其ノ肆
「なにっ?」
かわされるとは思わなかったのか、相手に動揺が走った。その瞬間を見逃さない。一気に十手で手を叩いて、三振りの太刀を地に落とした。三人は唖然としている。
「あんたは、どうする?」
新八郎は関係無いような顔で立っていた頭格の男に聞いた。男は新八郎に一瞥をくれると、つまらなそうに背中を返した。
「若さまっ!」
三人の男達は慌てて太刀を拾うと、『若さま』を追っていった。もう娘に興味は無いようだ。
「大丈夫かえ?」
十手をしまい、新八郎はうずくまって震える娘に声をかけた。だが娘は、よっぽど恐ろしかったのか、しゃくりあげているばかりだった。
なぜ、この娘がこんな目にあってしまわなければならなかったのか。
怒りが頭に上がった新八郎は、
「手下の躾ぐらいしやがれっ!」
と、『若さま』の背中に向かって怒鳴っていた。
──それから数日経ったこと。
定町廻りだった佐倉新八郎に、突然の役職の移動の命が下された。
蔵書管理掛。
奉行所内の書物を管理する役目だというが、聞いたこともない役職だ。
それもそうで、この数日に作られた役職だという。新八郎を移動させるためだけに。
一日中、書物の出入りに目を配るだけの暇な役方。
それは降格どころか、左遷にも等しい配置換えだった。
なぜた。新八郎は上役達に訴えた。同役達も声を荒げてくれた。それだけ理由が不明な移動命令だったのだ。
しかし上役達は黙りを決め込むだけ。ただ一人、新八郎を定町廻りになるよう推してくれた与力だけが、ひそかに教えてくれた。
新八郎が降格するように動いたのは、ある大身旗本だと。名前までは教えてもらえなかったが、新八郎は、もしやと思った。
(数日前の悪漢ども……)
あの四人の男のうちの一人が、若さまと呼ばれていた。
新八郎はすぐに、手先である岡っ引きを使って調べた。すると、やはりそうだった。
*****
新八郎は一息つく。
とても静かだった。もう世間は床に入っているのだろう、耳が痛いほどの静寂だった。
行灯の明かりがゆらゆらとぶれ動き、新八郎と鋼之助の影が揺らめく。独特な空気が部屋を支配している。
新八郎が鋼之助の目を見た。その目は、たくさんの感情が込められているような瞳だった。
「……その男の名は、瀧澤亮之助。そなたの父だ」
「………」
鋼之助は、ただ頷いていた。話を聞いていて、なんとなく、そうではないかと思っていたのだ。
「若かったわしは、瀧澤どのに直訴した」
自嘲めいた笑いを浮かべて、新八郎は話を続けた。
*****
「瀧澤どの! お待ちくだされ」
瀧澤亮之助は大身の旗本である瀧澤家の次男であった。だが跡取りではないので、毎日ぶらぶらと町をふらついている。新八郎はそこを狙った。
夕闇が迫る頃。神田川の土手近く。
亮之助はこの日も数人の取り巻きを引き連れていた。
「なんだ、またおまえか」
取り巻きが薄ら笑いを浮かべた。新八郎の身に起こったことを知っているのだ。新八郎は取り巻き達には構わず、亮之助の前に進み出た。
「瀧澤どの、撤回してくだされ」
「何をだ?」
つまらなそうに亮之助が応える。この男は、何にも興味は無いのだろうか。
「私への嫌がらせです。あなたは奉行所に手を回し、私を……っ」
怒りで、言葉が続かない。それでも新八郎は、こんな目にあっても、あのとき娘を助けたことを後悔していない。同心として当然のことをしたのだ。
だがそんな新八郎に油を注ぐように、
「私は知らぬよ」
と、無表情で亮之助が言う。
「なにをっ」
「ただの部屋住みの私が、奉行所に手回しできると思うのか?」
そう言ったときの亮之助の顔に、一瞬だけ苦味が走った気がした。
「……あなたではないのですか?」
確かに、大身といえど部屋住みが奉行所に根回しするのは無理だろう。ならば誰だと、新八郎が考えたそのとき、亮之助が冷笑を浮かべた。
「ただ、兄上に……」
瀧澤家は亮之助の兄が家督を継いでいる。
「町方同心に無実の罪をきせられそうになった。とは、言ったがな」
「なにっ!」
取り巻き達が一斉に笑った。新八郎を嘲笑うように。亮之助は新八郎をからかったのだ。
侮辱に身体の内が怒りで焦げ付きそうだ。だがここで手を出したら、それこそ相手の思う壺だ。新八郎は、ぐっと両手を握り締めて堪えた。
「佐倉新八郎」
亮之助が呼んだ。
「もう一度、町廻りに戻してやろうか?」
悪意しか感じられない口調だ。そのとおり、
「土下座をしてみせたらな」
と、顔を歪ませた。
「……っ!」
殴りかからなかったのはなけなしの理性か、それとも咄嗟に浮かんだ愛妻のおかげか。新八郎はくちびるを噛み締めて考えた。
(どうすべきだ?)
胸の中が荒れ狂う。土下座をすれば定町廻りに戻れる。しかし亮之助が約束を守るとは限らない。だが……。ぐるぐると思考が繰り返す。
しばらくして、新八郎は膝を折ろうとして……止めた。
あのときの、泣きじゃくる娘の姿が脳裏に浮かんでいた。土下座をすれば、自分に非があると認めるようなものだ。間違ったことなどしてはいない。新八郎は、堂々と胸を張った。




