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柔らかな陽光で彩られた、緩やかな坂道。
春の日差しを浴びて芽吹く木々が、少しばかり温もりのある風に揺られている。
朽木原唯花はそんな小春めいた道を、片手にビニールの買い物袋を提げながら歩いていた。
袋の中には、何の変哲も無いありふれた食材が詰められており、彼女の生活感がどこにでもありそうなものであることを匂わせている。
唯花は、遠くの街並みと空の交わる部分を見ていた。
彼女は今、いつもの眼鏡をつけていない。
唯花はその透き通った瞳の上半分には、晴れ渡った青空がありのままに写っている。
景色を眺める彼女の表情は、一見すると無表情ではあるが、どことなく穏やかなものを滲ませていた。
「――良い天気だね」
唯花が声の方、自分の進行方向に視線を戻す。
そこには、先ほどまでいなかったはずの一人の中年の男性が立っていた。
男は、少しくたびれたグレーのスーツにベージュのトレンチコートを羽織り、右手には黒革のビジネスバッグを携え、サラリーマン然とした服装をしていた。
短い黒髪に、黒いスクエアフレームの眼鏡をかけ、髭が剃られた口元で人当たりの良さそうな笑顔を浮かべている男は、服装と合わせて、地味でどこにでもいそうな、それでいて悪い人間ではなさそうな印象を与えさせる。
しかしながら、その男を見つめる唯花の目は少し険しい。
剥き出しとはいかないが、訝しむ様子は現れていた。
「まだ挨拶じゃないか。そんなに嫌そうな顔をしないで欲しいね」
男がにこにこと笑いながら唯花の方に歩み寄る。
一方の唯花は、立ち止まって男の歩みを見ている。
「貴方がこうして現れて、良い話を聞かされた覚えがないもので」
「そうかな? まるで疫病神じゃないか」
「自覚がないのがより質が悪い」
「いやいや、真面目な話をしにきたんだからそんな最初から邪険にされちゃあ困るよ」
そうして男は、唯花と1メートルほど離れた所で立ち止まる。
「……それで、何の用ですか。田原さん」
田原と呼ばれた男は、辺りを見回す。
「まぁ、立ち話もなんだしどこかで座って話さないかな? 唯花君も喉が渇いていたりしないかな。ついでにおごるよ」
「こちらとしてはあまり長く話したくはないのですが、どうもそういう感じではなさそうですね」
「うん。僕としても座って聞いてもらいたいものだね」
「なら好きにしてください」
「よし、決まりだ」
そう田原が言った瞬間――
二人の立つ場所が、喫茶店の店内になった。
二人は先ほどの立ち位置からそのまま、テーブルを挟んで向かい合い、椅子の後ろに立つようにしていた。
その一瞬の激変に唯花は全く動じておらず、さも当たり前のように、田原と共にそれぞれの前にある椅子に座る。
その際唯花は、提げていた買い物袋を椅子の下の荷物置き場であるバスケットに入れた。
「すみません、注文いいですかー」
田原が手を上げて店員を呼ぶ。
店内はありふれた昼下がりの客足といった様相で、別段変わったことはない。
田原や唯花の突然の出現に誰も驚くことはなく、最初から二人がそこにいたかのように時間は流れている。
「ブレンドをホットで一つ、唯花君はどうする?」
注文を取りに来た店員がメニューを出す前に田原が注文し、そのまま唯花に促す。
「モンブランとホットティーで」
唯花もまた、メニューを見ずに注文する。
「へえ、唯花君はモンブラン好きなの」
「話を早くしてください」
「手厳しいねぇ。僕としては、たまには雑談もしたいところなのだけれど」
「私は貴方とは仕事の話以外をしたくないので」
「そんなにストレートに言わなくても……ちょっとおじさん傷ついちゃうよ」
唯花は着ていたカーディガンのポケットから眼鏡を取り出してそれを付け、冷めた眼差しを田原に向ける。
一方の田原は取り付く島もないことを理解して、やれやれと、変わらず笑顔を浮かべながら口を開く。
「話に入る前に一個だけ聞こう。唯花君はこの雨鉾で一月平均何人のエラー……すなわち歪が生じるかを知っているかな」
「多くて二人。ほとんどがゼロ」
「うん、その通りだね。でここからが本題なんだが、今月だけでなんと新たに666人が歪を発現させている」
