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無能同心  作者: 葉弦
第六章 真相
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其ノ参

 しわが浮かぶ頬に涙が一筋伝い、畳みに落ちた。ぽたぽたと、落ちる雫が増えていく。だが新八郎の口許は口角が上がっている。


「……鋼之助は、大物かもしれんな」


 新八郎は泣きながら笑っていたのだ。

 昨夜の話の後、新八郎はなかなか寝つけなかった。

 実母を殺した新八郎に、鋼之助はどういった態度をするのか。そのことを考えると、言いようのない不安が胸を押し潰したのだ。


「まさか、こんな気持ちになるとは……」


 瀧澤亮之助に頼まれて鋼之助を養子として引き取った。だが、ちゃんと息子として接することができるかはわからなかった。憎いあの男の子供だ。妻を殺した女の子供だ。

 憎しみを懐いたって、誰にも責められるものではない。また、実母の死の真実を知ったとき、鋼之助が新八郎に憎しみを向けることも考えられた。

 だがともに生活していくと、そんな心の軋轢はいつのまにか消えていた。

 鋼之助は素直だった。真っ白といってもいい。ずうっと自室に閉じ籠っていたと言う。良くも悪くも、部屋の中だけがすべてだったのだ。怒りを人に向けたこともないのだろう。些細なことで喜び、些細なことで驚いていた。

 そんな鋼之助を見ているのは楽しかった。一度も子供を持ったことがない自分が、この年になってようやく子供を持つ親の気持ちがわかった気がしたのだ。

 そして、恐ろしくなった。自分が実母を殺したことを知られることが。できうるなら、墓の中まで持っていきたかった。だが、天はそれを許さなかった。

 先ほど鋼之助がこの部屋に来たとき、新八郎は覚悟した。罵倒されるかもしれない、刀を向けてくるかもしれない。だが、


 ──鋼之助の望むままに。


 そう思い、身を委ねた。

 しかし鋼之助は、そのどれもを裏切った。

 けろりとした顔で、事件の推理を披露したのだ。新八郎としては、唖然とするしかない。


「大物だ、あいつは」


 新八郎は涙で濡れた顔を、くしゃくしゃにして笑った。

 案ずるより産むが易し。

 先人の言葉は、身に沁みる。




 ◇◇◇




 南町奉行所に出仕した鋼之助は同心詰所に入ると、挨拶もそこそこに片岡真太郎に、金目の男の似顔絵を見せた。

 片岡は、


「ほう、よく描けてるな」


 と、褒めた。


「いえ、そうではなくてですね。この男が、ゆうべ私を襲ってきたので」

「なにっ?」


 鋼之助の言葉を最後まで聞く前に、片岡は似顔絵を引ったくった。


「今朝、奉行所で聞いてびっくりしたんだぜ。おまえが刃物を持った男に襲われたってな」


 どうやら鋼之助が襲われたことは、すでに噂になっているようだ。それもそうだ。あれだけの同心与力が集まっていたのだから、人の口にのぼらないほうがおかしい。

 舐めるように似顔絵を見てた片岡は顔を上げ、


「おまえ、おとなしそうな顔して人に恨みを買ってんのか」


 と、にやりと笑った。この男は、確実に面白がっている。


「いえ、買ったというよりは……、押し売り?」

「は?」


 鋼之助は奉行所に出仕する道すがら、どうして自分が襲われたのかを考えていた。おそらく下手人である金目の男は、探索の手が自分に伸びていることに気づいたのだ。そしてその探索をしている一人が、鋼之助だと。

 遺棄現場で目が合ったこともある。だから襲ってきたのだ。

 鋼之助は片岡に、おちなとおみさの遺体が捨てられていた現場に、この男がいたことを伝えた。

 するとみるみるうちに片岡の顔が赤くなり、強張っていった。


(怒られる)


