ある男子中学生の夏休み
夏の太陽は向こうまで広がる海水浴場を照らしつけていた。多くのビーチパラソルが所狭しと並び、騒ぎ声と笑い声の中、日に焼けた男女が行き交った。喧騒の海水浴場の外れにはコンクリート製の防波堤がL字型に200mほど海に突き出ており、その先端には水着姿の4人の男子中学生がいた。
4人の中でリーダー格を自認するのが細身の翔太だ。翔太は恐る恐る前かがみになって、4mほど下の海面を覗き込んだ。前髪の間から見える海は穏やかな波に揺れていたが、その高さは恐怖だった。翔太は青ざめた顔を悟られないように無理に力強く、
「いいか、俺が飛び込んだらお前らも飛び込めよ。根性試しだ」と言い切った。
だらしない長髪の淳之介は贅肉のついた太めの体に汗をかきながら、
「いいから早く飛び込めよ。翔太が言い出したんだからな。でも思ったより高いな」とぶっきらぼうに言った。
いつもきちんと髪を整えて痩せぎすのヒトシは真面目な優等生らしく、
「怖いならやらなくていいでしょ。怪我したらみんなに迷惑かかるよ」と淡々と言った。
翔太はむっとして、
「怖くなんかねーよ!」と言い返したが、改めて海面を覗き込むとやはり恐怖だ。翔太は、怪我をして苦しみながら溺れる自分の姿を想像すると足が小刻みに震え出した。命の方が大事だ、翔太がそう言いかけて振り返ると、ヒトシと武夫は白けた顔をしていたが、淳之介はにやにやと馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。
ここで引き下がったらなめられる、翔太は汗ばんだ拳を握りしめ、
「いいか、俺が飛び込んだらお前らも飛び込めよ」ともう一度強く言った。
淳之介は日に焼けた顔で見下すように「嫌なら別にやらなくてもいいぞ」と言った。
じりじりと太陽が肌を焦がし、足元には濃い影を作っていた。翔太はもう一度海面を覗き込んだ。汗が額を落ちてきた。
「やっぱり…」と翔太が言いかけたその時、二、三歩誰かが駆け寄ったかと思うと、浅黒い人影が空中に飛び出た。人影は弧を描いて海に吸い込まれ、波しぶきを上げて海中に姿を消した。すぐに海面からスポーツ刈りに筋肉質の上半身が姿を現し、
「おおい、大したことないよ」と大きな声を出して叫んだ。武夫だ。
淳之介とヒトシは驚いて
「武夫すげえな」「すげえじゃん」と叫んだ。
淳之介は少しおびえていたが防波堤のへりに腰を下ろしてそのまま海に飛び降り、ヒトシは鼻をつまんで体をまっすぐにして足から飛び込んだ。人が飛び込むたびに海に映った真昼の太陽は崩れたがすぐに平穏を取り戻した。翔太は防波堤に一人取り残され、海に浮かぶ3人を呆然と眺めていた。淳之介が叫ぶように
「翔太も早く来いよ」と言うと、急に我に返り、
「わぁぁー」と雄たけびを上げて、真夏の海に飛び込んだ。
海水浴場の砂浜は、波の音と騒がしい人の声が満ちており、翔太、淳之介、ヒトシ、武夫の4人は濡れた水着のまま車座になって座っていた。淳之介は額の水滴をぬぐいながら感動した様子で
「それにしても武夫はすげーよ。あの高さを一気に飛び込んじゃうんだから」と言い、ヒトシも濡れた髪をかき上げながら
「武ちゃんが飛び込んでくれなかったら俺らも飛び込めなかったよ。最初にあれだけ思い切りよく飛べるのはすごいよ」と興奮した様子で言った。もともと口数の少ない武夫は日に焼けた筋肉質の体で
「まあ、あれぐらいの高さなら小学校の時に飛んだりしてたからさ。家の2階からとか」
と少し得意そうに言った。翔太は武夫に注目が集まるのが気に入らず、
「武夫はたまにヤケクソの一発が出るから…」と言い出すと、淳之介が遮るように
「でも、すげえだろ。あの高さを助走つけて飛ぶんだから!」と大きな声で言った。ヒトシも「武ちゃんは運動神経もいいし度胸もあるね」と褒めちぎった。
