、
場面は唐突で、
どうして走っているのかもわからず――
彼は、言葉で理解した。
自分は「一切の光のない漆黒を、いつの間にか走っている」のだ。
何故走る?
決まっている。逃げるためだ。
何から逃げている?
決まっている。
――これ、人と交ざってますね。
暁彦の頭の中で反芻される言葉。
ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ。
いつからか、足音が水を踏む音に変わって響き始める。それと共に、暁彦の周囲が、闇色の空間が、足下から赤を孕み始める。
息が荒くなる。
後ろから何かに引っ張られるかのように、走る速度が遅くなる。
足音は確かにするのに、地面から足が離れたかのように進みが遅い。
暁彦は、背後から何かが迫ってくる気配を生暖かい空気と共に感じていた。
その気配がとにかく恐ろしい。
正体はわからないが、何かとてつもなく怖いものであることはわかる。
だから今逃げている。何故も何もなく、状況がそうだから――
「やめろ、やめろ、やめろ」
無意識に言葉が漏れていた。
「やめろ、やめろ! やめろ!」
それは徐々に、悲鳴のようなものへと変わっていく。
やがて暁彦は、大きくて黒い何かに自分の背中を撫でられて、ぶわりと総毛立ち、走ることも何もできなくなった。
赤に染まった周囲の地面、あるいは中空から、異常な音と共に何かが出現する。
それは肉、あるいは骨、人の身体の一部。
朱に染まった絶望的なまでにグロテスクな光景の中、暁彦を捕まえた何かが、暁彦の全身を這っていく。
「あああああああああああっ!」
振り払おうとして暴れようとするも、身体の自由はまるできかない。
恐ろしい何かが暁彦の口から、目から、鼻から、侵入していく。
悲鳴をあげることも、呼吸もできなくなる。
暁彦はそれが自分のなかをどんどん浸食していく不快で脳が焼き切れそうになる。
誰か、誰か――
助けて――
ぼこり、と、異常な音が暁彦の胸元から響き、それを認識した直後――
黒い何かが暁彦の胸を内側から突き破って現れた。
血が噴水のように吹き出し、自らの血の雨を浴びる中――
暁彦の胸を食い破って現れた黒いそれは、暁彦の方を振り向く。
そこにあったのは――暁彦自身の顔だ。
「――いいや、知らなかったよ」
それが暁彦に無表情のまま言う。
その声は、暁彦の声では無い。
* * *
「っあぁぁぁっ!」
「うわっ、びっくりした」
暁彦は、自分が大声を上げて跳ね起きたことを認識した。
全身から嫌な汗を噴き出して衣服がべっとりとした感触を残している。
呼吸も荒く、未だに心臓が跳ねている。
吸って吐いてを繰り返す内に暁彦は、自分が自宅のベッドで寝ていて、そこで跳ね起きたことに気づき始める。そして、悪夢を見たが故にこうなったことも少しずつ理解する。
そして最後に――
「――派手なお目覚めですね」
同じ部屋に、十束つばめがセーラー服姿で存在することに気づいた。
いや、ただのセーラー服姿ではない。どこから持ってきたのか、豚が刺繍された青いエプロンをつけている。
「……つ、ばめ? え、何で君が――」
「運ばれたんだよ、彼女に」
暁彦は足元から声がしたのでそちらを向くと、ベッドの上にクロカゲが鎮座していた。
「運ばれた?」
「お兄さん、あの後気絶しちゃったんですよ。どこまで覚えてます?」
「え、気絶……え、えぇ?」
「あ、お茶でも入れてきますよ。汗たっぷりかいてるみたいですし。ご飯もあたためちゃいますねー」
立ち上がりキッチンのある方へつばめが向かうと、微かに心地よい香りが暁彦の鼻をくすぐった。
「やばい、何がなんだか……」
「俺から説明しようか」
「いや……一回自分で、整理してみる……」
暁彦は思考する。
最後に記憶が残っているのは、つばめと訪れたファミレス。
彼女と会話をする内に、また例の黒い奴に襲われた。
そこまで整理して暁彦は、闇の中から浮かび上がってきたあの巨大な顎の化け物と、それがずたずたに引き裂かれた光景を思い出す。
「……俺、あの化け物を見て気絶したってことか?」
暁彦がクロカゲに問う。
「そうだ」
「で、その後つばめに家にまで運ばれて……待て、俺どんぐらい寝ていた!?」
暁彦は時計を見る。
電子時計は14時25分とある。
日付は昨日……つまり、暁彦がファミレスに訪れた日から一日経過している。
「半日以上気絶してた……のか」
「――それだけストレスが溜まってたんじゃないんですかね」
つばめがキッチンからマグカップに冷たい茶を入れて、暁彦に差し出す。
「どうぞ」
「あ、ありがとう……」
「それ飲んだら、とりあえずご飯食べません? お兄さんもおなか減ってるはずですよ」
「メシったって、そんな……」
何もないと言おうとして、キッチンが普段と違う様子になっていることに気づいた。
「お兄さんがぶっ倒れてる間に作ったんで。こー見えて私、料理まぁまぁできちゃうんですよ~。いやぁほんと無敵のJKですね!」
あ、もちろん私の分もありますよ。一緒に食べちゃいましょうとつばめがにっこり笑う。
「――毒は入れられてないはず」
クロカゲが聞いてもない質問に答える。
暁彦がぽかんとしている間に、つばめはカーテンを開け、部屋に陽光を取り入れる。
それによって暁彦は、部屋の物が色々と端に寄せられて――本来存在しないはずの一人のための導線が作られていることを把握した。
「――昨日の話と、これからの話。食べながら話しましょう」
JKの手作りが食べられるなんてお兄さん幸せ者ですね、と言いながらつばめはキッチンに再び向かった。
そこで――暁彦の腹は一切の緊張感無く音を鳴らして自らの存在を主張したのだった。




