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無能同心  作者: 葉弦
第五章 過去〜奇縁〜
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其ノ陸

 思わず出た声に、慌てて口を手で塞ぐ。

 見張る夫に気づいていないお衣智が、男に、駆け寄った。


「瀧澤さま」


 来たのは瀧澤亮之助、その人だった。珍しく取り巻きを連れていない。

 新八郎は崩れ落ちそうになるのを、必死に踏ん張って堪えた。新八郎の胸の中だけに、大嵐が吹き荒ぶ。


 ──なぜ、よりによってあの男なのだ。


 新八郎が現在辛酸を舐めているのは、他ならない亮之助のせいなのだ。どうしてお衣智が、そんな元凶と会っているのだろうか。


(お衣智……)


 愛する妻が浮気をしていないかが知りたかっただけなのに、とんでもない事実が待っていた。藪から蛇どころか、鬼が出てきてしまった。

 新八郎は二人に気づかれるまえに、背を向けた。ここにいたら、自分が何かをしでかしてしまう気がしてならない。


(帰ろう)


 今後、お衣智との夫婦関係がどうなるのだろうとか、たくさんのことが頭をよぎったが、どうでもよかった。今はとにかく、屋敷に帰りたい。帰って、なにもかも忘れるまで酒を呑みたい。目の前の事実から、目を背けたかった。


「きゃあっ!」

「お衣智……?」


 背後から突然、お衣智の叫び声が聞こえた。「いや」とか「助けて」と、悲鳴が続く。


「萩乃っ!」


 亮之助の怒声も聞こえた。




 *****




「萩乃? まさか……」


 唐突に出てきた名前に、鋼之助が膝を乗り出す。

 淡々と新八郎は続けた。




 *****




 情事中の声なんかではない。おかしな胸騒ぎがした。


「おいち……、お衣智っ!」


 新八郎は駆け戻った。いつでも抜刀できるように鯉口を切る。

 二人がいた場所に近づくにつれ、鼻腔が血の匂いを嗅ぎとった。不安が胸を押し潰す。頼む、間違いであってくれ。二人が会っていた場所に出た。


「お衣智っ!」


 瞬間。新八郎の足が止まった。


「あ……」


 愕然とする目に入ったのは、赤。

 地面に赤い溜まりができている。それは、倒れている妻を中心に、広がっていた。


「お衣智……?」


 呼びかけるが、お衣智はぴくりとも動かない。いつもなら、新八郎がひと声かければ、愛くるしい顔で振り向くのに。落ち着いた声で「おまえさま」と、呼んでくれるのに。

 お衣智はなにもしてくれない。これから先、ずうっと!

 頬を伝う涙に気づかず、新八郎は、のろのろとお衣智に近寄った。


「佐倉新八郎……」


 唖然とした亮之助の声は、新八郎の耳には入らない。

 動くことがなくなった妻の身体は、いたるところから血が出ていた。めった刺しにされたのだ。

 点々と続く血の跡を目で追うと、血まみれの小刀を握った女がいた。女は翳りをのせた顔で妖しく笑う。


「私の殿を、奪った女は許さない……っふふふ、あはははははははっっ!」


 狂ったように女が笑いだした。身を捩り、身体全体で嘲笑っている。

 その目は血のように真っ赤に染まっていた。


 ──化け物だ。


 新八郎は咄嗟に思った。

 この女がお衣智を殺したのだ。新八郎の頭が沸騰する。その刹那、


「ぎゃあっ!」

「萩乃っ!」


 新八郎は太刀を縦一線に振り下ろし、女の頭をかち割っていた。同心の刀は刃引きされているので切れないのだ。

 頭から血を噴き出して、亮之助が萩乃と呼んだ女は倒れた。亮之助が萩乃の側に駆け寄る。

 そのとき、萩乃の身体から黒い靄がはき出ていった。なぜかそれは、見ているだけで不愉快になる気がした。


「妄鬼が、憑いてしまっていたのか……」


 夕闇の空に溶けていった黒い靄に向かって、亮之助が悲痛な声を上げた。

 佐倉新八郎と瀧澤亮之助。二人の男の足下には、二つの物言わぬ女が無惨な姿で倒れていた。

 去り際に亮之助に聞いた。なぜ、お衣智と会っていたのか。


「俺に対する嫌がらせか」


 そう口許を歪ませると、亮之助は首を横に振った。


「……お衣智どのは、私のもとに嘆願に来ていたのだ。そなたを、定町廻りに戻してほしいと」

「なっ」


 新八郎は息を飲んだ。お衣智は浮気なんかしていなかった。いやむしろ、新八郎のために動いていたのだ。

 なぜ妻を信じなかったのか。なぜ自分の状況を嘆くばかりで、心を強く持って端役でも懸命に勤めなかったのか。

 そうすれば、お衣智がこんな目に……。


「うっ、ううう……っ」


 新八郎は、冷たくなったお衣智にすがって、いつまでも泣いた。

 その後ほどなくして、新八郎は定町廻りに戻された。

 萩乃……、亮之助の奥方を殺した罪を問われることもなく、妻お衣智の死も、上役に病死にされた。

 なにもかも、無かったことにされたのだ。

 新八郎は元の生活に戻った。

 ただ、そこに妻はいない。




 *****




「それ以来、瀧澤どのと会うことはなかった。つい、このあいだまでな」


 鋼之助の養子の件で久々に会ったと、新八郎は続けた。そのときになってようやく『妄鬼』についても聞いたそうだ。

 妄鬼とは、人の欲に憑く鬼だという。

 誰しも多かれ少なかれ欲望を持っている。むしろ欲を持たない人間はいない。欲があるから、人が人であるのだ。

 妄鬼はそんな欲にとり憑くという。といっても、誰しもに憑くわけではない。妄鬼に憑かれた人間は、歪な欲を心に抱えているという。どろどろとした黒い欲望。それに惹かれて、妄鬼が憑くのだと。

 萩乃は亮之助に対する執着が凄まじかったのだ。亮之助に女の影があると勘繰り、屋敷から出ていく亮之助の後を女中に追わせた。そこで亮之助とお衣智が一緒にいる姿を見た女中が邪推し、萩乃に報告した。萩乃は激しい嫉妬に身を蝕わせた。そのどろどろとした醜い欲に、いつのまにか妄鬼が惹き寄せられて憑いてしまったのだ。

 そして、惨劇が起こってしまった。

 話し終えた新八郎が姿勢を改める。鋼之助に向けて低頭した。その顔は悲痛に歪められている。


「そなたの母を殺したのはわしだ。申し訳ござらん」

「っ、そんなの……」


 言葉が続かない。鋼之助は静かに涙を溢していた。突然目の前に現れた、たくさんの真実に、頭が混乱している。

 新八郎の妻を殺したのは実母、萩乃。

 萩乃には、妄鬼という鬼が憑いていた。

 その母を殺した、義父の新八郎。

 そして、実父である亮之助と義父の新八郎のあいだにある、歪な繋がり。

 鋼之助は何を言っていいのか、わからなくなっていた。


「いい、んです」


 思わず鋼之助はそう口にしていた。新八郎が僅かに頭を上げて鋼之助を見る。


「謝らなくて、いいんですっ。だ、だって、新八郎どのも、奥方を……っ」

「鋼之助どの……っ」


 言葉にしようがない複雑な思いが、胸を駆け回る。

 鋼之助は慌ただしく頭を下げると、新八郎の部屋から辞去した。そのあいだも、涙が頬を滑り落ちる。自室に戻ると、声を殺して泣き続けた。何のために、誰のための涙なのかはわからない。次々に涙が落ちてくるのだ。






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