翔太は上手く会話に入れず、黙ったまま、最初に飛び込むのをためらってしまった自分を悔いていた。あそこで躊躇せずに飛び込めば俺が一目置かれたのに。
日差しが若干穏やかになり、影が少し長くなってきた。潮風に乗って屋台の焦げた臭いが4人の辺りに漂った。
「おい翔太」淳之介が急に声をかけた。翔太が日差しを眩しそうに顔を上げると、淳之介が
「そういえばお前に借りてた漫画本だけど、まだ読み終わってないから返せないからね」と悪びれもせずに言った。
翔太は、分かったよ、とだけ答えた。翔太は淳之介の口の利き方が気に入らず、前は俺のことを「おい」なんて呼ばなかったし、それにあの漫画は弟のだからちゃんと期限に返して欲しかったのに、と不満を募らせた。これ以上なめられてたまるか。翔太は強く思ったがどうすればいいのか分からなかった。
額に陽が当たり熱そうに汗を浮かべた淳之介は内緒話でもするように顔を近づけ、
「俺らも男ばかりだとつまらないよな。誰か女子に声かけてみようぜ」と小声で言った。武夫は、はははと笑いながら、
「ナンパするの?俺ら中学生が相手にされるわけないじゃん」と言い、ヒトシも不安そうに
「失敗したらみっともないよ」と言った。
淳之介は額の汗をぬぐうと諦めたように
「やっぱ俺らは女子をひっかけられるようなタマじゃないよなあ」とため息交じりに言った。翔太は3人がひるんでいるのを見て、すかさず
「なんだ、お前ら女子に声をかけるのもできないのか。じゃあ俺がやってやるよ」と胸を張って言った。翔太は言い終わってから、しまった、と後悔した。3人に威張るため、何も考えずに言ってしまったのだ。
3人は目を見開いて、「すげぇな。やってみてくれよ」と驚嘆しながら言った。
日差しは昼に比べれば弱まっていたがまだまだ強かった。海水浴場から帰る人もちらほら目につき始める時間だ。翔太は立ち上がって水着の砂を払うと太陽を背に
「見てろ」
と強く言い切った。ヒトシは翔太を眩しそうに見上げながら、
「馬鹿にされるのがオチだぞ」
と少し心配そうに言った。淳之介はニヤついた顔で
「翔太先生がどれぐらい女子にもてるか見てみたいね」
と言った。淳之介が先生と言う時はいつも人を馬鹿にしている時だったので、翔太はまたむっとした。
翔太は潮の匂いを大きく吸い込み海の方を見た。大海原の水平線には小さなタンカーが数隻浮かび、海岸から数百メートルのところには丸型のブイがいくつも波に揺れていた。翔太は砂浜を一瞥すると、高校生ぐらいの女性が一人で寝そべっているのが目に入った。翔太は3人に目配せをして、小声で
「あそこの女子を連れてきてやる」と宣言した。3人は無言のままうなずいた。
翔太はビーチサンダルを履くと、まるで喧嘩にでも行くように肩を怒らせて歩き出した。砂浜の砂は熱く、サンダル越しにも熱が伝わってきた。いくつものビーチパラソルやレジャーテントの間に、女性はレジャーシートを敷いて仰向けになって寝ていた。小麦色に焼けた胸元には汗の粒を浮かべ、軽く太陽を反射させていた。翔太は女性を見下ろすように立つと、
「す、すみません」と思い切って声をかけた。後ろからは3人が興味津々で翔太を眺めているのが分かった。女性は日差しに手をかざして目を開けると体を起こして
「はい…?」と答えた。翔太はなるべく平静を装って
「も、もしよかったらあっちで友達と一緒に遊びませんか」
翔太は極度に緊張していた。女性は髪についた砂を払いながら不思議そうな顔で
「人違いじゃないかしら」と言った。翔太は恥ずかしくて目を合わせることができなかった。
「いや、人違いじゃなくて…一緒に遊ぼうかと思うんですけど…」
と言うと、女性はしばらく黙っていたが、
「ひょっとして、君、私のことナンパしてるの?」
とあきれたように言った。翔太は汗だくになって早口で
「そうです」と言った。翔太はナンパなんてしたことを猛烈に後悔していた。逃げ出したかったが後ろから3人が見ている手前、逃げ出すわけにもいかなかった。
