其ノ参
鋼之助はごくりと、唾を飲み込んだ。ちくちくとした痛みが腹を襲う。
「………」
ふと鋼之助は、恐る恐る天井を見た。薄暗いそこ。行灯の弱い明かりでは、隅まで明かりは届かない。なぜだか子供の頃から、ときどきそこに何かがいるような気がしてしまうのだ。だが実際には、いるわけがない。
そうは思うが、夕方に見た男のことが頭から離れないのだ。
「……っ」
ついに鋼之助は、いてもたってもいられなくなり、部屋から飛び出ていた。月光を浴びる濡縁で、溜め息を一つ溢す。
──知りたいけど、知りたくない。
相反する気持ちが、胸のなかでせめぎ合う。だけどこんな乱れた気持ちのままで、いつまでもいられない。
鋼之助の足は、新八郎の部屋に向いていた。
◇◇◇
「どこから、話すべきかな……」
新八郎が切ない笑いを浮かべる。
鋼之助が新八郎の部屋を訪れると、来るとわかっていたのか、まだ床が延られていなかった。
部屋のなかに招かれ、対座してしばらく。新八郎は、そう言ったのだ。やはり新八郎は、あの金目の男のことを、何かしら知っているらしい。
鋼之助は新八郎が話し出すのを待った。
「始まりは……、そう二十五年前だ」
「二十五年も前?」
思わず聞き返していた。新八郎は金目の男を、そんな昔から知っていたのかと、鋼之助は驚いたのだ。
「うむ。……鋼之助」
「はい」
新八郎が姿勢を正した。つられて鋼之助も姿勢を改める。
「今から話すことは、そなたにも関係する話だ」
「え……」
突然の宣告に、鋼之助は瞠目した。金目の男と対峙したときに感じたもの。やはり自分と、あの男は何かしらの繋がりがあるのだ。
「そ、それは、母にも関係あるのでしょうか?」
思わず出た言葉に、新八郎が驚嘆の顔を見せた。やはり関係があるのだ。そして新八郎も知っている。
鋼之助は焦った口調で続けた。
「あ、あの、夕方に見た、金目の男を見ていると、なぜか、母を思い出していました。母も、あの男と同じ目をして……」
それきり鋼之助は黙った。頬が冷たい。いつのまにか涙を流していた。今まで塞き止めていた杭が外れてしまったように。
何ゆえ、こんなにも涙が溢れ出てくるのか。不思議でならなかった。
「そうか、そうか……」
鋼之助をいたわるように、新八郎が頷く。
新八郎はゆっくりと語りだした。
*****
あれは二十五年前のこと。
当時、佐倉新八郎は二十八歳だった。妻を娶って半年。ますます働きに熱が入っている。
若いが才を買われ、南町奉行所定町廻りにも抜擢されたばかりでもあった。その期待に応えるべく、新八郎は毎日、町廻りを熱心に行っていたのである。
お江戸の町を悪人の好きにはさせやしねえ。それが信条だった。
この日も新八郎は、町廻りをしていた。とくに町に異変もなく、良かったと思う反面、肩透かしを食らったような気分で歩いていた。当たり前だが、そうそう悪事が転がっているわけはないのだ。
だが、両国の外れに差しかかったあたりで、女の悲鳴が聞こえた。水を得た魚のように、新八郎は叫び声が聞こえたほうに向かった。
町外れの寂れた場所に着くと、
「おい、何してやがる」
そう言って出ていった。そこでは袴を履いた四人もの男が、一人の若い娘をからかっていたのである。
男達は新八郎と同年齢ぐらいであった。いい年をして、泣いている娘の着物の裾を捲ろうとしたり、胸に手を滑り込ましたりと不埒を働いている。
「ああ? なんだ、不浄役人か」
にやにやと男達が嘲笑う。『不浄役人』とは、侍が与力や同心に向けて使う蔑称だ。江戸の町や人々を守るお役であるが、罪人を相手にする町方は侍ではないと、侍達は思っている。
この男達もその部類だ。太刀を差している。
勢いのままに出ていったが、男達の身につけている物は値の張りそうな物ばかり。とくに、娘をからかう三人と少し距離をとって、どこかつまらなそうに斜に構えている一人の男の着ている物は、上物の仕立てだった。大小の拵えも凝っている。雰囲気から察して、おそらくこの集まりの頭格だろう。
どこぞの旗本か、それとも藩士であろうか。
新八郎は身構えた。だが引こうとは思わなかった。町方は基本的に、御家人や旗本を捕まえることはできないが、現行犯であれば手出しはできるのだ。
「どこの御家中かは存ぜぬが、その娘を離してやってはどうだ」
新八郎が言うが、男達は冷笑を浮かべていた。
「不浄役人ごときが、俺達に手を出せるのか?」
「俺達を誰だと思っているのだ」
口々に高圧的に言う。同心なんぞ、何とも思ってないようだ。
その手はまだ娘の身体に張り付いている。あろうことか、下半身にも伸びていた。娘を解放する気は無いようだ。鴉にいたぶられた子猫のように、娘は震えている。
弱者を見捨てるつもりはない。相手が武士であろうと、新八郎は悪漢を放置するつもりはなかった。
(さて、どうするか)
こういう卑劣な相手は、煽れば簡単に手を出してくるのは経験上わかっていた。相手から手を出せば、たとえ家禄の高い家でもそうそう口を挟めない。新八郎は、そう計算した。
「ふん」
すると新八郎は、ゆらりと身体を無防備にし、不敵そうに鼻で笑った。おまえらなんか相手にもならない。そういう笑いかただ。
「……何がおかしい?」
思惑どおりに、一人の男が前に出てきた。あとの二人もいきりだっている。頭格の男だけは、やはりつまらなそうに一歩引いていた。
「いやなに、四人もおらねば、たった一人の娘にさえ相手にされぬかと思ったら哀れでな」
くくくと、笑ってみせた。すると当然のように男達は、
「なにっ」
「キサマッ!」
「愚弄しおって!」
釣れた。新八郎は胸中で笑った。
三人の男達は一斉に抜刀した。男達の心根とは違い、曇りのない白刃だ。手入れが行き届いている、というより、使ったことがないのだろう。その構えから察するに、剣の腕はたいしたことがない。このくらいの奴らなら太刀で相手をするまでもなかった。新八郎は十手を帯から引き抜いた。
「はあああっ!」
「おおうっ!」
「はあっ!」
三人は一斉に踏み込んできた。
「ふん」
だが新八郎は軽く身を翻して、三本の剣先をかわした。