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朽木原唯花は少々、眼が悪い。
それは、「視力が」と一般的に連想する意味合いとは異なる。
彼女のその両眼――「澄み切った」という言葉では表しきれないほどの静謐とした輝きを秘めた瞳――は、人間が本来視認できないもの、あるいは、視認してはいけないものを、全て捉えてしまう。
故に彼女は、自分の両眼を「悪い」と自称している。
しかしながら彼女は、それに苦悩しているわけではない。
彼女は、その両眼を自身の個性として、既に受け入れていた。
春。
穏やかな陽光が降り注ぐ、ある日。
新興都市・雨鉾。
その心部に広がる、オフィス街区。
いくつもの高層ビルが、空に向けて伸びる光景。
昼時を迎えたためか、近隣に勤めている人々が忙しなく歩いている大通り。
その通りに面して立つ、とあるカフェの、日陰のテラス席に、唯花は座っていた。
黒のキャスケット帽を被り、緩やかなシルエットのグレーのニットセーターと暗色のスカートに身を包む彼女は、肩まである長く艶やかな黒髪とも相まって、目立たないながらも一度気づいてしまったら見続けてしまうような、不思議な――包み隠さずに言えば静かな魅力と言える――空気を纏っている。
その印象は、彼女の整った顔形も起因するものではあるが、仕事上の彼女にとっては都合が悪いものだった。
「それ故に」というわけではないが、唯花はフルリムフレームの眼鏡をかけて、自身を最も印象づけるパーツである両眼を隠すかのようにしている。
ただ唯花は、「眼が悪く」はあっても視力が悪いわけでは無い。
むしろ視力の点では、常人よりも遙かに遠くを見渡せるほどのものを持っている。
この眼鏡は、他人から自身の両眼があまり見えないようにすることと、そして、あまりものを直視しないようにという、二つの用途が存在しているのだが、この場においてそれを知る者は、唯花以外にいない。
唯花は、温くなったコーヒーが残るマグカップを両手で包み、道行く人を眺め続けている。
人、人、人。
唯花の目には、その一人一人に対して見えるものがある。
それは何らかの形と色であり、時にそれは既存の物体に近しく見えるし、あるいは文字の羅列にも、図形にも見える。
中には、まるで規則性のないものも存在している。
仮に、彼女の見ているその混沌とした景色を他の人間が見れたところで、そこに意味を見出すことはできないだろう。
スーツ姿の男性がスマートフォンを持つ右手に纏う、炎のような蒼の揺らめき。
仲良く友人と話しながら歩く女性の、その全身を包むかのようにして這い回る鈍色の光。
車道のすぐ側で弁当販売をする初老の男性の額に重なるようにして浮かび上がっている、甲虫のような何か。
唯花にはそれらの可視物――彼女はこれを『歪』と呼ぶ――が何を示すものか、すべて直感的に理解できる。
できてしまう。
その歪を通して、個人が宿すものの全てを読み解くことすらできる。
それは、文字通り『全て』だ。
彼女の眼と……その視覚情報を解読する脳、あるいは別の器官か、それはわからない。
とにかくだ。
その眼を持つことが、唯花という存在の最大の要素であり、そして。
――だからこそ彼女は、今この場所にいる。
――標的となる者を見逃さないように。
――自分の目で直接確かめるために。
この街の、唯一の存在であるがために。
「……いました」
唯花が呟く。
彼女の瞳はすでに、ある一人の男性を捉え、その男性の歪を読み取っていた。
唯花は、温くなった少量のコーヒーをゆっくりと飲み、カップを空にしてから立ち上がった。
* * *
どこにでもありそうなワイシャツとスラックスに身を包む彼は、異様な喉の渇きを覚えていた。
早く潤したくてたまらないという欲求が、じりじりと首の内側を焼くような苦しさに変わっていく――禁断症状が出ていた。
彼は、その渇きを癒やす方法を知っている。
何をどうすれば良いか、よくわかっている。
