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無能同心  作者: 葉弦
第五章 過去〜奇縁〜
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其ノ伍

「やらぬのか」


 そんな新八郎に対して、ふたたび無力感に染まった顔で亮之助が呟いた。何もかもがつまらないと、目だけは喧しい。


「つまらん」

「若さまっ」


 背を返した亮之助のあとに、取り巻きが続く。金魚の糞のようだと、ぼんやりと新八郎は思った。


「ああ、そうだ」


 ふと亮之助は足を止めた。振り返り、新八郎を向かって片方の口角を上げた。


「教えてやろう。おまえを苛めるのは、暇潰しだよ」

「っ!」

「たかが町方の同心が一人くらい潰れても、奉行所になんら影響は無いだろう」


 くくくと、亮之助は作り物のような薄笑いを浮かべて去っていこうとした。


「……っ私は、あのときの己の行動を、生涯恥じることはありませぬ!」


 憤りをすべて胸にしまい込み、新八郎は堂々と誓った。己がとった行動は、決して誰にも非難されるものではない。

 一瞬、亮之助は辛そうな顔を見せて、去っていった。

 のちに新八郎は知った。亮之助の現状を。

 瀧澤家は亮之助の兄の篤之助が継いでいるが、その兄は病弱で後継ぎも作れない身体だそうだ。だが才あふれる君であったため、当主から引きずり落とそうという動きもなかった。

 しかし病弱であるこは変わりなく、弟である亮之助は、お家の万が一に備えて飼い殺しのような状態であったのだ。そのうえ本人の意思とは関係なく、妻を娶り子供も作らされた。子供が小さなうちに篤之助が亡くなれば亮之助が家督を継ぐことになるが、子供が大きくなっていたときに篤之助が亡くなれば、兄の養子となって跡取りに。

 篤之助と亮之助の二人をよそに、周囲の思惑はそんなとこだった。

 しかしそれは家禄の高い家では当たり前だ。お家のために後継ぎを作る。ある意味、当主はこれこそが一番大切なお役目である。

 だが亮之助からすれば、やりきれない思いだったのだろう。篤之助と亮之助は仲が良い兄弟らしい。その兄が死ななければ、自分が日の目を見ることはない。

 その時が来ても、自分の子供達が後を継げる歳であれば隠居である。胸中の葛藤は計り知れない。

 だからあんなに、世を拗ねた顔をしていたのだ。

 しかし新八郎は亮之助に同情することはなかった。己の不幸を嘆き、他人に当たるなどもっての外である。未遂とはいえ乱暴を受けた娘は、心にそれを持ち続けて生きるのだ。



 新八郎が亮之助に直訴して、一月近く経った。

 亮之助の言うとおり、新八郎がいなくても町奉行所は、滞りなく動いている。まるで最初から、佐倉新八郎なんていなかったように。

 亮之助の屈託が移ったように、新八郎は鬱屈を抱えた生活をしていた。どんな端役でも懸命に勤めようと思っていた。だが、心は重石を何十個も載せたように重かった。

 自分は真っ当なことをしただけだ。だがそれを咎められ、端役に追いやられた。不条理であった。

 組織が抱える不条理を飲み込むには、新八郎は若かった。だがそれをひとえに若さのせいと、ひとくくりに言うのは乱暴である。若かろうが老いてようが、飲み込めないものがあるのだ。

 新八郎は荒れた生活を送った。上役達も良心の呵責もあってか、新八郎を咎めることはできないでいた。

 そんな新八郎を立ち直らせたのが、妻のお衣智(いち)だった。お衣智は懸命に新八郎を励ました。


「おまえさま、私は、あなたがしたことを誇らしく思っております」

「きっと、いつか引き上げていただけますよ。あなたほどの腕の立つ同心をいつまでも放っておくわけがありません」

「今が、踏ん張りどきでございます」


 お衣智の実家も八丁堀の同心の家だ。同心の妻として心得を持ち、新八郎を叱咤激励した。

 だが妻の言葉に耳を傾けることはなかった。情けなく、毎日うだうだと燻っていた。

 そのうち、お衣智が毎日のように出かけていることに気づいた。昼であろうと夜であろうと、何をしているのかはわからない。


(まさか)


 新八郎の心が叫んだ。ついに自分に愛想を尽かしてしまったのではないか、と。

 帰ってくるお衣智は、何ごともなかったように振るまっている。三つ年上の姉さん女房だが、年上とは思えない。可愛らしい笑窪を浮かべて、新八郎に笑うのだ。


(お衣智が、浮気なんかするわけがない)


 新八郎はお衣智を信じた。だから、追及もしなかった。きっと、毎日陰鬱としている自分の顔を見るのが辛いだけ。そう自分自身を説得したのだ。

 だが、一月余り経ったある日。

 この日もお衣智は出かけていた。新八郎が帰宅してから半刻して、ようやく帰ってきた。


「お衣智?」

「おまえさま、遅くなって申し訳ありません。すぐに夕餉の用意を致しますね」


 そう笑ったお衣智の頬には、涙の痕が残っていた。


「おいち……」

「ささ、お酒の用意をしますから、あちらでお待ちくださいな」


 新八郎の言葉を聞きたくないとばかりに、お衣智が遮った。

 新八郎のなかで、疑惑が確信に変わった。


(お衣智は、浮気をしている)


 無理矢理にでも真相を聞きたかった。だがそれと同じくらい聞きたくなかった。本当にお衣智が浮気をしていたら心の拠り所が無くなってしまうと、新八郎は怖くて堪らなかったのだ。


(どうしたらいい?)


 降格がきっかけとなったのか、新八郎はうじうじと悩むようになっていた。悶々とした日は五日続き、そこでようやく決意した。


(お衣智のあとをつけよう)


 まだ本当にお衣智が浮気していると決まったわけではない。そんなこと、あるわけがない。お衣智と新八郎は見合いでなく、珍しく恋をして夫婦となったのだ。

 他の夫婦より絆は強いと思っている。

 数日後。

 新八郎は、出かけるお衣智のあとをつけた。ここ数日、出仕したあと屋敷の近辺に潜んでいたのである。

 お衣智は両国近くの、人気の無い小さな神社に来た。誰かを待っているのか、しきりにあたりを見回している。

 すると、そこに来たのは……。


「な…。」


 思わず出た声に、慌てて口を塞ぐ。


「瀧澤さま」


 来たのは瀧澤亮之助。






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