其ノ伍
日が高い。
この国の大いなる女神の輝きは、あまねくすべてを照らす。どんなものにも。
その恩恵は数知れず。
しかし土竜や海の底で生きる生物は、太陽の輝きが無くても生きていけるという。
必要としないから、土竜は目が退化し、ほとんど見えないそうだ。
深海の魚もそう。目が使えないものが多いらしい。目の代わりに様々な器官が進化し、そのおかげで不自由無くいられるのだと。
自分もそうだったらよかったのに。
何度そう思ったことか。
見たくないもの、聞きたくないものを遮断し、皆と同じ世界だけを見ていられる。
そうであったら、
(嘘つきにならなかったのに……)
そしたらきっと、もっと普通でいられたはずだ。
この日、みならい同心として初出仕した佐倉鋼之助は、空を見上げていた。南町奉行所を出てすぐである。
門番がおかしなものを見るような目で、鋼之助を見ている。鋼之助はすぐに顔を伏せた。人と顔を合わせるのは苦手だ。今でこそ、ようやくここまでましになったが、まだまだ人付き合いは緊張する。
「……っん」
腹が、つきりと痛んだ。
手のひらに汗が滲む。緊張すると、いつもこうだ。
そんな鋼之助の背中を、片岡がぱしんっと叩いた。
「ひゃっ?!」
人に叩かれ慣れていない鋼之助は、大袈裟なほどに跳び跳ねた。片岡は一瞬驚いたようだったが、すぐにもとに戻った。
「何やってんだ? さっさと行くぞ」
「は、はい」
片岡が足早に奉行所前から歩いていく。その後ろを、鋼之助を促すようにして、一人の小者が続く。名は太助という、片岡の小者だ。
年は三十を越えたばかりぐらいに見える。小柄で、おでこがちょいとばかり広い。
遅れまいと鋼之助も付いていくが差は開くばかり。 当然である。鋼之助の腰には二本差し。
じつは鋼之助は、今までまったく太刀を差したことがなかった。
ましてや腰に差して歩くなど、考えたこともない。刀は重い。柄や鞘を含めて、だいたい一貫(約三キロ)近くある。慣れない者には、重りを付けてるようなものなのだ。
「ううう……」
歩くたびに、腰が二本差しに振り回されている。こんなにへたれな侍は、お江戸中を探しても、鋼之助以外に見つけることはできないだろう。
「おおっ?」
そのうち片岡が振り向いて驚いた顔をしてみせた。当然だ。二人の間は、七間(約十二メートル)近く開いていたのだ。
「おい、どうした?」
急いで片岡が戻って来た。
身体の調子が悪いのか、と心配してくれる。先輩の、それも筆頭同心の気遣いに、申し訳ない気持ちになる。しかし流石に刀が重いなどと言えるわけがない。
綱之助は必死に笑顔を作った。
「い、いえ。なんでもありません……」
「そうか?」
胡乱げではあったが、片岡は先を歩き出した。鋼之助は遅れまいと頑張って付いていく。しかしやはり差は広がるばかり。
「か、身体、鍛えなきゃ……」
黒羽織を着る者とは思えない言葉は、先を行く先輩同心には届かなかった。
◇◇◇
常磐橋御門を過ぎ、本町界隈に来た。
片岡は日本橋、神田界隈の担当だそうだ。
ここらは町人地で、お江戸の中でも特に活気に溢れている。
町人達が気安く片岡に声をかけると、片岡も気さくに返事をする。どうやら片岡は、とても町人達に慕われているらしい。
「片岡の旦那」
本町二丁目を過ぎたあたりで、長身の男が声をかけてきた。銀鼠色の着物を尻端折りにして、青鈍色の羽織を引っかけ、黒の股引きを履いている。
腰には房の無い十手。
粋な様子の岡っ引きだ。
「おう、えーと……、そうだ! 辰次だ!」
どうやら名前を忘れてたらしい。しかし辰次は、そんなことは気にしてないようだ。片岡と一言二言交わすと、鋼之助に顔を向けてきた。
岡っ引きにしておくには勿体無いほどの男前である。片岡も色男だが、辰次のほうは、より精悍だ。年は三十前後くらいだろう。片岡より頭半分、背は高い。
しかし肌はあまり日焼けをしていなかった。
辰次の視線に気づいた片岡が、鋼之助を紹介する。
「辰次、こいつは新しく入ったみならいだ」
慌てて鋼之助は頭を下げた。
「はっ、初めまして……。佐倉鋼之助と、申しますっ」
すると、片岡と辰次が苦笑いを溢した。
「おいおい。岡っ引きに、そんなかたっくるしい言葉を使う同心がいるかよ」
「えっ、あ……」
同心と岡っ引きでは身分が違う。
正確には武士ではないが、同心は一応武士扱いであるのだ。
「まいったな。みならいといえど同心さまに、頭を下げさせて申し訳ありやせん」
と、辰次は言うと、深く頭を下げた。なぜだろうか、どこか辰次には、妙な品があるように思えた。
「お初にお目にかかります。あっしは辰次と申しやす。片岡の旦那に手札を頂いております」
少し腰を引いた格好で言うと、にこりと笑った。道行く娘が黄色い声を上げる。女は素直だ。
辰次は片岡から手札を貰ったそうだが……。
「手札?」
綱之助には、手札がどのような意味を指すのかわからなかった。
「なんだ、そんなことも知らねえのかい?」
曰く、手札とは岡っ引きの証のような物だと。
同心が岡っ引きを雇うのに、正当な手続きというものは無い。
そもそも岡っ引きになるような者は、大概どこぞのヤクザ者か、以前に悪さをしていた輩が多い。
悪を知るのは悪である。
黙認はされているが、岡っ引きは元々は非公認の存在なのだ。
辰次は片岡達に付いて、一緒に町を見廻ることになった。