そしてそれが――普通の人間にはできない芸当であることも、理解している。
だがそれを、彼はこれまで幾度となく実行してきた。
(――決めた)
自身の渇望を満たすための供物が、彼の目の前を歩いている。
若く健康そうな、ここらの街区で働いているのであろう女が、近くで買ったと思しき昼食を片手に歩いている。これからオフィスに戻るところなのだろう。
この女にまずは『針』を打ち込む必要がある。
『針』とは彼の持つ力であり、彼の欲求を満たすために不可欠なものだ。
彼は、その掌から常人には見えない不可視の『針』を作り出すことができた。
それは、全長1センチにも満たない本当に小さな針であり、刺されたものに痛みはない。
刺しただけでは蚊も殺せぬ何の意味も無い代物だ。
ただし、刺さってさえしまえば、あとは吸い上げるだけ。簡単である。
吸い上げれば渇きは満たされ、そして、吸い上げられたものは死ぬ。
男にはそれができる。
どうしてそんな力を得てしまったのか、もう彼は覚えていない。
気づけば存在していたその力のせいで、彼は四六時中喉が渇いて仕方なかった。
ただ、渇きが満たされたときの幸福感は、どんな肉体的な快楽よりも素晴らしい。
特に、吸い尽くした末に針を刺した対象が空っぽになって絶命する瞬間を感じ取るのは、最高だった。
最近はどんどん渇く感覚が早くなっている。このままではまずい。
だから早く吸わなくては、吸い尽くさなくては。
目の前の女の、何もかもを吸い付くさなければ。
男が掌に針を作り出す。
あとはこの『針』を女に向けて投げるだけだ。
焦らず冷静に、いつも通り手首のスナップだけで眼前の女に向けて『針』を――
投げようとして、男は止まった。
前方。
今し方、針を投げようとしていた女の歩く先。
道行く人の中。
男を見つめる存在がいた。
朽木原唯花が、吸い込まれてしまいそうな闇を湛えた瞳で、男を確かに視認していた。
「あ――」
男が、間抜けな声を漏らす。
直後総毛立ち、汗が噴き出てくる。
気温が一気に下がったかのような冷たい感覚。
この男は朽木原唯花を知らない。
だが、この雨鉾の街に存在する『執行者』は知っている。
男は、こちらを見つめているあの女がそれだと、直感した。
だから男は、『針』を投げることなく唯花に背を向けて逃げ出した。
いくつもの人の群れを避けて、時にぶつかりながらも、とにかく逃げる。
間違っても人のいない所に逃げてはならない。
そんな場所に逃げ込むのは、男のような日陰の世界を根幹とするものには自殺行為だ。
そこでは本当に何もかもが許されてしまう。
常理より外れた大きな歪みが、自分を喰らってしまう。
とにかく、遠く――
この雨鉾から、もはや逃げるしかない。
そこまでは他の人間の目があるところを伝えば、あの女は自分に何もできないはず――
べぎめぎぐりっ
あえて文字にするならそんなような奇怪な音が響き、男は盛大に転倒した。
そして、激痛が男の全身を駆け巡る。
男の右足は、捻れに捻れて、雑巾のように絞られて、原型をとどめていなかった。
自分の足のグロテスクな惨状を見て血の気が引きながらも、痛みのせいで男は絶叫する。
こんなことが起きれば街は騒ぎになるはず――が、どういう訳か、あふれていた人の一切が消え、昼下がりの大通りには、痛みで泣き叫ぶ男以外、誰も存在しなくなっていた。
悲鳴のみが響く、異常な静寂。
そして、いつの間にか唯花が、男を見下ろすようにして立っていた。
「これでは話せないですね」
唯花がそう呟いた直後、男の右足から発されていた灼熱のような痛みが引いた。
男が視線を自分の右足に再び移すと、そこには何も無かったかのような正常な足が存在していた。
当然だがこの時点で、男は状況に全くついていけていなかった。
男は地に伏したまま、唯花を見上げる。
腰が抜けて立ち上がることができない。
「私が誰か、わかりますか」
「こ、殺さないでください!」
唯花の問いに対し男は、回答ではなく、涙ながらの必死な懇願を返す。
