其ノ陸
「ま、まさか……、平太郎が……っ」
衝撃的な宣告を聞いて狼狽する田鶴屋に、片岡が事実を突きつける。
「事実だ。生き証人のおしなが証言してくれた」
それきり田鶴屋は黙った。しばらく待っていたが、焦れた片岡が口を継いだ。
「それで平太郎は?」
「……いません」
「なに?」
片岡の声が尖る。荒事の苦手な鋼之助は、黙ってことの成り行きを見守った。
「隠し立てする気か?」
「違いますっ、……平太郎は、昨夜から帰ってきていないのです」
「昨夜だと?」
「え?」
片岡と鋼之助は目を見合わせる。
昨夜といえば、平太郎が鋼之助を襲ってきたのだ。そのまま行方知らずになったのだろうか。
「嘘ではないだろうな?」
田鶴屋を鋭い目で睨み付ける片岡が問いただす。
「滅相もございません。私は一度、あの子の不始末を金で解決しました。ですが、今度ばかりは庇うことはできません。人を殺したうえに、……そんな、ことまで……っ」
犯したうえに、殺したのだ。たとえ実の子であろうが、たくさんの奉公人を抱えるお店と天秤にかければ、身代を賭けてまで守ることはできないだろう。
洗い息づかいに蒼白な顔で言う田鶴屋が、嘘を言っているようには思えない。
片岡もそう思ったのだろう。
「一応、屋敷を改めさせてもらう」
その目で確認しないと、全面に信用することはできないのだ。
「はい」
肩を落とした田鶴屋が同意した。その顔は憔悴しきっている。一気に老け込んだように見えた。
片岡は鋼之助に辰次を呼びに行かせると、田鶴屋の改めを行った。
田鶴屋の主人の言う通り、平太郎はどこにもいなかった。
◇◇◇◇◇
結局、この日は平太郎を見つけることができなかった。
事件が事件である。片岡が上役の与力に相談し、奉行所を上げて平太郎の探索にあたることとなった。
今日のお勤めを終えた鋼之助は、番町に向かっていた。今日は向島まで出歩き、すでにくたくたである。だが泣き言を言ってる間もない。
「刀か……」
歩きながら鋼之助は、先ほど新八郎に言われたことを思い返していた。
勤めを終えた鋼之助は、一度役宅に帰った。だがすぐに新八郎に呼ばれたのだ。そこで新八郎は、またもや驚くことを告げた。
「ふと思い出したのだがな。瀧澤どのが言っておった。瀧澤家には、あやかしだけを伐る特別な刀があると」
「あやかしを斬る?」
ぴんとこず、鋼之助は首を傾げた。瀧澤家にそんな刀があるとは初耳である。もっとも鋼之助は、まったくと言っていいほど、瀧澤家の内情を遮断してきたから、知るわけがない。
「うむ。あやかしを倒すには、特別に拵えた物で討たねば成敗出来ぬとな」
「それは、つまり……」
二十五年前、新八郎は妄鬼が憑いた萩乃を斬った。だがその太刀には特別な力は無かったはずである。
言いにくそうに、新八郎が語る。
「わしはあのとき、妄鬼を取り逃がしてしまったようだ」
当時の新八郎は妄鬼などというものを詳しく知らなかった。だから仕方がないのに、責任を感じてか、新八郎の顔が渋面に染まった。
「では、あの男に憑いてる妄鬼は……」
──そのときの妄鬼なのだろうか。
鋼之助の言いたいことを察した新八郎が重々しく頷く。
「……かもしれぬ」
「………」
深い沈黙が部屋を包んだ。
もしも二十五年前に妄鬼が退治されていれば、ここまで平太郎の事件は広がらなかったのだろうか?
いや違う。妄鬼は人の歪んだ欲望に憑くのだ。きっかけを作るのは人間のほう。平太郎に憑いたのは、おそらく、おみさが殺されるまえであろう。
この先、妄鬼が人に憑くことがないようにしないといけない。欲望に囚われた人間は、何をするかわからない。
それには、あやかしを斬る刀が必要だ。
「義父上、瀧澤家に行って参ります」
つい鋼之助は、そう言ってしまった。
そうして瀧澤家に出向くことになったのである。
「でも私、刀は……」
自分の言ったことに、顔がひきつる。鋼之助は剣術はおろか、満足に刀を扱えない。最近は毎朝のように稽古をしているが、それでもまだ素振り程度だ。そんな男が、あやかしを斬れるのだろうか。
鋼之助は自信が無かった。
(か、考えても、しかたがない……)
妄鬼を退治するのなら、片岡か新八郎に刀を渡したほうがいいだろう。
(あ、でも片岡どのは妄鬼のことを知らないし……)
うんうんと唸りながらも、鋼之助の足は実家に向かって歩き続けていた。
◇◇◇
「あれで、よかったのか?」
鋼之助が瀧澤家に向かってしばらく。新八郎は部屋から、夕闇に色付く内庭に声を投げた。
「ああ」
庭隅の陰から返事が返った。姿は見えない。
「おまえさんは、いつまで黙っておく気だ?」
「………」
陰は黙っていた。虫の音だけが庭に響く。
じっと、庭に耳をそばだてていた新八郎は、前のめりになって庭を覗いた。
「………もしや、もうおらぬのか?」
依然、陰は黙り込んでいる。新八郎は深く息をはいた。
「わしに会いに来るときは、人の姿で来い……」
そうでなければ見えないのだと、新八郎はぼやいた。