 と、思った矢先に、


「どうして、早く言わねぇんだ!」


 と、やはり怒鳴られた。鋼之助はぼそぼそと弁解する。


「あの、私には、この男が特徴の無い顔に見えなくて……」

「ああ?」


 絵を描く者は、特徴を誇張してしまうという厄介なならいがあるのだ。歌舞伎役者でさえ浮世絵に描かれると、絵師に文句をつけることがあるという。

 だいたいの絵描きはどんな顔でも特徴を見出だしてしまう。鋼之助もその一人だった。


「……めんどくせえならいだな」


 黙って聞いていた片岡が皮肉げに言った。


「まあいい。とりあえず、この男が下手人である可能性が高い。だがその前に、今日は向島に行く」

「向島?」

「うむ」


 片岡が手札を与えている岡っ引きの辰次が情報を仕入れてきたそうだ。おゆい達に似た娘がいると。


「昨日、帰り際に辰次がネタを仕入れてきてな。おまえは帰っていたから、二人で向かったのさ。深川に」

「深川? 向島では?」

「まあ、聞け。そのときの辰次のネタでは、似た娘は、深川にある岡場所の娼妓、お多岐の娘だという話だったのさ」


 その情報のもと、片岡と辰次は深川に向かった。だが、そこには似た娘はいなかった。

 そこで片岡の顔が曇った。まさかと、鋼之助の胸に苦いものが滲む。


「どうやら、その娘は一年ほど前に死んだらしい」

「それは、まさか……」


 あの下手人に殺されたのでは。そう言う前に、片岡が引き継いだ。


「ああ、こいつかもしれん」


 パシンっと、片岡は金目男の似顔絵を指で弾く。しかし片岡は首を捻った。


「ただ、母親は奉行所に訴え出ていないのだ」


 殺されたのであれば、大家や周囲の者と相談したうえで奉行所に訴え出るはずだ。


「では、違うのでしょうか?」


 鋼之助も首を傾げる。


「さてな。母親に聞いてみるしかあるまい」


 片岡は続ける。


「母親がいた見世に問いただすと、母親は身請けされて向島に引っ越したそうだ」

「それで向島に行くのですね」

「ああ」


 片岡は立ち上がり、詰所の戸口に向かい……かけて、鋼之助のほうを振り向いた。どうしてか、不思議そうな顔をしている。


「ところで佐倉。なんだかおまえ、雰囲気が変わったような……いや、いい」


 頻りに首を傾げて出ていった。そんな片岡を不思議に思いながら、鋼之助も出ていった。




 ◇◇◇




 向島は、浅草を隅田川で挟んだ場所にある。今の季節は、隅田川堤の桜並木がとても美しく咲き誇っていた。だが今は桜を眺める余裕は無い。

 片岡と鋼之助は、辰次と太助を連れて、お多岐が住む小村井村に向かっている。お多岐は下駄問屋の主人に身請けされ、その村で囲われているのだ。

 片岡達一行は小村井村に着くと、村人に尋ね歩き、ようやくお多岐の家に着いた。こじんまりとしているが、丁寧な作りで柔らかな雰囲気がある。身請けした主人の人柄が伺えるようだ。


「と、遠かったですね……」


 すでに日は高い。体力の無い鋼之助は息を荒くして言った。


「うむ」


 船を使ったとはいえ遠い道のりだった。片岡が鋼之助を不憫そうな目で見た。


「だがおまえは、もう少し体力を付けろ」


 いくら遠いとはいえ、このくらいで息切れをおこすなということだ。


「はい」


 耳に痛いことを言われて小さくなる。そんな鋼之助に苦笑した辰次が、家におとないを告げた。すると、すぐに女が出てきた。


「あっ」

「お?」


 女の顔を見たとたん、片岡と鋼之助が同時に声を上げた。

 この女がお多岐なのだろう。娼妓だったというが、擦れた感じは無い。年増だが、妙な愛らしさがある。

 そして、おゆいとおはるによく似た面影を持っていた。


「お多岐かえ?」


 辰次が聞くと、女は少し躊躇してから、「はい」と頷いた。


「娘のことで、聞きたいことがある」


 ことがことだ。片岡は優しげに訊ねた。お多岐は、ちらりと家を見て、


「少しお待ちください」


 と言って、家の中に入っていった。そうしてしばらく、片岡達は家の中に招かれた。小者の太助は外で待つ。

 六畳間の座敷に通され、腰を下ろすと片岡はすぐに、おゆいの似顔絵を広げた。


「この絵は?」


 思わずといったふうに、絵を手にしたお多岐は瞠目している。


「似ているか?」


 誰に似ているかは聞かずに、片岡が問う。これも聞き込みの手法のひとつだ。


「はい、娘のおしなにそっくりです」

「おしなは……」


 言いづらそうに、片岡は言葉を一度区切った。


「乱暴をされたうえで、殺されたのではないのか?」

「………っ!」


 するとお多岐が息を飲んだ。ぎゅっと、おゆいの似顔絵を握り締めて、目を逸らす。この反応が答えだ。

 片岡と鋼之助は目を合わせた。小声で片岡が鋼之助に言う。


「この事件は一年前から動いていたのだ」


 苦い思いで鋼之助は頷いた。やはり、お多岐の娘のおしなも、おちな達一連の事件の下手人が手を下したとみていい。あの金目の男だ。






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