「まだ、何もしてないです。まだ殺してないから! だから、許してください。ごめんなさい、ごめ――」
「いや、もう6人殺していますよね?」
表情を変えないまま放たれた唯花の言葉によって、男の心臓の動悸が更に激しくなる。
「嘘は、だめです」
汗も呼吸も、何もかもが過剰になっていく男を、唯花はただ見つめている。
読み取っている。
「あなたはこれまで、常人を殺している。封を施すこと無く、自分の歪をばら撒いている。それはこの街の唯一つの決まりに反する。だから私がここにいる」
そこまで唯花が口にしたところで、男が火事場の馬鹿力でも発揮したかのように跳ね起きた。
そして、その右手にありったけの『針』を蓄えて唯花に叩きつけようとする。
が。
男の右腕が、動きの途中で突然動かなくなった。
それと同時に、蓄えられていた針が霧散する。
急に右腕だけが中空に固定されたかのようだった。
否、固定されていたのだ。
男の腕を空間に縫い付けるかの如く、長い、槍のような『針』が男の右腕に穿たれていた。
男はそれを、一目見て理解した。
それが、自分がこれまで使ってきた針と同種の――彼の力をそのまま大きくしたものであることを。
「目には目を、です」
これから何が起こるかを男は直感的に理解する。
それにより悲鳴を上げかけた瞬間、その開いた口に大きくなった針がねじ込まれる。
続けざま、四肢も同様に穿たれ、さながら昆虫標本のように男は中空に磔にされた。
針で穿たれた箇所に、痛みはない。
針は、見た目では男の頭蓋を貫通しているのに、男はまったく命に別状はなかった。
しかし彼の目は恐怖で絶望に染まりきっており、涙と鼻水と涎を垂れ流しながら、開かれた口で必死に何か言葉を発しようとする。
だが、口内では舌すらも固定されてしまっているため、荒く呼吸をすることしかできない。
「これから貴方は報いを受けます。その前に、一つ間違いを正しておきます」
唯花は、もがく男の姿を一切の慈悲なく眺めながら、話を続ける。
「ここは歪の街。数多の忌異が許される場所。ですが全くの無法というわけではない。貴方はそれを都合良く見誤った」
以上です。
と、告げて――
唯花は、男に背を向けて歩き始めた。
息苦しそうな慟哭を上げながら唯花を呼び止めようとする男。
その全身に、ちくりと痛みが走る。
そして、自分の中の何かが、針で穿たれた箇所から、じょじょに、本当に少しずつ中空に流れ始めているのを感じてしまった。
男は理解した。
このまま、少しずつ自分は、吸い尽くされて死ぬと言うことを。
そしてそれこそが、あの女が自分に与えた、長い長い罰であることを――。
* * *
それは唯花からすれば、時間にして1秒も満たない一瞬であった。
目の前の女性に凶行を働こうとした男が、唯花に気づき目が合った瞬間、彼は全てを唯花に掌握された。
それは文字通り『全て』だ。
目が合った直後に男の両眼は虚ろになり、しばらくその場で立ち尽くしていたかと思うと、やがてゆっくりとした歩みで男はその場を後にした。
彼の精神は既に唯花によって身体と切り離され、圧縮された別の時間の中に閉じ込められている。
その時間の中で彼は、少しずつ自分が失われていくという、自らが行った凶行と同じ苦しみを味わい、彼はその果てに死ぬ。
唯花はそれを6回繰り返すように設定していた。
一方の身体は、唯花によって与えられた「人気の無い場所へ行く」という命令に従って歩を進めている。
精神が責め苦によって果てる頃には、身体は既に適当な場所で座るなり倒れるなりして廃人のようになっているだろう。そこからは、唯花の言うところの『表側』の世界の仕事だ。
少々『表側』の仕事の人にこの後面倒を押し付けてしまうが、最終的な変死体が一人減ったので結果的に彼らの仕事を減らすことにはなっている。唯花はそう考えることにした。
――さて、帰りましょう。
春の日差しは、暖かい。
唯花の中に、先ほど執行した男に対しての関心は既にない。
それどころか。
「……お夕飯」
この後の時間の過ごし方で、とっくに上書きされていた。