其ノ陸
思わず出た声に、慌てて口を手で塞ぐ。
見張る夫に気づいていないお衣智が、男に、駆け寄った。
「瀧澤さま」
来たのは瀧澤亮之助、その人だった。珍しく取り巻きを連れていない。
新八郎は崩れ落ちそうになるのを、必死に踏ん張って堪えた。新八郎の胸の中だけに、大嵐が吹き荒ぶ。
──なぜ、よりによってあの男なのだ。
新八郎が現在辛酸を舐めているのは、他ならない亮之助のせいなのだ。どうしてお衣智が、そんな元凶と会っているのだろうか。
(お衣智……)
愛する妻が浮気をしていないかが知りたかっただけなのに、とんでもない事実が待っていた。藪から蛇どころか、鬼が出てきてしまった。
新八郎は二人に気づかれるまえに、背を向けた。ここにいたら、自分が何かをしでかしてしまう気がしてならない。
(帰ろう)
今後、お衣智との夫婦関係がどうなるのだろうとか、たくさんのことが頭をよぎったが、どうでもよかった。今はとにかく、屋敷に帰りたい。帰って、なにもかも忘れるまで酒を呑みたい。目の前の事実から、目を背けたかった。
「きゃあっ!」
「お衣智……?」
背後から突然、お衣智の叫び声が聞こえた。「いや」とか「助けて」と、悲鳴が続く。
「萩乃っ!」
亮之助の怒声も聞こえた。
*****
「萩乃? まさか……」
唐突に出てきた名前に、鋼之助が膝を乗り出す。
淡々と新八郎は続けた。
*****
情事中の声なんかではない。おかしな胸騒ぎがした。
「おいち……、お衣智っ!」
新八郎は駆け戻った。いつでも抜刀できるように鯉口を切る。
二人がいた場所に近づくにつれ、鼻腔が血の匂いを嗅ぎとった。不安が胸を押し潰す。頼む、間違いであってくれ。二人が会っていた場所に出た。
「お衣智っ!」
瞬間。新八郎の足が止まった。
「あ……」
愕然とする目に入ったのは、赤。
地面に赤い溜まりができている。それは、倒れている妻を中心に、広がっていた。
「お衣智……?」
呼びかけるが、お衣智はぴくりとも動かない。いつもなら、新八郎がひと声かければ、愛くるしい顔で振り向くのに。落ち着いた声で「おまえさま」と、呼んでくれるのに。
お衣智はなにもしてくれない。これから先、ずうっと!
頬を伝う涙に気づかず、新八郎は、のろのろとお衣智に近寄った。
「佐倉新八郎……」
唖然とした亮之助の声は、新八郎の耳には入らない。
動くことがなくなった妻の身体は、いたるところから血が出ていた。めった刺しにされたのだ。
点々と続く血の跡を目で追うと、血まみれの小刀を握った女がいた。女は翳りをのせた顔で妖しく笑う。
「私の殿を、奪った女は許さない……っふふふ、あはははははははっっ!」
狂ったように女が笑いだした。身を捩り、身体全体で嘲笑っている。
その目は血のように真っ赤に染まっていた。
──化け物だ。
新八郎は咄嗟に思った。
この女がお衣智を殺したのだ。新八郎の頭が沸騰する。その刹那、
「ぎゃあっ!」
「萩乃っ!」
新八郎は太刀を縦一線に振り下ろし、女の頭をかち割っていた。同心の刀は刃引きされているので切れないのだ。
頭から血を噴き出して、亮之助が萩乃と呼んだ女は倒れた。亮之助が萩乃の側に駆け寄る。
そのとき、萩乃の身体から黒い靄がはき出ていった。なぜかそれは、見ているだけで不愉快になる気がした。
「妄鬼が、憑いてしまっていたのか……」
夕闇の空に溶けていった黒い靄に向かって、亮之助が悲痛な声を上げた。
佐倉新八郎と瀧澤亮之助。二人の男の足下には、二つの物言わぬ女が無惨な姿で倒れていた。
去り際に亮之助に聞いた。なぜ、お衣智と会っていたのか。
「俺に対する嫌がらせか」
そう口許を歪ませると、亮之助は首を横に振った。
「……お衣智どのは、私のもとに嘆願に来ていたのだ。そなたを、定町廻りに戻してほしいと」
「なっ」
新八郎は息を飲んだ。お衣智は浮気なんかしていなかった。いやむしろ、新八郎のために動いていたのだ。
なぜ妻を信じなかったのか。なぜ自分の状況を嘆くばかりで、心を強く持って端役でも懸命に勤めなかったのか。
そうすれば、お衣智がこんな目に……。
「うっ、ううう……っ」
新八郎は、冷たくなったお衣智にすがって、いつまでも泣いた。
その後ほどなくして、新八郎は定町廻りに戻された。
萩乃……、亮之助の奥方を殺した罪を問われることもなく、妻お衣智の死も、上役に病死にされた。
なにもかも、無かったことにされたのだ。
新八郎は元の生活に戻った。
ただ、そこに妻はいない。
*****
「それ以来、瀧澤どのと会うことはなかった。つい、このあいだまでな」
鋼之助の養子の件で久々に会ったと、新八郎は続けた。そのときになってようやく『妄鬼』についても聞いたそうだ。
妄鬼とは、人の欲に憑く鬼だという。
誰しも多かれ少なかれ欲望を持っている。むしろ欲を持たない人間はいない。欲があるから、人が人であるのだ。
妄鬼はそんな欲にとり憑くという。といっても、誰しもに憑くわけではない。妄鬼に憑かれた人間は、歪な欲を心に抱えているという。どろどろとした黒い欲望。それに惹かれて、妄鬼が憑くのだと。
萩乃は亮之助に対する執着が凄まじかったのだ。亮之助に女の影があると勘繰り、屋敷から出ていく亮之助の後を女中に追わせた。そこで亮之助とお衣智が一緒にいる姿を見た女中が邪推し、萩乃に報告した。萩乃は激しい嫉妬に身を蝕わせた。そのどろどろとした醜い欲に、いつのまにか妄鬼が惹き寄せられて憑いてしまったのだ。
そして、惨劇が起こってしまった。
話し終えた新八郎が姿勢を改める。鋼之助に向けて低頭した。その顔は悲痛に歪められている。
「そなたの母を殺したのはわしだ。申し訳ござらん」
「っ、そんなの……」
言葉が続かない。鋼之助は静かに涙を溢していた。突然目の前に現れた、たくさんの真実に、頭が混乱している。
新八郎の妻を殺したのは実母、萩乃。
萩乃には、妄鬼という鬼が憑いていた。
その母を殺した、義父の新八郎。
そして、実父である亮之助と義父の新八郎のあいだにある、歪な繋がり。
鋼之助は何を言っていいのか、わからなくなっていた。
「いい、んです」
思わず鋼之助はそう口にしていた。新八郎が僅かに頭を上げて鋼之助を見る。
「謝らなくて、いいんですっ。だ、だって、新八郎どのも、奥方を……っ」
「鋼之助どの……っ」
言葉にしようがない複雑な思いが、胸を駆け回る。
鋼之助は慌ただしく頭を下げると、新八郎の部屋から辞去した。そのあいだも、涙が頬を滑り落ちる。自室に戻ると、声を殺して泣き続けた。何のために、誰のための涙なのかはわからない。次々に涙が落ちてくるのだ。