其ノ陸
片岡と辰次が歩くたびに、女達が色っぽい視線を投げかけてくる。
生まれてこの方、女のおの字も知らない、むしろ女が苦手な鋼之助は何だかいたたまれない。
刀のせいもあって、いつのまにか無口な小者の太助と並んで歩いていた。お世辞にも太助も、女に好かれるような顔ではない。
鋼之助は喋るのが苦手である。だから二人に会話は無かった。それでも妙な仲間意識が湧いたのか、互いに苦い笑いを交わしたのだった。
本町を過ぎて室町に入った。だんだん人の流れが多くなっていく。
「う、わあぁぁ……」
日本橋の手前に着くと、まさにそこは人の海だった。
日本橋から京橋界隈は、日本一の繁華街とは聞いていたが、実際に目にすると呆気に取られる。お江戸にこんなに人がいるとは思わなかった。
百聞は一見にしかず。
古人の言葉には、やはり納得する。
「なんだ、変な声を出して」
鋼之助の溜め息のような悲鳴のような声は、しっかりと片岡の耳に届いていた。
「あ、いえ、あの……」
「なんでえ、さっさと言わねえか」
片岡の声音に苛立ちが混じった。
「……っ」
昔、兄から「おまえと話すと苛立つ」と言われたことがある。鋼之助はこの兄が苦手だった。
怒鳴られると、つい身体を強張らせてしまう。そして叱られた子供のように、しゅんと頭を下に向けてしまう。
ああ、やはり自分はろくでもない人間だ。 綱之助が後悔の海に飲まれそうなその時だった。
「うわあっ?!」
突如聞こえた悲鳴に顔を上げれば、なんと片岡が、地べたに尻を付けていた。ぱちくりと、目を白黒させている。
「な、なんだ今……」
「大事無いですかい?」
すかさず辰次が片岡に手を貸して起こした。
「おう、ありがてえ。しっかし今のは何だったんだ?」
そう言うと、首を傾げた。意外に子供のような仕草をする。
「急に足下が消えたというか、浮いたというのか……」
そう言って、腕を組んだ。己の足下をじっと見ている。鋼之助も片岡の足下を見た。とくにおかしなとこはない。
変なものもいなかった。
「きっと、石ころでも踏んだんですよ」
辰次がそう言う。
だが石ころはどこにも見当たらなかった。
◇◇◇
夕暮れが近くなった。少し前に夕七つ(午後四時)の時の鐘が鳴っていた。
暦の上では春とはいえ、まだまだ夕方は寒い。
「今日はこのくらいで引き上げるか」
「は、はい……」
弱々しい声で鋼之助が返した。
(そうしてくれると、ありがたい……)
日本橋を中ほどまで渡ったあたりで、鋼之助は一瞬だが意識が遠退いてしまった。あまりの人の多さに酔ったのかもしれない。
しかしそのとき、異変に気づいてくれた辰次が、両腕を握って身体を支えてくれたのだ。
「大丈夫ですかい?」
赤子にするように、背中をぽんぽんと優しく叩いてもくれた。おかげですぐに気を取り戻した。
でなければあのまま、天下の日本橋で倒れてたかもしれない。
(しかし……)
まさか立ったまま気を失うとは思わなかった。
(本当に私は、一人で生きていけるんだろうか……)
あのとき。たくさんの人波の中で、急に独りぼっちになった気がしたのだ。
鋼之助が思考に耽っていると、片岡が声をかけてきた。
「おい佐倉。って、なんでえ、その顔」
「え?」
「ずいぶんと疲れきった顔をしてるぜ? いいか、同心というものはな、常に格好に気をつけてねえといけねえぞ」
「はあ……」
気の抜けた鋼之助の声に、片岡の片方の眉が上がった。
「町人達にとっちゃあ、同心は一番身近にいる侍なんだぜ。俺達が舐められると御公儀を見くびる奴も出てくるかもしれねえ」
片岡は同心の御役目に誇りを持っているのだ。その眸は強い力を灯している。
声には成さずとも、生半可な気持ちで同心をやるなと、語っていた。
「……はい。申し訳ありません……」
鋼之助は深く頭を下げた。
思えば今日は、人の多さに圧倒され、ただただ片岡にくっついているだけだった。
片岡が腹立たせるのも当然だ。
「……今日は、もう帰っていいぞ」
片岡の言葉に、もう一度鋼之助は頭を下げた。少し、眦が熱い。
そうして鋼之助は片岡達に背を向け、とぼとぼと帰路についた。
◇◇◇
鋼之助の背中が小さくなっていく。片岡が重い溜め息をはいた。
「一体あいつは、何なんだ?」
なぜ佐倉新八郎は、あの男を養子にしたのか。はなはな疑問である。
「では、あっしもこれで……」
そう断った辰次も帰っていった。鋼之助と同じ方向に進んでいく。
「あれ?」
片岡は小さくなる辰次の背中を見ていると、疑問に思った。
「どうしました?」
一人残った小者の太助が訊ねた。
「いや、あいつ……辰次のことが記憶にねえ」
「へ?」
片岡のおかしな答えに、太助は素っ頓狂な声を上げた。そして病人を見るような目付きで片岡を見る。
「あいつは、俺の手先の岡っ引きだ」
それは知っている、わかっていると己に言い聞かしている。
「だ、旦那?」
変わり者のみならい同心の世話で、ついに気がおかしくなったのかと、太助は心配になった。
しかし片岡は太助を気にせず、ぶつぶつと呟いてる。
「だけど……」
今日より以前の、辰次との思い出が無い。
片岡の記憶の中には、辰次の姿は一切浮かんでこない。でも自分が抱えている岡っ引きだと、自信を持って言えるのだ。
そんな片岡の独り言に、太助が青くなった。
「た、大変だ……っ!」
そして今にも医師を呼びに行こうとしていたのだった。




