其ノ漆
◇◇◇◇◇
あれは三つのときだ。
次郎丸は外で遊ぶのが好きだった。放っておけば、日がな一日中外にいる。
次郎丸が住む屋敷には広い庭がある。屋敷に面する庭は、しっかりと手入れがされていた。そこでひらひらと舞う蝶を追ったり、池の鯉に餌をやるのが好きだった。しかしそれ以上に、庭奥に行けば自然のままにされている場所がある。そこには、たくさんの小さな動物や虫がいた。毎日遊んでいても、飽きることを知らないそこは、次郎丸にとって格好の遊び場だ。だから奥女中と、しょっちゅう追い駆けっこだ。ときどき爺も交ざる。でも次郎丸以上に、ここを熟知しているものはいない。だからなかなか捕まえられない。
「次郎丸」
「伯父上さま」
そんな次郎丸を捕まえるのは伯父だ。どうしてか、いつも簡単にこの伯父だけは、次郎丸を見つけるのだ。次郎丸には不思議だった。
「どうして伯父上さまは、わたしをすぐに見つけられるの?」
伯父に駆け寄った次郎丸は、その手をそっと握った。伯父はとても身体の弱い人なのだ。なのに庭奥まで迎えに来てくれる。三つの次郎丸に自制しろというのは無理な話だ。そもそも考えに到らない。
だから次郎丸は三歳児の知恵を振り絞って、迎えに来てくれてありがとうという気持ちで、優しく手を添えるのだ。
甥の質問に、伯父は口許を綻ばせた。
「さて、どうしてだろうね」
そう言って、にこにことしている。病弱な伯父は屋敷はもとより、自室からもあまり出ないから、庭の構造をあまり知らないはずだ。それなのに簡単に次郎丸を見つけだすのである。
(どうしてかな?)
と思うが、優しいこの伯父は、不在しがちな父に代わって、次郎丸とその兄を大層可愛がってくれる。次郎丸も伯父が好きだったから、それ以上気にすることもなかった。
屋敷に上がり、伯父と別れた次郎丸は、女中に手を引かれて廊下を渡っていた。これから夕餉なのだ。朝からずうっと庭で遊んでいた次郎丸はお腹ぺこぺこだ。
「まあまあ、次郎丸さまったら」
腹の虫の催促の声を聞いた女中が、小さく笑った。次郎丸もくすぐっそうに笑う。
だが奥に近づくにつれ、次郎丸から元気が無くなっていった。
「次郎丸さま?」
次郎丸の様子がおかしいのに気づいた女中が声をかけると、次郎丸は泣きそうな顔を向けた。
「母上は、今日も怒る?」
「え……」
思わずといったふうに女中の声が詰まる。次郎丸は廊下板に目を向けた。
最近の母は、ずうっと苛々している。いつも怖い顔をして、父を怒っているのだ。そして哀しい顔もする。
(父上のことが嫌いなのかな?)
次郎丸にはわからない。まわりの大人達に聞いてもいけない気がして、誰にも聞けなかった。もちろん、大好きな伯父にも。
いつも怖い顔をしている母は嫌だ。どうしてか側にいると、自分の胸もざわざわするのだ。母はいつもこんな嫌な気持ちなのだろうか。それは駄目だと、次郎丸は思った。だから母には笑っていてほしい。
小さな小さな次郎丸のたったひとつの願いだった。
「大丈夫ですよ、奥方様は、今はちょっと、心が不安なのです」
なぜ心が不安なのだろうと思ったが、女中の必死な顔を見て、次郎丸は素直に頷いた。
「あれ……?」
そのとき、庭の隅に植えてある古木の根本で、なにやら動いた気がした。陰っていて、それが何かは、はっきりとわからない。たまに猫が居着いて子猫を産んでいることがあるが、猫とは違う。
「ねえ、あそこに、なにかいるよ?」
「はて?」
女中は小さな指が指し示す場所を見るが、何もいないと言う。そんなわけがない。次郎丸は、ぐっと大きく目を開けて、もう一度木の根本を見た。
「あれ?」
あれれと、情けない声が続いた。二度目に見たら、もうおかしなものはいなかった。両手で目を擦って、もう一度見る。でもやはりいなかった。
「離れていますから、見間違えたのかもしれませんね」
「……見たのに」
しかし女中は子供の言うことだと思ってか、適当にあしらい、次郎丸の手を引いた。
(本当なのに……)
心が重くなっていく。嘘ではないと信じてほしい。
「あっ」
廊下の端から母が歩いてきたのが目の端に入った。
若く美しい母。妙に忙しない足取りだったが、次郎丸は気づかない。おぼつかない足取りで近づき、
「母上、さっきね、あそこにおかしいのがいました」
と、訴えた。
この目で見たモノを母には信じてほしかった。次郎丸は必死に続けた。
猫でも犬でもない。もっと黒くて、もわもわしてて、そう、伯父上が下さった絵巻に描いてある、
「あやかしのような」