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無能同心  作者: 葉弦
第五章 過去〜奇縁〜
34/51

其ノ肆

「なにっ?」


 かわされるとは思わなかったのか、相手に動揺が走った。その瞬間を見逃さない。一気に十手で手を叩いて、三振りの太刀を地に落とした。三人は唖然としている。


「あんたは、どうする?」


 新八郎は関係無いような顔で立っていた頭格の男に聞いた。男は新八郎に一瞥をくれると、つまらなそうに背中を返した。


「若さまっ!」


 三人の男達は慌てて太刀を拾うと、『若さま』を追っていった。もう娘に興味は無いようだ。


「大丈夫かえ?」


 十手をしまい、新八郎はうずくまって震える娘に声をかけた。だが娘は、よっぽど恐ろしかったのか、しゃくりあげているばかりだった。

 なぜ、この娘がこんな目にあってしまわなければならなかったのか。

 怒りが頭に上がった新八郎は、


「手下の躾ぐらいしやがれっ!」


 と、『若さま』の背中に向かって怒鳴っていた。




 ──それから数日経ったこと。

 定町廻りだった佐倉新八郎に、突然の役職の移動の命が下された。

 蔵書管理掛。

 奉行所内の書物を管理する役目だというが、聞いたこともない役職だ。

 それもそうで、この数日に作られた役職だという。新八郎を移動させるためだけに。

 一日中、書物の出入りに目を配るだけの暇な役方。

 それは降格どころか、左遷にも等しい配置換えだった。

 なぜた。新八郎は上役達に訴えた。同役達も声を荒げてくれた。それだけ理由が不明な移動命令だったのだ。

 しかし上役達は黙りを決め込むだけ。ただ一人、新八郎を定町廻りになるよう推してくれた与力だけが、ひそかに教えてくれた。

 新八郎が降格するように動いたのは、ある大身旗本だと。名前までは教えてもらえなかったが、新八郎は、もしやと思った。


(数日前の悪漢ども……)


 あの四人の男のうちの一人が、若さまと呼ばれていた。

 新八郎はすぐに、手先である岡っ引きを使って調べた。すると、やはりそうだった。




 *****




 新八郎は一息つく。

 とても静かだった。もう世間は床に入っているのだろう、耳が痛いほどの静寂だった。

 行灯の明かりがゆらゆらとぶれ動き、新八郎と鋼之助の影が揺らめく。独特な空気が部屋を支配している。

 新八郎が鋼之助の目を見た。その目は、たくさんの感情が込められているような瞳だった。


「……その男の名は、瀧澤亮之助。そなたの父だ」

「………」


 鋼之助は、ただ頷いていた。話を聞いていて、なんとなく、そうではないかと思っていたのだ。


「若かったわしは、瀧澤どのに直訴した」


 自嘲めいた笑いを浮かべて、新八郎は話を続けた。




 *****




「瀧澤どの! お待ちくだされ」


 瀧澤亮之助は大身の旗本である瀧澤家の次男であった。だが跡取りではないので、毎日ぶらぶらと町をふらついている。新八郎はそこを狙った。

 夕闇が迫る頃。神田川の土手近く。

 亮之助はこの日も数人の取り巻きを引き連れていた。


「なんだ、またおまえか」


 取り巻きが薄ら笑いを浮かべた。新八郎の身に起こったことを知っているのだ。新八郎は取り巻き達には構わず、亮之助の前に進み出た。


「瀧澤どの、撤回してくだされ」

「何をだ?」


 つまらなそうに亮之助が応える。この男は、何にも興味は無いのだろうか。


「私への嫌がらせです。あなたは奉行所に手を回し、私を……っ」


 怒りで、言葉が続かない。それでも新八郎は、こんな目にあっても、あのとき娘を助けたことを後悔していない。同心として当然のことをしたのだ。

 だがそんな新八郎に油を注ぐように、


「私は知らぬよ」


 と、無表情で亮之助が言う。


「なにをっ」

「ただの部屋住みの私が、奉行所に手回しできると思うのか?」


 そう言ったときの亮之助の顔に、一瞬だけ苦味が走った気がした。


「……あなたではないのですか?」


 確かに、大身といえど部屋住みが奉行所に根回しするのは無理だろう。ならば誰だと、新八郎が考えたそのとき、亮之助が冷笑を浮かべた。


「ただ、兄上に……」


 瀧澤家は亮之助の兄が家督を継いでいる。


「町方同心に無実の罪をきせられそうになった。とは、言ったがな」

「なにっ!」


 取り巻き達が一斉に笑った。新八郎を嘲笑うように。亮之助は新八郎をからかったのだ。

 侮辱に身体の内が怒りで焦げ付きそうだ。だがここで手を出したら、それこそ相手の思う壺だ。新八郎は、ぐっと両手を握り締めて堪えた。


「佐倉新八郎」


 亮之助が呼んだ。


「もう一度、町廻りに戻してやろうか?」


 悪意しか感じられない口調だ。そのとおり、


「土下座をしてみせたらな」


 と、顔を歪ませた。


「……っ!」


 殴りかからなかったのはなけなしの理性か、それとも咄嗟に浮かんだ愛妻のおかげか。新八郎はくちびるを噛み締めて考えた。


(どうすべきだ?)


 胸の中が荒れ狂う。土下座をすれば定町廻りに戻れる。しかし亮之助が約束を守るとは限らない。だが……。ぐるぐると思考が繰り返す。

 しばらくして、新八郎は膝を折ろうとして……止めた。

 あのときの、泣きじゃくる娘の姿が脳裏に浮かんでいた。土下座をすれば、自分に非があると認めるようなものだ。間違ったことなどしてはいない。新八郎は、堂々と胸を張った。






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