其ノ漆
瀧澤家の屋敷に着いた鋼之助は、表門の横にある門番所に声をかけ、兄の文之助への取り次ぎを頼んだ。
最初、門番は鋼之助を訝しんでいた。当然だろう。鋼之助は同心姿で来てしまっていたのだから。同心がなんの用だとばかりに鋼之助を睨んできたが、古株の門番が鋼之助の顔を知っていたらしく、取り次いでくれたのだ。
(会ってくれるだろうか)
胸に不安が募る。急な訪問だ。兄といっても文之助は、瀧澤家の現当主であるし、鋼之助はすでに養子となって瀧澤家を出ている。事前の約束も取り付けてないので、会ってれるか心配だったが、なんと兄は会ってくれるという。
鋼之助は書院に通され、文之助を待つ。
それから程なくして、文之助はやってきた。
「久しいな」
上座に座るとすぐに兄は声をかけた。普通なら鋼之助から挨拶を述べるべきだが、鋼之助が口下手で上がり症であることを知っているのだ。鋼之助が口を開くのを待っていたら、夜が明けてしまう。
「は、お、お久し振りでございます」
鋼之助は両手をついて頭を下げた。胸がどきどきする。実兄だが、あまり会話という会話をしたことがないのだ。
「かまわぬ。楽にしなさい」
「は、はい」
頭を上げた鋼之助は文之助を見た。年を取るにつれ、兄は父に似ていってる気がする。
兄は今年で三十九歳だ。
文之助という名とは正反対に、背は高く、逞しい身体つきをしている。
「それで、用向きは何だ?」
「あ、はい。あの、瀧澤の家に伝わるという、……その、あやかしを斬る刀を拝借したく参上致しました」
そう言いながらも、何を言っているのだろうと、鋼之助は思っていた。本当に瀧澤家にそんな刀があるのだろうか。にわかに信じられない。
「『殺生丸』のことか」
すると文之助は当然のように口にした。唖然とする鋼之助に、「どうした?」と文之助が問いかける。
「……本当に、あるのですか?」
「借りたいから来たのではないのか?」
もっともな返しをされた。呆然とする弟をよそに、文之助は座敷の外にいる小姓を呼ぶと、何やら言いつけた。
小姓をが退出してしばらく。兄弟は無言でいた。だがそのうち文之助が、ぽつりと言った。
「やはり、そなたも、あやかしが見えるのだな」
「……も?」
悠然としていた兄の顔に、少し寂しげな色が浮かんだ。
「我が瀧澤の血筋には、あやかしが見える者が多いそうだ」
あやかしには、普通の人間にも見えるモノもいるが、大体においては、見えないモノばかりだと、文之助は続けると一呼吸ついた。
「……伯父上も父上も、あやかしを見れていた。……私だけが、見ることがてきない」
文之助は、鋼之助から顔を逸らす。
「そなたが子供の頃、あやかしを見ることができると知ったときは……」
自嘲するような笑みを文之助は浮かべた。
「………」
──だから兄上は、あのとき……。
鋼之助は二十五年目にして、ようやく合点がいった。鋼之助が、母が鬼になり代わっていると言ったときの、あの冷たい目。あれは、妬みだったのだ。
(兄上が、わたしなんかにそんな思いを抱いていたなんて……)
まったくもって思いもよらなかった。鋼之助にとって兄の文之助は、すべてにおいて完璧な人であるのだ。賢くて強い。そんな人が他者を羨むことがあるとは、とても信じられなかった。
「失礼します」
用人が入ってきた。その手には恭しく掲げられた古ぼけた細長い箱。朱色の房が付いた紐で閉じられている。それを文之助の前に静かに置いた。
「うむ。御苦労であった」
用人が下がると、文之助は細長い箱の封をほどいた。
「瀧澤家は、その特殊な力を生かし、古の頃に朝廷よりあやかしの退治を任じられていたという。しかし時が経つにつれ、権力が移り変わるにつれ、その力は忘れ去られていったのだ」
文之助は暖かな笑みを鋼之助に向けた。兄から、こんな顔を向けられるのは初めてかもしれない。妙に胸が弾んだ。
「そなたが何のために、この太刀を必要とするのかはわからぬが、蔵で埃をかぶせておくよりはいい」
蓋を開けた細長い箱から、一振りの太刀を掴み上げた。その太刀は、鞘も柄も鍔も、すべてが真っ黒だ。少しの細工も施されていない質素な黒刀。だが、何ともいえない侵しがたい気品がある太刀だった。
「『殺生丸』だ。持っていくがよい」
文之助は鋼之助の前に、殺生丸を差し出した。
「はい」
微弱に震える両手で、殺生丸を譲り受けた。ずしりと、重い。この太刀が、今までどれだけのあやかしを斬ったのか、鋼之助には想像できない。
「では息災でな」
「あ、兄上っ」
立ち上がった文之助を、思わずひき止めていた。その胸中には、もっと兄と打ち解けたい。そんな思いが沸き上がってきたのだ。一方は大身旗本、一方は養子とはいえ三十俵二人扶持の同心。これから頻繁に会うことは厳しいだろう。今を逃したら、もう兄弟仲を取り結ぶことはできないかもしれない。
「兄上っ、私はいつも、兄上を羨んでおりました。兄上のようになりたいと……っ」
咄嗟に鋼之助は、今まで胸に秘めていたことを口にしていた。羨んだところで、兄にはなれない。それでも羨望してやまなかったのだ。そしてそれは、引け目となっていった。
鋼之助の告白に、文之助は一瞬だけ驚いた顔を見せた。そして、優しく笑った。
「そなた、少し変わったな」
「え?」
そういえば片岡も同じようなことを言っていた。しかし鋼之助には、何が変わったのか、よくわからない。
首を傾げる鋼之助に、
「今度は昼間に来るがよい。七瀬達も、そなたを恋しがっておるぞ」
そう言って、兄は座敷から出ていった。
(また来ても、いいのだ……)
退出した文之助に頭を下げた鋼之助の胸に、暖かなものが広がる。
些細なことだと人は言うだろうが、鋼之にとっては泣き出したくなるような幸福感だった。
殺生丸を借り受け、瀧澤家をあとにした鋼之助は、八丁堀に帰ろうと千鳥ヶ淵ののお堀端を南のほうに下っていた。すでに日は暮れている。五つ半(午後九時)は過ぎてるだろうか。瀧澤家で借りた提灯が頼りだ。
「今日は、たくさん歩いたなあ」
向島から番町まで。向島に行くには、途中舟も使ったが、こんなに遠くまで歩き回ったのは初めてだ。
身体はくたくたに疲れているが、足取りは軽かった。