女性は、目を細めて可笑しそうに、あはははと笑うと、
「可愛いわね。君、何て名前なの。中学生?」と聞き、翔太は汗を垂らしながら
「翔太って言います。中2です…」と顔を真っ赤にして答えた。女性は愉快そうな笑顔を浮かべて
「ふふっ、中学生なんだ。私は園子って言うの。おばあさんみたいな名前でしょ。苗字は大きく生まれるって書いて大生ね」と言った。そして、「高校に行っていれば高校3年生だね。だいぶ前に辞めちゃったけど」と海の方を見ながら言った。
園子は立ち上がって、胸元の汗をタオルで拭うと手提げかばんの中からシャツを取り出した。園子が動くたびにサンオイルの強い匂いが漂い、翔太の鼻をついた。園子は水着の上からストライプのシャツを羽織ると、翔太の方に視線を向けて「残念だけどもう帰るのよ」と言った。園子はかばんの中を探って手帳を取り出すと、ボールペンで何やら書きつけ、そのページ破って翔太に渡した。
「これマンションのフロントの電話番号だから。1時間後に電話ちょうだい。私の名前を呼び出してくれればいいから。小型船舶と免許を持っている女友達がいるから一緒に船に乗って夕陽でも見ようよ」と言った。翔太は女性の字で書かれたメモを受け取り
「あ、ありがとうございます」と慌てて言った。
園子は水着の上から着替えるとレジャーシートの砂を払い、「じゃあね。また後で」と言って、かばんを持って海水浴場の出口の方へ歩いて行った。翔太は園子の姿が見えなくなるまで後姿を眺めていた。
陽はだいぶ穏やかになり、海水浴客も減ってきた。時々涼しい潮風が翔太、淳之介、ヒトシ、武夫の間を通り抜けた。4人は翔太を中心に話を聞き入っていた。翔太はことさら威張るように
「だから、俺は女子にもてるんだって。俺が一声かければ女子と遊ぶなんてすぐだよ。ボートに乗って夕陽を見るなんてめったにないぞ」と言った。
3人は口々に「すげえな」「なんか面白いことが起こりそう」「クラスで自慢できるな」と言った。翔太は防波堤での失敗を完全に取り戻した感触があった。翔太は強い口調で
「おい淳之介。この前貸した漫画、さっさと読んで返せよ。弟の漫画なんだから」と言うと淳之介は恐縮したように
「悪かったよ。すぐ読むから」と言った。
潮が満ちてき、海水浴をする人もほとんどいなくなった。海の家ののぼりが夕暮れ時の太陽を浴びながら潮風にはためいていた。
翔太は携帯電話を取り出して時間を確認すると、高揚した口調で
「時間だ。園子さんに電話するぞ」と言った。
3人はじっと翔太に注目した。翔太は園子にもらったメモを取り出して電話番号を入力し、通話ボタンを押した。ワンコールの後、電話から聞こえたのは野太い男の声だった。
「はい警視庁です」
「えっ…」
「警視庁です」
翔太はびっくりして
「す、すみません。間違えました」
と早口で言って電話を切った。淳之介が「なんだよ。間違えるなよ」、武夫も「落ち着きなよ」と笑いながら言った。
翔太は彼らの声を無視して、もう一度メモを見た。女性の字で少し右上がりに電話番号が書いてあった。
「03-××××-×110 大生園子」
そうだ、末尾が110ってことは警察の番号だ…どうして…翔太は事態がよく呑み込めなかった。
淳之介が「早くもう一度かけろよ」と催促したが翔太の耳には届いてなかった。翔太はメモを見ながら園子の名前を何度も反芻した。
「園子… 大生園子… オオウソノコ… 大嘘の子…」
騙された!翔太はようやく自分が女性にあしらわれたことに気が付いた。
3人が翔太の顔を覗き込むように「どうしたんだよ。早くかけろよ」と言った。
やばい、もう女子のことはどうでもいい、こんな失敗がばれたら一生馬鹿にされる。翔太はこめかみの汗を払うと平静を装って「今かけるよ」とだけ言い、自分の電話番号をプッシュした。ツーツーツーと機械的な通話音が流れた。
