其ノ漆
◇◇◇
日が暮れた頃。
綱之助は重い足取りで、やっと八丁堀にある佐倉家の役宅に着いた。早く座りたい。そうは思うが、疲れきった身体は言うことをきかず。鋼之助はのろのろと、柱を二本立てただけの木戸門を通った。簡素な門である。実家の門構えとは大違いだ。だけど鋼之助には、仰々しく威嚇しないこの木戸門は、とても好ましい姿に見えていた。
「ただいま帰りました」
戸口を開き、声をかける。
すぐに、佐倉家に仕えている中間の弥彦が迎え出てくれた。
弥彦は中肉中背で、笑うと人懐っこい顔をする。年は四十半ばで、長年に渡り佐倉家に仕えて、義父である新八郎の世話をしていたそうだ。
佐倉家には弥彦しか下働きの者がいない。
「旦那さま、お帰りなさいませ」
「うん……」
「お疲れでしょう? ささっ、早くなかへ」
弥彦の気遣いに、ほっとする。一目でわかるぐらいに、肩が落ちた。
「大旦那さまがお待ちですよ」
「あ、うん」
また僅かに肩がいかった。もう一仕事残っている。
この家に養子として迎えられたとき、義父となった佐倉新八郎と、ある約束をした。
それは、一日の出来事をちゃんと報告すること。
簡単なことである。しかし鋼之助にとっては、気が重かった。
──今日あったことは……。
居間に向かいながら考える。今日は何をしたか、直接の上役になった人の名前は。頭を忙しなく働かす。
そうするうちに居間に着いた。
「お帰り」
居間に入ると、義父の佐倉新八郎がいた。
「は、ただいま帰りました」
鋼之助は立ったまま応えた。
新八郎の、よくよく日焼けした顔が朗らかに迎えてくれる。両鬢に白いものが見えるが、鍛えた身体は今も衰えてないようで、五十を過ぎるがずいぶん若々しく見える。身丈も僅かに綱之助より高い。
目鼻立ちは、くっきりしていて、苦み走ったという表現がぴったりの男である。
鋼之助は新八郎の前に座ろうとして、
「あ」
腰に刀を差したままだったことを思い出した。慌てて外して傍らに置く。
ちらりと新八郎を見れば、にこにこと穏やかに笑っていた。鋼之助は安堵の息をはく。
初対面の時から新八郎は、穏やかな顔をしていた。人を包み込むような、おおらかな雰囲気。まるで大海を連想させる。そのことが、どんなに鋼之助を安心させたか。
新八郎の持つ雰囲気。それは実の父に少し似ていたが、実父のほうはもっと厳しい面もあった。
──父上……。
父の面影を思い出し、腹に小さな痛みが走った。思わず手で押さえる。緊張したり、精神的な負担を感じるときは、いつも腹が痛くなってしまう。
「鋼之助、初出仕はどうだった?」
頃合いを見計らったように、新八郎に問いかけられた。鋼之助は慌てて背筋を伸ばした。
「は、あのっ……」
今日あったこと、今日あったこと……。
子供の頃から緊張すると、どもってしまう。何を言えばいいのか、何を言うべきなのか、混乱してしまい、頭が真っ白になってしまうのだ。この悪癖が、今まで何度も大事な場で醜態を晒したことか。今日だってそうだ。事前に何度も復習したのに、あの様だった。
「誰に付き従うことになったのだ?」
鋼之助の心情に気づいたのか、新八郎が手を差し伸べてくれた。
養子の話が上がったとき、実父は新八郎に、鋼之助が極度の上がり症のうえ、人見知りの口下手であることを伝えてくれていたらしい。まだ共に生活を初めて一月も経たないが、こうやって、助けてくれることがしばしばある。
鋼之助は必死にその手を掴んだ。
「はっ、か、片岡真太郎どのでございます」
「うむ。片岡は少々ぶっきらぼうなところがあるが、面倒見のいい男だ。お役目でわからないことがあれば、何でも聞けばいい」
