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無能同心  作者: 葉弦
第一章 みならい
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其ノ参

江戸の治安を担う町奉行所は二ヶ所に存在する。

 一つは北町奉行所。呉服橋御門内にある。

 もう一つは南町奉行所。こちらは数寄屋橋御門内にある。

 そして今、この南町奉行所の門前に、一人の男が佇んでいた。

 男はなぜか、妙におどおどとしている。挙動不審。見るからに怪しかった。

 これだけり聞けば、何らかの犯罪を犯した下手人げしゅにんが自首しに来たのではないかと、勘繰ってしまうだろう。しかし男をちゃんと見れば、それは杞憂だったと思うはず。

 そして今一度、首をひねるだろう。

 くわえて、


 「え、あの男が?」

 「信じられない」

 「お江戸も終わりだ」


 などと、悲観に満ちた声を上げるに決まっている。

 なぜならこの男。黒い羽織を羽織っている。しかもその羽織の裾を内側に巻き上げて、帯の下から挟み……いわゆる巻羽織にしているのだ。

 この着こなしは、あるお役目についてる者しかしない。


 「あの、あなたは……」


 奉行所の門番が、恐る恐るといったふうに声をかけてきた。


 「あっ、あ、あの……」


 男はどもりながら、少し早い口調で答えた。すると門番はこれでもかと目を見開き、口をぽかんと開けた。

 同じように、門を出ようとした同心らしい男も、口をあんぐりとさせたのだった。




 ◇◇◇




 「たっ、大変だあっ!」

 「ああっ! うるせえな、間違っちまったじゃねえかっ! ……ん?」


 何だか前にも、こんなやり取りをしたような気がする。と、南町奉行所筆頭同心、片岡真太郎が首を傾げた。

 片岡は報告書を書いていた。『太』の“ヽ”が迷子になって『犬』になっている。

 同心詰所に飛び込んできたのは、同期の同心の山村三次郎だ。よっぽど慌ててたのか、山村は息を切らしている。


 「そんなことはどうでもいい」

 「どうでもいいわけあるか、馬鹿……ん?」


 やはりどこかで、同じやり取りをした気がする。片岡はもう一度、首を傾げた。そんな片岡に構うことなく、山村は唾を飛ばす勢いで喋りだした。

 「来たぞ、来たぞ、来たぞ!」

 「腹でも下したか?」


 片岡は書き直すために紙を変えた。このまえ書いた報告書は、字を間違ってしまったが、どうにか誤魔化してみた。

 少しばかり字が潰れて読みにくかったが、山村には読めた。だからそのまま出したのだが、例繰方れいくりがた与力よりき畑山十左衛門はたけやま じゅうざえもんにチクリと小言を言われてしまったのだ。

 だから今度はちゃんと書き直す。畑山の小言は、長屋の女房が井戸端で興じるお喋りより長いのだ。

 そんな片岡に山村が怒鳴った。


 「馬鹿! みならいが来たんだよ!」

 「なにっ?」


 片岡の手から筆が落ちた。新しくした紙に、べったりと墨が付く。

 ついにこのときが来たのだ。

 一昨日、佐倉新八郎は同心勤めの最後の日を迎えた。そのとき新八郎は言った。


 ──息子を頼むよ。


 その新八郎の義理の息子の、ついに初出仕の日が来たのだ。


 「どんな奴だ? 今どこにいる?」


 廊下を忙しなく、ちらちらと眺めながら、矢継ぎ早に片岡が訊ねる。ようやく養子の正体がわかるのだ。いてもたってもいられない。まるで子供のようだと、自分自身で苦笑した。


 「いま、お奉行に挨拶してるよ」


 それだけ言うと、なぜか山村は口をつぐんだ。そうしてしきりに首を捻り、「んんん」と唸っている。顔色も悪い。


 「どうした?」

 「いやな……、みならいなんだがよ」


 なんと山村は、あの男が佐倉の養子だとは思えないと言った。






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