其ノ捌
そこまで言うと、いきなり次郎丸の頬に激しい痛みが走った。痛いというよりは熱い。そして身体が不安定に傾いていると思ったら、地面に叩きつけられていたのである。口の中では血の味も広がった。勢いで舌を噛んだのだ。
「次郎丸さまっ!」
女中が悲鳴を上げた。次郎丸は庭に俯せに倒れ込んで、ぱちくりと瞬く。自分が母に頬をぶたれ、庭に落ちたのだと気づいたのは、女中に抱き起こされたときになってだ。
「ああ、次郎丸さまっ。奥方様、なぜこのようなことをっ?」
初めて聞いた女中の怒声が庭に響く。
叩かれて真っ赤になった次郎丸の頬に、女中が手を当てる。ひんやりとして気持ちがいい。それに安堵したのか、抱き締めてくれる女中の腕の中に安心したのか。
「うわあああああんっ!」
ぼろぼろと、次郎丸は大声を上げて泣きじゃくった。頬が痛くて堪らない。でもそれ以上に、叩かれるなんて初めてで、それがとても悲しかった。今まで母にも父にも、もちろん伯父にも叩かれたことはない。
どうして母が叩いたのだろう。自分はなにか悪いことをしてしまったのだろうか。いつまでも涙が溢れてくる瞳で、次郎丸は母を見た。
「ひ……っ」
すると母の目は、血のように真っ赤になっているではないか。顔付きが、とてつもなく険しい。それこそまさに絵巻に描かれた鬼のように。
次郎丸の心を読んだわけではないのだろうが、
「嘘をつくなっ。あやかしなどおらぬっ!」
と、母は怒鳴り散らした。普段の母の声とは似ても似つかない野太い声。
「ひっ、ううう………っ」
あの人は本当に母なのだろうか。次郎丸は信じられなかった。
母はあんな真っ赤な目ではないし、もっと綺麗な声だ。きっと母に似た別のものが化けている。そうに決まっている。では母はどこに行ってしまったのか。
はっと、次郎丸は喉をひきつらせた。
(母上は、きっと鬼に連れていかれちゃったんだ……)
鬼は地獄というとこにいる。お寺の御坊が言っていた。そこで悪いことをした人間を苛めているのだと。
(母上は悪いことをしちゃったの?)
母がどのような悪事をしたのかは分からない。
(ううん、母上は、悪いことなんかしていないっ)
きっと他の人と間違われたのだ。母上を返して、そう言いたいが、あまりの恐ろしさに次郎丸は、女中の腕の中でがたがたと震えることしかできなかった。