其ノ捌
「辰次か……」
張ったふくらはぎを揉みしだく。なぜか妙に辰次の面影がちらついた。あの品がそうさせるのだろうか。あれは武士に似た品格だ。
まるで実家のような。
「父上……」
虚ろな目をした鋼之助は、実家に思いを馳せた。
鋼之助の実家は、八千石の大身の旗本の瀧澤家だ。
父の瀧澤亮之助景親は、ひとつき近く前にこの世を去ったばかりだ。父は最後の務めとばかりに、次男の鋼之助の行く先を決めたのだ。
鋼之助は足を投げ出したまま天井を見上げた。行灯のほのかな明かりが届かない暗闇が、蠢く。
「……っ」
ぎゅっと瞼を閉じると、ここ一月の間に起きたことが、さまざまと甦ってきた。
──一月前。
鋼之助がいつものように部屋にこもって絵を描いていると、突然、父に呼ばれた。
すでに父は床に伏せて半年近く経っている。
もしやと思い、急いで参じると、父の亮之助から佐倉家への養子の話が、なんの前触れもなく出たのである。とは言え綱之助は佐倉という家を知らず、このとき初めて聞く家だった。
すでに瀧澤家の家督は、兄である文之助が継いでいたので、次男である鋼之助は冷飯食いの厄介者だった。
それでいて剣の腕がたつわけでも、とりわけ頭が良いわけどもない。加えて極度の上がり症で人見知りで口下手であったのだ。
あえて得意なことを上げるとするならば、絵を描くことぐらい。
それでも鋼之助より上手い人間はごまんといるだろう。
幼い頃から鋼之助は、一日中部屋にこもり、好きな絵を描いて過ごしていた。
武士の家の子であるにも関わらずまったく刀に触ることもせず、筆ばかりを手にしていたのである。時間も忘れて、思いのままに筆を動かしていたのだ。
だがいつ頃からか、鋼之助はこのままではいけないと思うようになっていた。
父の庇護があるから、自分は好きに絵を描けていた。
しかし今。瀧澤家は兄の文之助に代替わりしている。いつまでも兄が守ってくれるわけでもないし、守られてるだけではいけない。
兄弟といえど、無用な者にただ飯を食わし続けるわけがない。文之助には後継ぎもいる。
だから鋼之助を、いつだって切り捨てることができるのだ。
正直、文之助と鋼之助は良好な関係ではない。仲が悪いというわけではないが、年が離れているせいか、お互いに率先して口を交わすことはなかった。
文之助は鋼之助とは違い、剣術に優れ、秀才でもあった。人当たりも良く秀でた兄に、鋼之助はいつも引け目を感じていたのだ。
父から養子の話が出た三日後には、義父となる佐倉新八郎と対面した。その五日後には、瀧澤家と縁を切り、佐倉家に入ったのである。 そしてすべてが終わるのを見届けたように、父は息を引き取った。
最期に父に会ったとき、父は言った。
「名に恥じぬように」
鋼之助が元服し、幼名から新しい名を授かったときにも、父は同じことを言った。
──鋼のような意志、鋼のような心を。
鋼之助という名には、そんな想いが込められている。父は鋼之助に、強い人間になれと言いたかったのだ。心も、身体も。
それが、どうだ。今の己のざまは。己の不甲斐なさに唖然とする。
父が佐倉家に養子に出したのは、きっと鋼之助にやり直させるためだ。
新しい環境でやり直せ。
これは、父が最期にくれた機宜なのだ。
(しっかりするんだ)
亡き父を最期まで気に病ましていた自分。
今度こそは変わるんだ。
鋼之助は瞼を開け、天井の闇を睨み付けた。
◇◇◇
鋼之助が部屋に引っ込み、中間の弥彦も休みに入って、二刻(四時間)近く経った頃。
時刻はもう四つ半(十一時)を過ぎている。辺りは虫の音が聞こえるくらいで、静かだった。世間はとっくに寝静まっている。
新八郎は庭に面する濡縁に出た。
現役の頃は、毎朝ここで髪結いに髪と髭を当たってもらっていた。同心と与力は、毎朝無料で髪結いが来て、当たってもらえる特権がある。たった三日前のことなのに、もう懐かしく思っている。そして僅かな寂寥感。新八郎は苦笑した。
(今からこれでは、隠居生活はどうなることやら……)
今朝からは、養子にした鋼之助が初々しく当たってもらっている。
髪結いの世間話に、ぎこちなく返事をするさまは微笑ましい。きっと、かつての自分もそうだったのだろう。
「新八郎」
物思いに耽っていると、庭先の暗闇から声がかかった。皓々と照らす月光も届いていない。深い闇からの声。新八郎は表情を引き締めた。
「来たか……」
これから、もうひとつの報告が始まる。