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥と言うしな。と、おどけてみせた。
「は、はあ……」
ここは笑うべきかと思案していると、新八郎が誤魔化すように空咳をひとつした。笑うべきだったようだ。
「それで他には何があった?」
「は、えっと、市中の見廻りに……あ」
「どうした?」
「あの……」
鋼之助は畳に目を向け、視線をさ迷わせた。言うべきか、言わざるべきか。不平を言うようで嫌だが、先に聞いてたのとは話が違う。
上目使いで新八郎を見れば、話してみろと仕草で促された。
「あの……、わたしは、両御組姓名掛のみならいになると聞いてたのですが……」
両御組姓名掛とは、北南奉行所に属する、与力と同心の姓名帳の編纂や加除記入をする事務方だ。
お役柄、めったに人と会わないし話し相手もいないので、人見知りに上がり症の鋼之助は、ほっとしていたのだが……。 だが実際についた役職は定町廻りだった。定町廻りは、常に町を廻り、犯罪の探索や捕縛を担う役職だ。
つい最近まで部屋にこもりっぱなしだった鋼之助には、到底荷が重い。
「ああ、その予定だった」
「だった?」
新八郎の言葉尻に引っかかり、つい口に出していた。
「そなたの所属方を相談しているときにな、片岡が売り込んできたのだよ。自分がそなたを一人前にしてみせるとな」
そのときを思い出したのか、新八郎の肩がくつくつと揺れた。
「片岡どのが……」
確か片岡は、「おまえの指導役を任された」と言っていた。
(憶え違いかな?)
あのときは初出仕ということもあり、いつも以上に緊張していたのだ。だからきっと記憶違いだろう。鋼之助は、そう納得した。
「鋼之助」
「はい」
新八郎は穏やかな顔つきだったが、その眸には力強い光が灯っていた。無意識のうちに鋼之助は、新八郎が醸す雰囲気に引き寄せられていた。
「同心といっても、そなたはまだみならいだ。みならい中は、他の役方にも回されて経験を積むことになるやもしれん」
鋼之助は無言で頷いた。
新八郎は続ける。
町奉行所の二十以上ある役職のなかで、定町廻り・臨時廻り・隠密廻りの、いわゆる三廻りは、同心の役職のなかでも花形職であるのだ。望んでもなかなか配属されることはない。
なぜなら三廻りは、南北合わせても三十人ほどが定員なのだ。
「みならいといえど、今は定町廻りだ。この先、定町廻りに配属されるかはわからぬ。故に悔いなく、心して勤められよ」
これが同心としての、佐倉新八郎の顔なのだろう。
新八郎も現役のときは臨時廻り、そのまえは定町廻りを勤めたと聞く。
鋼之助に説く姿は、まさしく往年の姿を彷彿とさせる威厳に満ちていた。
「はい」
畳に手をついた鋼之助は、深く頭を下げた。
このあと、弥彦が膳を運んできて夕餉となった。食事の準備も弥彦が担っている。
食事を終えて少し会話をしたのち、鋼之助は自室に下がった。自室として与えられた部屋は、六畳一間の一番陽当たりの良い場所だ。以前は新八郎が自室として使っていたという。鋼之助が養子になるのが決まったおり、譲ってくれたそうだ。
鋼之助は刀掛けに刀を置き、羽織を脱いだ。筋肉の無い細い身体が更に細く見える。
「……疲れた」
足を伸ばして座った鋼之助の肩が、がくりと落ちた。深く息をつく。
──今日は本当に疲れた。
両のふくらはぎが張っている。足の裏も痛い。
こんなに外を歩いたのは、生まれて初めてだ。実家の庭だって隅々まで歩いたことがない。それを今日は、日本橋界隈をくまなく歩き回った。他の者からすれば、何てことないことだろう。だが自分にしてみれば大進歩なのだ。
ただ何回か気が遠退きかけたが……。
そのたびに、あの、妙に品のある岡っ引きの辰次が助けてくれた。