唯花の目が少しだけ見開かれる。
「で、更に今日まででその内の270人が死亡している。それ以外の人間も百を超える数の犠牲が出ている」
「――何処で?」
そう唯花が問うたときに、店員がホットティーとコーヒーを運んで二人の卓に置いた。
田原は置かれたコーヒーをゆっくり飲んでから口を開く。
「勿論ここでさ。驚いたことに、もう浸食されているんだよ。僕たちですらちょっと感心してしまうほどの速度と規模でね」
「原因は?」
「調査中だね。何分こうも見事に重ねて浸食してきたものだから、『自治会』の各派も甚く興味を抱いているよ。それぞれが活発に、それでいてこっそり動いている感じだ」
生じる、若干の間。
「……田原さんは、どちらの用件で来たんですか」
「今日の僕は極めてニュートラルだよ。唯花君には、僕のいつものポリシーで、僕なりの現状報告と相談をしにきただけ。『自治会』も君には好き勝手動いてもらわないと困るだろうから、各派の動きは共有しないつもりでいるよ」
「では聞きますが……一体誰が、何を、何のために?」
「とりあえず言えるのは、舞台を作って、そこで混ぜ合わせているということかな。より深く、より複雑な歪を生み出すために。さながら蟲毒だ。何のためにかは、正にそのためなんじゃないかな?」
「致命的な歪を生み出すため」
「そうだね」
「誰が?」
「まぁ予想だが……僕たちと同じ存在による行為かもしれないね」
「――――咎人」
やってきた店員がモンブランを唯花の前に置くのと、唯花がそう口にするのは同時だった。
「仮にそうだとした場合、その咎人はどこから?」
「普通に考えれば、初めからこの街にいた者だが――もし外から来たとあれば非常に面白い。その咎人は、もしかしたら今起こしている事象を通して、臆面も無くこの街の根源を狙っているのかもしれない」
「なら狙いは、私ですか」
田原の笑みが深くなる。
「ま、可能性は高い」
「だから田原さんは私のところに来た」
「あくまで推測だけどね。でも聞いておいて損はないでしょ。僕としては君が今すぐ事態を解決しに残る歪を皆殺しにしても良いし、いるかどうかわからない原因を探りにいっても良い。どっちでも面白いことになる」
「相変わらず最低ですね」
「相変わらずさ。僕は面白い方が良い。君に話したのもより面白そうだからってだけ」
唯花はポットからカップにお茶を注ぎ、それを飲む。
その間、思案する。
彼女の中で、話を聞く内に浮かび上がるものがあった。
それを整理する中――
「君の考えている通りだよ。唯花君」
唯花はお茶から田原に視線を戻した。
田原は、笑顔のまま続ける。
「巻き込まれているよ。舞台の役者に仕立て上げられた者達がいる。その中に含まれている。君が今思い描いたものが」
そう言って田原は、革の鞄から封筒を取り出し、そこから幾枚かの写真を出してテーブルに広げてみせる。
その一枚一枚に、別々の人物が映っている。
唯花はそれらの写真を一通り見てから、無言で立ち上がった。
「あれ?もう行くのかい」
「ええ。貴方の思惑に乗ってあげます」
「なにもそんなに急がなくてもいいじゃないか」
「――急がせたのは、貴方でしょう」
その後、ご馳走様でしたとだけ言い残し、唯花は買い物袋を手に取って田原を置いて店を出る。
店内にありがとうございましたという店員の声が響く。
一人残された田原は、スーツの内ポケットから煙草を取り出して吸おうとしたが、禁煙席であることに気づいてそっとしまった。
そして、唯花が一口も手を付けなかったモンブランを手に取り、これまた唯花が触りもしなかった小さなフォークを用いて口に入れ、ほうと息を吐く。
「……美味しいなぁ、このモンブラン」
「唯花君も食べてから行けばよかったのに」
次の瞬間、田原は店内から消えた。
テーブルからはモンブランも、二つのカップも一緒に姿を消しており、領収書と、そこに記載された額とぴったりの金額のみ残されていた。
しばらくして、一人の店員がその領収書とお金の存在に気づき、やや困ったような顔で回収してレジにまで持って行く。
その後も店内の時間は、何事もなく穏やかに過ぎるのみであった。