「ああ、もしもし園子さん?翔太です。約束の時間になったけど…ああ…あっ、あーそうなんだ。頭が痛いんだ。風邪引いたのかもしれないね…」
翔太は一人芝居でしゃべり続けた。翔太は自分のことを凝視する3人の視線を痛いほど感じた。
「うん…俺らよくこの海にいるから、また会ったら一緒に遊ぼうね…」
翔太は電話を切った。
潮風で乱れた髪をかき上げながらヒトシが「園子さん風邪引いちゃったの」と言った。翔太はわざとらしく眉間にしわを寄せて残念そうに
「そうなんだ。園子さんは俺らと違ってお嬢様だからこの暑さはこたえたのかもしれない」と言った。
翔太は3人の顔を見ると、3人ともしょげた顔をしており、一人芝居が上手く行ったことを感じた。そう簡単に隙を出してたまるか、翔太は強気を取り戻した。武夫が残念そうに「園子さんの苗字ってなんだっけ。またこの海に来た時に電話してみようよ」と言った。翔太はすかさず
「知らないよ。もういいだろ。こういうのは一期一会なんだから、しつこくしたら嫌われるだろ」
と説教するように言い、
「俺らももう帰ろうぜ。俺が女子にもてるのが分かったからいいだろ。今度俺のナンパテクを伝授してやるから。そうしたらすぐ女友達ができるぞ」と言った。翔太は虚勢を張って自分の威信を保つのに必死だった。
夕焼けが4人を照らし、涼しい潮風が通り抜けた。人影の少ない砂浜には誰かが忘れていったビーチサンダルが長い影を作っていた。
一週間後。
夏はまだ盛りで残酷な直射日光と肌にまとわりつくような熱気が毎日を支配していた。翔太ら4人は再び海に来ていた。4人は水着姿で円陣を組むように砂浜に腰を下ろし、おしゃべりをしていた。翔太は強い日差しを眩しそうにしながらも威張った様子で
「いいか淳之介。ナンパってのはまず、ハイかイイエで答えられる簡単な質問から始まって、女子が好きな話題に膨らませていくんだぞ。自分が話したい話題じゃないぞ」と講釈を垂れていた。インターネットで得た浅はかな知識だったが、淳之介とヒトシと武夫はまじめに聞き入っていた。翔太は日に焼けた淳之介の肩に手を置くと
「じゃあ淳之介、あそこにいる女子中学生3人組に声かけてこい。お前はまだ女子高生を狙えるタマじゃないからな」と言った。淳之介は翔太の手を少し痛そうにしたが「分かった。行ってくるよ。失敗しても笑うなよ」と言って、立ち上がった。ヒトシと武夫は「がんばれー」「ファイトー」と部活の応援のように声をかけた。
砂浜にはあちこちにビーチパラソルとレジャーテントが立っており、淳之介はそれらをよけながら水着姿の女子中学生3人組の方へ歩み寄った。翔太ら3人は固唾をのんで見守った。淳之介が女子中学生に声をかけると、何やら話が盛り上がり、しばらくすると淳之介が戻ってきた。翔太が「どうだったんだよ」と聞くと淳之介は嬉しそうに
「うまく行ったよ。今日はあの娘たち、これから別のところに行くみたいで遊べないんだけど、週末の江戸川の花火大会に一緒に行ってくれるって。土曜日の5時に新小岩駅待ち合わせ」と言った。
翔太は淳之介のナンパが上手く行ったのが内心気に入らず、
「俺がやり方教えてやったから上手くいったの忘れるなよ」と釘を刺した。
淳之介は額に汗を垂らしながら「分かってるよ。翔ちゃんには感謝するよ」と言った。
淳之介が女子たちの方を振り返ると、女子3人組は大きく口を開けて笑いながら手を振った。淳之介は大喜びで手を振り返した。淳之介は顔を赤らめながら「あの娘たち愛想よくて可愛いよね。クラスの女子と大違い。俺の彼女になってくれないかな」と興奮気味に言った。さらに「みんな凄く可愛く笑ってくれるから、俺にちょっと気があるかもしれない」とだらしなく笑った。
大はしゃぎの淳之介を見て、翔太はふと気になり
「あの娘たちの名前なんて言うの」と聞くと、淳之介は胸を張って、自分の恋人の名前でも呼ぶように誇らしげに言った。
「あの一番可愛い子が、かな子ちゃん。大場かな子」 大馬鹿な子-